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2006年3月17日 (金)

カレイドスター~Legend of phoenixレイラ・ハミルトン物語~を見た

 へとへとになりながら〆切を乗り切り、レンタルビデオ店に車を走らせ、DVDを何本か借りてきました。
 それで、レンタルで見始めた「カレイドスター」本編をやっと見終わり、それと一緒借りてきたにOVA作品「レイラ・ハミルトン物語」も見ました。
 やー。良いお話でした。本編も涙を流しながら堪能しましたが、OVAも非常に良くって泣きましたねー。
 疲労でろくな文章が書けないかもしれませんが、感想を書いてみたいと思います。

 このお話は「レイラの物語」ということで、レイラが完全に主役なんだと思っていましたが、そらが常に「対」になる形で描写されていましたね。
 だから、それを見ていて「お。二人主人公って感じなんだ」と思いました。
 二人ともフェニックスを演じることで、同じ悩みにぶつかるわけですね。
 「フェニックスをどう演じたらいいのか?」
 っていう。
 勿論、悩みのニュアンスはちょっと違っていて。
 レイラは「新しい自分を見つけられない」
 そらは「自分のフェニックスを見つけられない」
 という感じなわけですね。

 で、レイラはチャリに乗って飛び出し、そらはそんなレイラを探しに飛び出す。

 だから、レイラの旅の物語でありつつも、そらの旅の物語でもあるんですよね。
 そこが、「あ。こういう風に描くんだ」とまず思ったところでした。
 頭が働いているうちに先に書いちゃいますが、こういう描き方は「レイラとそらは対等」ということを描写していたように思うんですね。
 それは最後まで見て思ったわけですが。

 先輩後輩の立場とか、そらにとってレイラはやっぱり憧れのスターだったりとか。そういう部分では対等ではないかもしれないけども。
 だけど、そういう変わらない部分がありつつも二人の関係が今回はっきりと変化を見せた部分が、「二人は親友になった」というところなんだと思うんですね。
 それは主にレイラ側からの認識の変化というところでもあるわけですが。
 テレビシリーズの中では「偉大な先輩とその先輩を追い抜く後輩」という関係が変わることはなくって、シンパシーがあることは描かれたりはするけれども、お互いがお互いを求め合い、影響を与え合う「友人」という関係としては描かれていませんでした。
 その意味では、「偉大な先輩」と「追い抜いた後輩」とが、やっと1人と1人の人間同士として巡り合うことができた、そういうお話だったと言えるのかもしれません。
 だから、「レイラ・ハミルトン物語」といいつつも、そら側からの視点も「対等に」描写する必要があったんだな、と思うんですね。
 ずっと知り合いだし、絆の深い二人なんだけども、この「レイラ・ハミルトン物語」は「出会い」の物語だと感じたわけです。

 レイラは旅の間そらのことばかりを考え、そらによって自分が変えられたという事実に向き合います。
 そらは、自分のフェニックスを見つけることもできないのに、その行動に意味があるのかどうかも分からないままにレイラを探しに行きます。
 レイラは、人に変えられる自分、人を求める自分、感情のままに振る舞う自分を認めた時に、そらに会い涙を流します。
 そらは、レイラの髪を切り、人に変えられる自分を受け入れたレイラを見て、レイラに憧れる自分の燃える気持ちが蘇ります。
 そして、互いに影響し合い、変化を与え合う、対等な友人関係が生まれたのだと思うんです。
 そら側からのレイラに対する心配する気持ちは明確には語られないわけですが、レイラを心配して駆けつけるその行動は、友人に対してする行動そのものですよね。
 駆けつけてみたら、そこには涙を流す「友人のレイラ」がいて。
 レイラからは振り向いたら「友人のそら」がいた。
 そういう「出会い」だったんだと思うんですね。

 勿論、メインテーマは「フェニックス。蘇る」ということで。
 レイラは感情の赴くままに泣いていた自分を蘇らせることで「本来の自分」を取り戻し、そらはレイラに憧れて追いつきたいと願っていた自分の気持ちを蘇らせ、ゴールデンフェニックスを演じることを決意します。
 メイもメイで「ゴールデンフェニックスに勝つのよ!」とそらに勝ちたい自分を蘇らせていましたね。
 それがメインテーマだったとは思います。
 だから、僕が感じた「出会い」は裏テーマというようなものかもしれません。
 あ。いや、でもそんなことないか。
 「出会い」がテーマの作品ともいえるんですよね。
 レイラとマッコリーの出会いが描かれて、旅の間にレイラは三つの出会いを経験して。

 そうそう。
 この旅の中での三つの出会いはすごく象徴的で面白いんですよね。
 最初の同年代の女との出会いは「現在の自分」
 人に頼る適当な女なわけですが、その姿は極端に誇張されたあの時のレイラの姿そのもの。
 次の出会いは老夫婦。これは「未来の自分」
 摂生などせず、たっぷりと太り旦那さんと平凡に生きるその姿は変化を受け入れた姿そのもの。
 最後の出会いは少女。これは「過去の自分」
 転んで泣きたいのに必死に我慢するその姿は過去の自分そのもの。
 その過去の自分を重ねて、泣くのを我慢している少女に「よく我慢したわね」と誉めてあげることで、レイラは過去の自分をやっと許すことができる。
 その時に、「そうだ。そらに会いに行こう」と素直に思えるわけですね。すると、そのそらが追いかけてきていて、そらに出会う。

 この描写の仕方は「すっげぇなぁ…」と、物語を作る人間としてはもう感心するしかないことですよ。

 そのテクニック的な部分は置いておくとして。
 やはり「出会い」は人に変化を与えるもので、それによって「蘇るもの」があるんだな、と思いますね。
 レイラにとっては、その蘇ったものによってそらという親友を得て、マッコリーという友人、キャシー、メイ、ケンという仲間を得た。だから彼女は自分の手でコーヒーを入れるわけですね。
 その過程が描写され、心の動きを演じられ、見せられることで、泣ける程の感動を受けることができたんだな、と思います。
 自分の中の受け取り方が変わることで、それまでの関係が新しいものに変わっていくことは、誰にとっても起こりうることで、物語としては地味なことかもしれないけど、やっぱり劇的なものなんですよね。

 ここまで長々と書いていて、やっとどこに感動したのか、が分かってきました。
 それは「心」が描写されているから、なんですよね。
 エピソードや物語としては地味かもしれないけど、OVAという環境だからこそ、「心」という部分にフォーカスして見せてくれていて。見ているこちらに共感を与え、感動させてくれる。
 そういう作品なんだなと思います。
 そのためには、心を分からなければできないし、感じなければできないことでしょう。
 やっぱり佐藤順一監督はすげぇですよ。
 どうやったらこんな作品が作れるのか…。

 「蘇る」ということでいうと、僕にとっては、改めて佐藤順一監督を尊敬し憧れる気持ちがそうかもしれません。いや、別に失っていたわけじゃないから蘇ってはいないか。でも、作品を見る度に沸き上がる気持ちですよね。
 やはり佐藤監督は物語を作る者にとって宝ですよ。
 今後も、沢山の素晴らしい作品を作って多くの視聴者を楽しませて、そして物語を作る者にも多くのことを教えて欲しいと念願します。

 作品の感想はこれで終わりなんですけれども。
 この作品では佐藤監督は音響監督もやっているんですよね。東映スタイルですね。
 SEやBGMに関しては専門のスタッフに任せているんでしょうけど、声優さんの演技に関して直接指導するスタイルを取ったようですね。
 とりあえず2回見たんですが、もう数回見てみて、今度は「音響監督佐藤順一」に注目して、声優さんの演技や効果音、音楽の使い方などについての感想も書いてみようかな。

 そんなわけで、「カレイドスター~Legend of phoenixレイラ・ハミルトン物語~」の感想を終わります。

 しかし。やっぱり、眠かったり疲れていたりすると、なんだか長文になっちまいますね…。
 もっと切れ味をもって書きたいよなぁ…。
 読みにくかったと思いますが、ご容赦を。

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