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2006年7月 2日 (日)

正しい批評はどうあるべきか。

 こんにちは。だんちです。
 最近、アニメ感想記事を多く書いていることもあり、多くの方が書いていらっしゃる感想記事などを読ませていただいています。また、W杯のこともあり、サッカー関連の記事や本なども読んだりしています。
 で、そこで思うことがあるわけですが…んー…包み隠さずざっくりと書きますが、ちょっとあまりにも安易な批判が多すぎる気がします。それは、以前から雑誌や新聞に載っているいくつかの映画批評があまりにも頭が悪くってくだらなくって閉口していた感覚にも近いように思います。
 それに対して思うこととして、まず先に感情を言葉にするならば「そういうのは嫌いだ」ということになります。
 ただ、そう言うだけでなく、少しこのことについて考えてみたいと思います。

 まず一つ、大きいこととして思うのは、ネガティブなことは人の心を刺激するから大きな反応が得られる、というものがあるように思います。
 僕も以前あまり考えることなくネガティブなことを書いてしまった時、多くの人の「マイナス感情」を大きく刺激してしまって、思ってもみなかった反応を受けたことがありました。
 僕はここで反省をしましたが、場合によっては「味を占める」ことだってできるわけです。「おお。なんだかネガティブなことを書くと反応がいいぞ。もっとこういうものを書いてやれ」と。

 何かを否定する、という行為はとても簡単です。しかも、否定する時に「上から目線」になるから、自分が偉くなったかのように感じられるし、実際にそのように勘違いもするでしょう。

 …今回はオブラート無しでいきますか、
 つまり

 「否定していると自分が頭が良くなったような気がする」

 ということですね。
 まぁ、それはそれでコンプレックスの解消やらストレスの解消やらに、効果のあることなのかもしれません。
 でもそれは、あまりにも子供じみているし、現実逃避でしかありません。

 例えばアニメ作品であれば、ある作品を見て「つまらない」と感じたとします。それを「作画が良くない」とか「演出が悪い」とか「話の見せ方が下手だ」とか、いろいろ感じたりもするでしょう。
 それは、その作品をそう思う「感性を自分が持っている」ということになります。その自分の感性は、自分自身が生きて経験してきた人生そのものから生まれてくるものです。
 その「自分自身の人生によって育まれた感性」に、きちんと向き合うのであれば、その作品を「つまらない」と表現する時のその方法が安易なものになるわけが無い、と思うのです。

 自分があって、他者としての「作品」がある。
 また、自分があって、他者としての「他の視聴者」がある。

 その、自他の前提が明確にあれば、「自分はこれをつまらないと感じる。その理由はこういったものだ」と表現することができて、それは安易な否定にはならないのだと思います。
 自他の前提が明確にない場合。ただそれを闇雲に否定する。否定している自分を偉そうに見せる。という、品の無い、知性の低いものになってしまうのでしょう。
 その意味では、人間の品位、知性というものは、文章や表現の上手い下手などによるものではなく、また学歴や学力、地位や経歴などによるものでもなく、まさにその人の人間性(パーソナリティ)そのものということになるのでしょうね。

 そういう現象が起こる理由を、教育や言論、出版の歴史に求めることはおそらくできるのでしょうね。議論や批判の前提となるのが「相手の言うことを理解し」「その上で賛成なのか反対なのかを判断し」「その理由を明確にして述べる」という方法論が確立されていないのかもしれません。
 旧ソ連が崩壊し、言論の自由が突然認められたロシアで、「とにかくなんでも批判する」という風潮が起こったらしいのですが、そうった現象と近いのかもしれませんね。勿論、日本人の民族性、性質というものもあってのことでしょうけれど。

 以前、とある有名漫画家のWEB日記を楽しみに読みに行っていたのですが、その人はサッカーファンだったらしく、ことあるごとにジーコジャパンに対しての文句を書き連ねていました。ただ、文句だけ、です。
 それを読んで僕は正直うんざりしました。
 「これは、何も生まない。ただの愚痴だ」
 と。
 ものを描く(書く)人間が、そうやって創造性の無い文句を書き連ねていることは、ショックでもありましたし、同時に批判について考えるきっかけにもなりました。
 「何かについて文句を言うならば、どうしなければならないのか?」
 それについて考えた結果、それは、
 「どうすれば良いのか、のアイディアを必ず提示することだ」
 と思い至りました。
 それからは僕は、サッカー日本代表のあり方について「このままでは良くない」という記事を書く時に、必ず「だから、こうすべきなのではないか」という提案を書くようにしました。
 具体的には「監督が変わることが現実的でないのなら、フィジカルコーチやメディカルスタッフを充実させるべきだ」ということを書いたりしていたわけですね。その提案が、サッカー協会に届くわけもないでしょうけれども、でも、ただ文句を垂れるだけでは絶対にフェアではない。

 「俺はこう考えるぜ」
 という提案を述べて、自分のアイディアも批判される対象として晒す。
 そうでなければ、批判は批判とならず、ただの「愚痴」「文句」として垂れ流されるだけの「嫌な言葉」になってしまう。
 つまり、批判にとって最も重要なことは「フェアであること」だと思うのです。

 例えば、アニメ作品を批判する時に「作画がいまいちだ」と言うのであれば、ではどうするべきなのか?スタッフの充実をどう図るべきなのか。制作スケジュール管理に関してどう改善すべきなのか。予算運営に関してどう考えていくべきなのか。または画力向上のための練習方法は?アニメート技術を向上させる効果的な練習方法は?多くのスタッフが描き易いキャラクターデザインのあり方とは?など、それらに関してのアイディアを提示しなければ、フェアではない。
 そのアイディアが荒唐無稽なもので「そんなことできるわけねぇだろ!」というものであったとしても、批判と同時にそのアイディアを晒すことは、批判が建設的なものになるためには絶対不可欠のものであると思います。
 こうすることで、批判対象をただ否定して「どうだ。これを否定する俺は偉いんだぜ」という態度にならず、ただの品も知性もない愚痴をぐだぐだと垂れ流すことにならず、「批判する対象(他者)」と「自分」とが対等の立場になるわけですね。

 何かを否定的に捉えることそのものは、その人の人生の上から築き上げられた感性によるもので、それは否定されるものではありません。
 しかし、何かを批判するのであれば、自分自身の人生そのものからくるその人自身の人間性を前提としたアイディアを提示して、対等の立場に立って述べるべきでしょう。
 アイディアを持てず、改善するべき点を発見できないのであれば、黙るべき。
 黙して語らないこともまた、「批判」となることでしょうから。

 何はともあれ、アニメーション作品やサッカーや、様々なことに関して、より建設的な批判や議論がなされると良いなぁと念願しております。
 それでは今回はこの辺で失礼します。
 乱文乱筆失礼いたしました。

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コメント

だんちさん、こんにちは。クロトです。

「どうすれば良いのか、のアイディアを必ず提示することだ」
これはまさに私の通っている大学の教育理念である、「問題発見・問題解決ができる人材の育成」と一致しています。

何が問題なのかを「発見」し、問題の根本を「分析」し、その問題を新しい政策やアイディアで「解決」すること。この一連のプロセスができる人が、今社会に求められているのだと思います。

単に「こんなのダメだ」と言って、終わってはいけないと私も思います。それはだんちさんのおっしゃるとおりただの「愚痴」であり、「文句」です。何がダメなのかを分析して、「おれならこう解決するよ」と提案できて、初めて「否定」が意味を持ち、「批評」に変わるのだと思います。

「問題発見」は、たいてい否定的な事象や感情から生まれます。だから否定的に考えることは悪いことではないです。否定からスタートして、どうやったらよくなるかまでを考える。そこまでできるのが、正しい批判なのかなと思いました。

投稿: クロト | 2006年7月 2日 (日) 19:39

クロトさん。こんばんは。コメントありがとうございます^^

自分で改めて読み直してみると、なんとも感情的な始まり方をしていてこっぱずかしくなります^^;
よっぽど何かが溜まっていたのか…。
で、引用して下さった
「どうすれば良いのか、のアイディアを必ず提示することだ」
のところに来て、やっと落ち着いたという感じですね。これはまさにクロトさんが仰っている

>「問題発見」は、たいてい否定的な事象や感情から生まれます。
>否定からスタートして、どうやったらよくなるかまでを考える。

ということそのものな記事になっているのかもしれませんね。
途中で落ち着けて、本当に良かった…^^;

>何が問題なのかを「発見」し、問題の根本を「分析」し、その問題を新しい政策やアイディアで「解決」すること。この一連のプロセスができる人が、今社会に求められているのだと思います。

なるほど。そうかもしれませんね。
そうなると、こうやってネット上で様々な意見を表明したり交換したりすることは、問題を発見したり分析したりする、とても良い経験や訓練になっているのかもしれないですね^^
また、「社会に求められている」という大きな括りで見た時には、そのプロセスに「問題を多角的に捉える」ために「議論する(議論ができる)」ということも必要になってくるのかもしれませんね(「分析」に入る部分かもしれませんが)。
「解決」という部分も相当に重要なプロセスですよね。そこに求められるのがリーダーシップだったり説得力だったりという、「人間性」の部分になっていくのかな、と読んでいて思ったりしました。

>否定からスタートして、どうやったらよくなるかまでを考える。そこまでできるのが、正しい批判なのかなと思いました。

そうですね。そこで分析を元にしたアイディアを提示して、それに対するリアクションを受ける。そこでまた問題を発見して分析をする(議論する)というプロセスを踏めるようになるのかもしれませんね。そうすると、否定からスタートしたものも、フェアで建設的なものに発展していく、というそういうことになるのかもしれませんね。

感情からスタートした文章に対して、冷静なコメントをして下さってありがとうございます。刺激を受けて勝手にいろいろと考えを発展させてしまいましたが、とても勉強になりました!^^

投稿: だんち | 2006年7月 3日 (月) 22:23

消費者はわがままなのです(笑)
たとえば、専門家の方が批評をするのであれば、それは代替案なきものは逆に批判されてしかるべきでしょうし、まさにだんちさんのおっしゃる通り。

しかし、たとえばですね。

昨日近所のデミーズでハンバーグを食べてきました。
肉も安いしトッピングも冷凍食品っぽい感じがしてまずかった。
もう2度と行かないぜ!

こんな批判は当たり前のものであって、こういう批判に対して
では肉はどこ産のどの部位をどのような割合でミンチにすればよかったのか?
付け合せの食材は●●を××して・・・。
なんて批判をするのは、どこかの料理専門家なわけです。
そこらへんにいる一般人がこういう批判をしたら逆に引かれますし、これがダメならネガティブな意見は何も言えなくなってしまう。

思い入れをもって絶賛する人の場所で公然と批判を"繰り返す"もしくは、批判する事で読ませる側に何かを訴えかけるのであれば
それ相応の批判をしましょうという内容ならば、まさに仰るとおりかと思います。

そういえば、ハルヒのアニメが終わりましたが原作は読み始めるのかな??
そうすると、うちのブログには涼宮ハルヒの消失を批判する意見が掲載されているので、だんちさんに突っ込みを入れられそうだ(笑)
むしろ、突っ込み歓迎ですが。

投稿: だいぢん | 2006年7月 4日 (火) 13:45

押井守監督が以前、なにかのインタビューで、自分はオタクに関心がない、という意味の発言をされていたのですが、その理由が、
「彼らは出来合いのものにしか興味を持たないから」
ということでした。
オタクに対しては僕は、もうちょっとマシな印象を持っているのですが、この意見に真っ向から反対を唱えるのにも、いささかためらいを感じてしまいます。創作的視点に立たない純粋消費者としての視点からの、代案なき否定、印象のみの否定というのも、それはそれであって然るべきでしょう。
一方で、代案の伴わない否定意見というものに、まったくといっていいくらい心動かされるものを感じられない自分がいるのもまた、事実です。
純粋消費者がその立場で発言するのも当然なら、だんちさんが創作者の立場でその発言に顔をしかめられるのも、当然のことだと思います。
どちらが正しくどちらが間違っているということではないのでしょう…たぶん。

投稿: memento | 2006年7月 6日 (木) 14:12

>だいぢんさん。こんにちは。コメントありがとうございます^^
だいぢんさんのコメントは実はとてもヒントになることが書いてあると思いますよ。

≫なんて批判をするのは、どこかの料理専門家なわけです。

というところ。この部分がヒントになって考えを発展させていくことができます。
つまり「じゃあ、このファミレスはどんな専門家を使っているんだ?」
「ちゃんと専門家を使えばこんなに不味くなるはずがないのでは?ということは、そこの人件費を削っているのか?」
「それは、その時の会社運営はなんとかなるのかもしれないけど、その場しのぎでしかないのでは?」
「かけるべき人件費をきちんとかけなければ、消費者を満足させることができず『二度とこねぇ!』と言われてしまう」
「それでは結局未来がない」
だから、
「ちゃんとした専門家を雇った方がいいんじゃないの?」

という、そういう批判ができるんだと思います。
そのヒントはだいぢんさんが僕が書いたことを読んで「でもそれは…」と考えたところから出てきたものだと思うんです。
そうやって「ちょっと考える」ということの積み重ねが、建設的なヒントや考えを生み続けていくきっかけになるんではないか、と改めて感じます。

ハルヒの原作は読む予定ですがまだ入手していません。それに僕は小説読むのが遅いから…。いつ「突っ込み」に行けるやら^^;
でも、読んだらまただいぢんさんのところに遊びに伺いますね!

>mementoさん。こんにちは。コメントありがとうございます^^
押井監督のその発言の全容を知らないので、僕にはその発言についてあれこれ言うことは本来ならできないことなのですが…。
でも、彼はオタク文化が突然高揚していく中で祀り上げられるようなところもあって、傷ついてきたりした部分があったのかもしれないですよね。
ピックアップされた発言だけを見ても、彼が受けた大きな傷が感じられるような気がします。
だから、この発言は「オタクに対する批判」というよりも、もっとこう…「SOS」的な、そんな感じに僕には見えます。
言葉を逆にしてみると、「自分に関心を持って欲しい」「自分に興味を持って欲しい」というようになるのかな、って。
そこには「出来合いの押井守像」を祀り上げられることで、自身の人間性に関しては否定され続けてきた、ということがあったのだろうか、などと思います。
そうなると、やはりmementoさんが仰るように「反対を唱えるのにためらう」という印象で良いのだと思います。
そっとしておく、ということが一番なのかな、って。

「代案の伴わない否定意見」よりも「代案が伴う否定意見」の方がずっと建設的であることは、確かなことだとは思います。
ただ、「代案を伴わない」というのは、単純にそういう「代案を発想する」という考えを持つ癖を持っていないだけなんだと思うんです。
それを「詰め込み教育の弊害」なんて言うこともできるかもしれませんね。
でも、ただ詰め込まれるだけでなく、こうやってネット上などで自分の言葉を発信できる状況が生まれてきていますから、そこで「もうちょっと考える」という癖をつけていくことは、とても勉強になるし、大事なことだと僕は思うんですね。

と、ここまでお返事を書いていて思いますが。
だいぢんさんとmementoさんのコメントを受けて、改めて「考える」ということの重要性に気づけたのかもしれません。
となると、そのことがクロトさんが言われていた「問題発見」の部分なんでしょうね。読み返してみると、まさにクロトさんが言われているんですね「どうやったらよくなるかまでを考える」って。
僕の記事は「『考える』というのは当たり前のことだ」という前提の上で書いてしまっていたのかもしれません。
「考える」ということは、当たり前のようでいて、実はとても難しいものなのかもしれませんね。
ちょっと改めてこの「考える」ということについても考えてみたいなぁと思いました。

コメントをいただくと、それが考えるきっかけになってとてもありがたいです。
また是非よろしくお願いいたします^^

投稿: だんち | 2006年7月10日 (月) 16:33

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