テレビの公共性と漫画の個人性からいろいろ考えてみた。
重度の風邪からの回復も順調で、そろそろ小説とか妄想小説とかWEB漫画とかの記事を書いて(描いて)いきたいと思っています。でも、今回もちょっと最近思っていることについて書こうかと思います。
今回のテーマは「ARIA THE NATURAL」第1話の感想で少し書いた「テレビは公共性があるメディアで、漫画は個人性があるメディアだ」という部分に関してです。
とりとめのない考察になる予感がぷんぷんするのですが、なるべく…なるべく要点を押さえる形で書いてみたいと思います。
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テレビは、スイッチを入れると画面と音声で情報がどんどん流れ出して来て、視聴する側がその情報を受け取ろうとしなくとも流れ続ける発信力があり、同時に国土のほぼ全域をカバーする広域性がある。そこに公共性の強さがあるように思う。決められた時間に放送され、視聴する側がそこに合わせるという点でも情報の共有性、公益性があるのではないだろうか。
そこには、テレビという電化製品の成り立ちも関係しているのかもしれない。
それに対して、漫画は閉じられたページを開いて読むところに、テレビよりももっと個人性が強いように思う。発売日は決まっていても、読者は読みたい時に読むので情報の共有性はテレビよりはずっと低い。発行日が古いものでも過去に遡って読むことができるため、読者は自分の生活の中に漫画を自分のペースで組み込むことができる。
ラジオはどうか。ラジオも時間が決まって放送されるものであるが、「音声のみ」というこのメディアは共有制、公益性がありつつも、テレビよりも個人性が強いように思える。「周波数を合わせる」という行為と「チャンネルを変える」という行為は似ていてもかなり大きな違いがあるように感じる。
インターネットも個人性が強いメディアだと思う。
このあたりは「こんな感じだと思う」という程度に止めて話を進める。
公共性があるテレビだが、その中で放送されるアニメーションは通常のテレビ番組とは異質なように思える。
アニメーションは漫画のように個人性が強いテレビ番組なのではないか。特に、幼児向けではないアニメーション作品は独特の視聴者層と独特の視聴スタイルを確立しつつあるように感じる。
視聴率の高い低いに関わらず、そのアニメーション作品を好む視聴者は、そのアニメーション作品の世界をより自分のものにしようと関連商品を買い、情報を収集する。
そんなアニメーションがどうも最近「商品」として世間的に認識を変えつつあるようだ。
日本を代表する文化だと言われ始めたり、「オタク」的な商品展開がいろいろ注目を集めているように感じる。根拠となる情報はいろいろあるだろうけど、今は書くことに専念。
ただ、アニメーションの持つ個人性というものは、作品の公開手段がテレビ媒体中心であるため、その認識は過渡期にあるように思える。
または、日本の戦後史の中で強烈な公共性を持って君臨してきたテレビというものの「観方」そのものが、今過渡期を迎えていると言えるのかもしれない。
「楽しむ」ということは個人の感性におけるもののはず。
であるならば、それがテレビ番組であっても、個人個人が楽しむために受け取ることになる。
勿論、ニュース番組は違う。
「これは公共性の強いもの」「これは個人的に楽しむもの」という分け方が、テレビ番組を視聴する際にもあって良いのだと思う。
アニメーションは公共性が強く認識されているテレビメディアにあって、際立って個人性が強く、その視聴のされ方、楽しまれ方は近い将来のテレビ番組の有り方のモデルとなるものかもしれない。
ただ、過渡期だと思えるのは、アニメーションを観る側にも「これはテレビなんだ」という意識がどうしてもあって、個人的な視聴に専念できる程には個人性が認識されていないと感じるからだ。
アニメーション作品という個人性の強いコンテンツであっても、観る側が「これは自分以外の視聴者に分かるのか?」と心配するケースがある。
先日放送された「涼宮ハルヒの憂鬱」の第1話でもそういう心配をした人は多かったと思われる。富野由悠季監督の作品などはしょっちゅう「これで他の人は分かるのか?ついていけるのか?」と心配されている。
その心配は「テレビ」または「映像作品」が強く公共性を持って視聴されてきたからなのだろう。
自分が充分にそれを楽しんでいる場合、「他の人はこれを見て楽しいと思えるのか?」と考えることにあまり意味はないのではないだろうか。それでも「でもこれテレビだし…」となるところに、テレビというメディアが他のメディアとは違った巨大さを持っていることの証なのだろう。
アニメーションが個人性を持って楽しまれているということが、以前からあまり変わっていないのだと仮定した場合。その個人性の強いアニメーションの価値が相対的に高まっているのは、やはりテレビメディアの有り方が変わりつつあるからかもしれない。
個人が部屋でテレビを見る、録画をして自分の生活の中で個人的に視聴する。そういうテレビの観方も増えてくる中で、テレビメディアの有り方はより個人的なものへと変化しつつあるのだと思う。勿論、だからといって公共性が失われるわけではないが、細分化する、といったところだろうか。
そういう中で、デジタル放送のこともあってテレビメディア側がやたらとでかいテレビを売ろうとするのは、ヒステリックな事態なようにも感じる。
テレビメディアの持つ公共性は失われないが、楽しむことの個人性はより高まっていくのではないか。それは情報メディアの成熟がもたらすものであって、避けることはできないのだと思う。
順番として、個人個人が楽しむコンテンツが多くの人の心を掴むことによって、大衆性、公共性を生む、というのが正しいのだろうし、今後よりそうなっていくのかもしれない。
その点は、漫画の人気作品の生まれ方などがモデルになると言えるということか。
そういったこともあって漫画原作の実写ドラマや映画が増えている、と言える部分もあるのかもしれない。
ただ、そこで既に生まれた「公共性」に甘えて「個人性」をおざなりにしてしまうと、良いものはできず、結局は「ただその人気タイトルを消費しただけ」になってしまうのだと思う。そこはよくよく注意して欲しいところだ。
その「公共性」と「個人性」をよく見ることができていない一つの現象が、最近の劇場用アニメーションの声優起用におけるテレビタレントの大量投入なのではないだろうか。
映画という公共の場で上映する性格のコンテンツだからこそ、より「公共性のあるタレント」を声優に起用するということがあるのかもしれない。テレビ会社企画の映画であればなおのこと。
そこでテレビタレントが当たり前のように起用されるその劇場用アニメーション作品は、果たして充分に人を楽しませ、その集積による公共性を有するものになるのか。
個人的な印象で語るならば、それは大概において成し得ていないように思える。
訓練され、オーディションを勝ち抜き、生活を賭け演じている本職声優の演技に感動することはあっても、無競争で役を勝ち得たテレビタレントが声を当てた演技で感動したことはほぼ皆無だからだ。(例外はある。成宮君はすげぇと思う。さすが舞台出身!)
確かに、一般的な知名度が低い声優よりも、知名度の高いタレントを使えば、一時的な公共性を有することはあるかもしれない。しかし、それが個人個人を楽しませるものにならなければ、最終的な公共性は生まれない。
現時点でそれなりの成果を得ていたとしても、将来的にはこのままではいかないだろうという心配がある。
前述の「他の人はこれ分かるの?(公共性あるの?)」という話で言えば、「人の評価はともかく、俺はこれ楽しくないなぁ(個人性あるの?)」ということになる。
その個人の印象は積み重なっていき、最終的には拡大していき、有名タイトルであったり有名タレントを起用したりすることで獲得していたその作品の「公共性」を、あっさりと破壊することになるのではないだろうか。
それを解決するには、起用されたタレント自身が本気になって演技をすることが必要だと思う。
もし、「声で演じる」ことが分からないのであれば、必死になって訓練するべきだ。
それができれば、そのタレントは真の意味で公共性を獲得できるのだと思う。本気で感動させてくれる人がいれば、視聴者はその人を追いかけ続けるからだ。
「アニメーションが公共性を持ち始めた」のは事実だと思う。しかし、それは個人が楽しめる要素の積み重ねによるものであろうから、テレビ関係者や当のアニメ関係者もそういった辺りに関して、よくよく考察する必要があるのではないだろうか。
さて。
漫画はどうなのだろうか。
漫画(商業漫画)は一部の人気作品に支えられていて、全体的には元気が無いのが現状だと思われる。そこには、「漫画は個人性の強いコンテンツである」という認識が欠けていることからそういう状況になるのだと思う。
漫画を作る雑誌社は、雑誌というものが持つ「公共性」に意識が向いてしまい、漫画が持つ「個人性」を殺してしまっているのではないだろうか。同じような主人公像がクローンのように生み出され、一旦人気が出ると終わるタイミングは作家の手を離れひたすら間延びする。これでは描く側のモチベーションが下がり、作品の元気も無くなってしまって当然だろう。
それが雑誌であれ単行本であれ、「閉じられたページを開いて読むことで外界を遮断する」という漫画はどうあったって個人性の強いものだ。満員電車の中で週刊漫画雑誌を読むのは、公共の場で個人に入り込むにはうってつけということなのかもしれない。
個人個人が楽しむことが積み重なり、人気作品へと繋がっていくプロセス以外に公共性を獲得する手段を持たないのが漫画メディアだ。
それ以外の方法としては、「公共性のある人物のドキュメントを描く」「公共性のあるテレビ番組を漫画化する」「アニメーション作品公開と同時に同タイトルの漫画を公開する」といった手段があるといえるかもしれない。しかし、こういった手段の漫画作品は、「既にある公共の一部分」であって、その漫画そのものが公共性を獲得したとは言えない。
ページを開けばその世界に入り込み、ページを閉じれば元の世界に戻る漫画メディアは、もっともっと個人性を全面に押し出して良いように思う。その意味では、持ち歩いて外でも読める同人誌漫画というものも出てくるかもしれない。もしくは、同人誌を外に持ち出して読むという形が出てくることもある、ということか。そういうものに近い雑誌もあって、徐々に力を持ちつつあるようにも思う。それもまた、個人性の積み重なりが公共性を高めていっている一つの現象なのかもしれない。
漫画はテレビにはなれない。作品がアニメーション化されることがあっても、アニメーションそのものにはやはりなれない。いっそそこで「描きたいことを描くぜ!」と開き直ることこそが、漫画メディアを蘇らせることになるのではないだろうか。
まとめると。テレビメディアも漫画メディアも、過渡期であるということになるか。
その過渡期にあって強力なコンテンツとなっているアニメーションの持つ「個人性」と「公共性」のバランスは、真剣に考察するテーマに成り得るように思う。ろくな考察をせずただ利用しようとしても、上手くはいかないだろう。
テレビも漫画もより面白くなっていくことを切に願って、この文章を終わる。
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ふー。書いたー。
とりあえず、読み直すのは今度にしてアップだけ先にしちゃおうっと。
そうだ。この「公共性」と「個人性」ということでいうと、「ARIA」のアニメシリーズが、視聴者の代理的立場を置いているのは「公共性からの配慮」だと感じたわけだけど、そこには「見てくれる一人一人に『ARIA』の魅力を知ってもらおう」という観点があったように思うんです。
つまり「『ARIA』を知らない人に見せる」という前提がある、ということですね。だけど、その公共性の配慮をしつつ、ちゃんと一人一人の「個人」に向けて作っている作品だと思うんですね。それによってまた公共性が生まれていって、DVDも売れるし新しく原作を買う人も増えるのだと思います。
その意味では、アニメーションの原作と異なっている部分に、「テレビの持つ公共性」の捉え方の成功モデルがあると言えるのかもしれません。
個人に偏るのではなく、公共に逃げ込むのでもなく、両方のバランスを絶妙に取っている「ARIA」のテレビシリーズはとても興味深いコンテンツです。
ずいぶん長く書いてしまいましたが、この辺で終わりますね。
これだけの長文が書けるようになったってことは、いよいよ完全復活か?
「いつまでも、どこまでも」や妄想小説も、頑張って書きますね!
以上で「テレビの公共性と漫画の個人性からいろいろ考えてみた。」を終わります。
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