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2006年6月22日 (木)

「涼宮ハルヒの憂鬱」第12話における「ペシミズム否定」(掲示板のmementoさんの書き込みより)

 おはようございます。だんちです。「涼宮ハルヒの憂鬱」第12話について、掲示板にてmementoさんが書いて下さったことが、作品を見る上で大きなヒントになるものだと感じ入りました。これは、多くの人に見ていただきたい、と思いましたので、当ブログの方にもコピー&ペーストして掲載させていただくことにいたしました。
 どうぞお読み下さい。

 *「『涼宮ハルヒの憂鬱』第12話における『ペシミズム否定』」というサブジェクトは、だんちが勝手につけたものです。

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ライブ・アクション memento  2006/06/20 (火) 19:44

mementoです。
この作品が、「現実は虚構なのではないか」という不信感に満ちた80年代に対する、一つのアンサーではないか、というだんちさんの意見にハッとさせられました。
12話ではそれを示すヒントのようなものがあります。一樹のやっていた演劇「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」がそれです。
これは「ハムレット」を下敷きに、その超端役のローゼンクランツとギルデンスターンの視点から「ハムレット」を語り直すというもので、ある意味「ハルヒ」とは、メタフィクション性という点で共通しているところがあります。原作者のストッパードの手で映画にもなりましたが、主演はティム・ロスとゲイリー・オールドマン…なんていうか、このキャスティングだけで、いかにマニアック臭が強いかというのがわかりそうです。
まあ、それはともかく、劇中で一樹がいっていた確率論云々の台詞なんですが、あれは何回コインを投げても表ばかりが出てくるという場面で、
「確率論に支配された現実の世界では、そんなこと(コインの表ばかりが出てくること)はあり得ない」
「だから、自分たちは現実から外れた存在だ」
「すなわちこれは筋が予め決まっている劇で、自分たちは劇中の登場人物だ」
ということを暗示する台詞なわけです。劇の内容も二人が、最終的に迎える死という結末を、本当なら行動次第で回避できるはずなのに、「劇中の登場人物」であるがゆえに回避できない悲劇とユーモアを描いたものになっています。
高校の文化祭の演劇でそんなもんをやってしまう一樹もどうかと思いますが、とにかく、あの演劇で一樹が視聴者目線で語っていたのは、
「この世界は(この作品は)誰かがつくり出した虚構で、僕らはその中で役を割り振られ、予め決められた行動をとるだけの存在なのです」
ということなのかもしれません。

しかし、その後でハルヒがあのライブをやってのけます。あのライブの臨場感、生々しい熱気は、上記の一樹が示したようなペシミスティックな運命論や、現実/虚構の区別といったものを吹き飛ばす、理屈抜きの力がありました。しかもそれをやったのは、現実を書き換える能力を持った、また、この作品において「超監督」の肩書きを持ったハルヒです。
そこから窺えるのは、
「この世界が虚構なら、私が現実に書き換える。コインの表しか出ないのなら、無理矢理にでも裏側を出させてみせる」
という、強いペシミズムの否定なのではないでしょうか。そして結局は一樹も、彼女の演奏でリズムをとり始めます。

もともとこの「ハルヒ」という作品には、通常のフィクションでの予定調和を拒否するようなところがあります。“エピソード・シャッフル”が一番そのわかりやすい例ですが、連続エピソードと単発エピソードをごちゃ混ぜにし、しかも時系列を無視して並べ直すという変則的な構成には、
「私たちは決められた物語を進めるための駒じゃない」
という、超監督のメッセージが聞こえてきそうです。
僕が個人的に9話と12話が好きなのは、ある特殊な事件が起こって、それに対処するSOS団メンバーという、“役割”が描かれているのではなく、ごく普通の一日を過ごす現実の人間としての彼らが描かれているからです。現実ですからもちろん、突然思いもよらないことも起これば(ライブに飛び入り参加して、そこで思いがけない充実感を得る)、なにか起こることを期待しながらも、結局なにも起こらない(ストーブを電気屋にとりにいっただけの一日)ということもあります。

さらに現実ですから、キャラクターたちは普通に年をとり、学校を卒業してSOS団は解散し、別れを迎えるというのも必然です。ハルヒとキョンの絆ですら、絶対の保証はありません。なにが起こるかわからないのが現実であり、苦痛や不安や孤独の落とし穴がいつ、どこで口を開けて待っているかわからないのが人生なんですから。
とはいえ、物語の中の、つくられた幸せや平和の中に留まっているよりは、悲しみや孤独に晒される危険を常に意識しつつも、そうであるがゆえにアクティブな生の実感を得られる現実を選ぶ、というのが、この作品のキャラクターたちのスタンスなのかもしれません。

12話のサブタイトル「ライブアライブ」…“alive”には口語で「生き生きと、活発に、しっかり」という意味がありますから、このタイトルには、
「この世界をアクティブに、きっちりと生きろ(ライブしろ)!」
というメッセージが込められているように思います。
それがアンサーなんじゃないでしょうか?

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 以上です。いかがだったでしょうか。掲示板の方ではこの内容に対してのguluさんによる書き込み、mementoさんのレスと、さらに続いていきます。よろしければ、そちらの方も是非お読みいただければ、と思います。

 参照:「涼宮ハルヒの憂鬱」第12話を見た。

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コメント

こちらの考察をすべて読んだあと、
2曲目の挿入歌「Lost My Music」の歌詞
"あなたは今どこで誰といるのでしょう?”
"楽しくしていることを思うと寂しくなって~”
にジーンとしました。ハルヒもキョンと文化祭を
過ごしたかった感じが伝わって。

投稿: 未来から来るから「みくる」? | 2006年6月23日 (金) 02:49

未来から来るから「みくる」?さん。こんにちは。コメントありがとうございます^^

12話の感想とmementoさんの記事と、全部読んで下さったのですね。ありがとうございます!
なるほど「Lost My Music」の歌詞で離れていることの寂しさが歌われているのですね。
本当はキョンと一緒に過ごしたいと思いつつも、一生懸命バンドの練習をしていたりステージに立ったりしていたんだと思うと、とても切なくなりますよね。
このブログが感動のお役に立てたのでしたらとても嬉しいです!

投稿: だんち | 2006年6月23日 (金) 15:16

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物書きfrom A to Z -  ホントに今更だが、涼宮ハルヒは好きじゃない# moricoro 『>ハルヒはその世界での神であり 私はむしろキョンこそが神であるのだろうと思うのですが。 『憂鬱』の6ページ5行目に「俺もこんな世界に生まれたかった!」ってありますし。 その少し後に...... [続きを読む]

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