才能とは何か。あるいはエンターテインメント論。又はプロフェッショナル論
どうも大風呂敷ばかり広げてしまうだんちです。
「漫画における演技論」すらまとまる気配が無いのに、最近思った「エンターテインメントにおける才能とは何か」について、ちょこっと書きとめてみたいと思います。
このことを思ったきっかけはいくつかあって。
「苺ましまろ」の最終回を見ても思ったし、佐藤順一監督の「ARIA」を見ても思っていたのですが。
大きなきっかけは今日テレビで放映されていたJリーグ「浦和対柏」戦を見たことです。
「苺ましまろ」や「ARIA」はポジティブなきっかけで、「浦和対柏」はネガティブなきっかけです。
今日の「浦和対柏」戦、前半15分で退場者が出た時、僕は「これはレフェリー酷過ぎる」と思いました。
退場のきっかけになったプレー自体は目を離していて見ていないのですが、それでも90分のゲームの前半15分で退場者が出るなんて、ありえないことですよ。
それはルールをレフェリーなりに適用した結果だということなのかもしれません。
でも、お客さんはお金を払って試合を見に行っているわけじゃないですか。
そのサッカーを楽しもうと思って見に行った時間とか気持ちとか労力とか、そういったものをものすごく裏切る判定だと、僕は思いました。
だって、そこからは人数の不均衡が75分も続くことから、これはもう試合にならないことは明白なわけじゃないですか。
試合をコントロールして、エンターテインメントであるプロフェッショナルサッカーを見せるという立場であるレフェリーは、もっとエンターテインメント、プロフェッショナルということについて認識を深めるべきです。
ただ単に局面だけを見て「はい。このファールは警告。これも警告。はい退場」とするだけならば、アマチュアの試合だけを裁くべきです。
そんな意識でレフェリーをするのであれば、エンターテインメントの現場で仕事をするプロフェッショナルとしては「才能が無い」としか言えません。
では。この「才能」とは何なのだろうか。
と思うわけです。
これについて、僕は「苺ましまろ」の最終回を見た時にヒントを得た気がしました。
結論を先に言うと、エンターテインメントにおける才能とは、「プレゼントしようとすること」なのではないか、と思うのです。
「苺ましまろ」の最終回、見ていて「これは、視聴者に何かを与えたいと思って作っている。それは、作品のサブタイトル通り、プレゼントしたいものがあるということだな」と感じました。
それは苺ましまろ最終回の感想に書いた通りです。
で、そういう印象は佐藤順一監督の作品を視聴していても感じてきていました。最近だと「おジャ魔女どれみナ・イ・ショ」などを見て深い感銘を受けたものです。
その佐藤順一監督の「ARIA」を第1話、第2話と楽しんで視聴し、続けて楽しんでいこうと思っているのですが、やはりこの作品にも佐藤監督の「プレゼントしようとする」サービス精神が感じられます。
その「与えようとすること」「プレゼントしようとすること」が、「才能」の正体なのではないか、と思うのです。
このことは、エンターテインメントに関わる上では最上級に重要な素養であり、また最も初歩的かつ基本的な姿勢であるのではないか、とも思います。
前述の「浦和対柏」戦のレフェリーは、エンターテインメント・プロスポーツに関わる人間としては、その最も基本的な姿勢に欠けていて、レフェリーとしてのスキルについてはともかくとしても、「エンターテインメント人」としては「才能が無い」と評価できるのではないでしょうか。
その点において、日本人レフェリー全体でもっと意識を持って改善されていくことを切に願っています。
さて。
エンターテインメントにおける才能を「プレゼントしようとすること」だとするならば、これはある程度先天的なものでありつつも、後天的に鍛え上げることもできる、そういったものであるとも言えるのではないでしょうか。
つまり、教育、訓練次第で、「プレゼントしようとする」意識や能力を伸ばすことができる。
仕事をする上では当然対価は必要だから、ちゃんとお金を貰っていくことになるわけですが。でもそこで、貰うお金以上に何かを与えたい、と意識していくことが大事なのだと思います。それは、ちょっとしたことでいいんですよね。
前述のレフェリーのことで言ったら、「素晴らしいサッカーの試合を見てもらいたい。今この時間を我を忘れて楽しんでもらいたい。チケット代以上の試合になるように、頑張ってレフェリングをするぞ!」と思い、仕事に臨むことがそうなるかと思います。
ただ機械的に「はい。イエローカード。はい。レッドカード」とするならば、人間がやる意味が無いんですよ。
そんなの観客を入れてやる意味無いじゃないですか。
また、この「プレゼントしようとする」ことについて、もうちょっと考察していくと。
「なんでもかんでもあげようとすればいい」わけではない、ということも言えるかと思います。
「プレゼント」ということで言えば、「貰って困るプレゼント」や「貰って困るタイミング」があるわけです。そこは、「いつ」「誰に」「何を」あげようとするのか、が大事なわけですね。
それもまた、「プレゼントしよう」という意識そのものを教育や訓練で獲得できるように、勉強していき経験を積んでいくことで洗練されていく部分なのだと思います。
つまり、バランスを磨く、ということですね。
佐藤順一監督はベテランでもあり、こういったバランス感覚に非常に秀でた監督だと思います。
アニメーションや漫画などに限らず、あらゆるエンターテインメントの仕事をする人は佐藤順一監督の仕事に触れるべきだと思います。
また、「苺ましまろ」では、最初はこの「プレゼントしよう」という意識のバランスは悪かったのですが、回を追うごとに洗練されていき、飛躍的に成長したように感じました。
その意味では「苺ましまろ」を最初から通して見ると、いかに成長していったのかが分かるかもしれませんね。
何かを「プレゼントしようとすること」は、簡単なことです。
そして同時に難しいことです。
僕も、長いこと気付かないで、勘違いして今まで来てしまったように思い、強く反省しています。
どうしても、人間得をしたいんですよね。自分だけはより多くを得たい、と思ってしまう。
でも、エンターテインメントをやる人間はそうではいけない。
僕にも人にプレゼントできるものがあるはずです。
それを、勿論押しつけるのではなく、喜んで貰ってもらえるように、頑張っていきたいなぁと思います。
やっぱりそれは。
楽しい作品、素晴らしい作品、又、素晴らしい試合やプレーなどから、沢山のことを「プレゼントしてもらっていた」から、感じられたんでしょうね。
多くのプレゼントをくれた素晴らしきエンターティナー達に感謝しつつ、この記事を終わります。
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