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2006年8月19日 (土)

「ARIA The NATURAL」第20話を見た。

 おはようございます。だんちです。「ARIA The NATURAL」第20話を見ましたので、感想を書きたいと思います。
 夏コミの後、ぐぁっと寝て、起きたらARIAの直前でした。タイマー録画はセットしていたけれども。ちょっと自分に感心。

 今回、夏の怪談話でしたね。
 脚本演出は助監督の竹下健一氏が担当。第一期で素晴らしいレイアウトを見せてくれた荒川眞嗣さんも原画に入っておりましたが、竹下氏の画面構成力のなせる業なのか、一本通してかなり気合の入った素晴らしいレイアウトを見せてくれましたね。いやすごかった。すごい綺麗な画面構成がバンバン出てきて。のけぞりながら見てましたよ。すげかったなぁ…。
 やはり、絵というものは、まず画面構成というものがあって成り立つものだということを再認識させられます。ARIAシリーズは原作もアニメも、ぱっと見の絵の綺麗さ以前に、その画面構成の素晴らしさ、技術的にであったり、そのレイアウト自体の持つドラマ性やメッセージ性が本当に素晴らしいと感じます。この作品の持つ画面構成の素晴らしさもまた、脚本のクオリティと同時に大いに評価されて欲しいものだと念願して止みません。

 いやだって。白い紙を前にして、良い画面を作るということ、対象とカメラ位置を決めて良い画面構成をしていくことは、本当にしっかり頭を使ってやらなければできないことなわけですから。
 絵そのものをなんとなくで描くことはできるかもしれないけど、良い画面構成で意味のある絵を描くことは、意図を明確に持たなければ絶対にできません。絵を描くプロセスを考えた時、絵の持つクオリティのほとんどはこの画面構成で決まると言ってもいいんじゃないでしょうか。その意味で、ARIAの画面クオリティの高さというものは第一期からかなりのものだと感じます。
 何がすげぇって、アクアという別の惑星の世界の出来事を全然違和感無くスムーズに見せてきていること自体、すげぇことだって思いますよ。
 原作の持つ画面構成による世界観の構築を、アニメにおいても見事に体現していることを改めて感じます。

 なんてなことをタイプしている最中に口に含んだアイスコーヒーをだらだらと垂れ流してしまった。
 何やってんだ俺。
 まだちょっと疲れている様子。
 それはともかく。

 お話ですが。
 夏の怪談話でしたね。
 そんな中印象的だったのは猫達でした。アリア社長が灯里を心配したり、猫達が何か気配を感じて集まったり、ケット・シーが灯里を助けたり。
 今までの不思議話の流れの一つとして見ることができるのでしょうね。
 ケット・シー話を全部繋げてみると、何かしらのドラマが見えてくるのかもしれませんね。
 決して交じり合わない隣人同士なんだけど、好意を持ち合うことで今回のようなことがあったら助け合ったりするのかもしれません。
 そうなると、灯里も彼らに何かお返しをしなくちゃいけませんね。
 コミュニケートができるわけじゃないんだけど、同じ星同じ場所で暮らす者同士の出会いと共存。今期の第1話からこつこつとそれが描かれているわけですが、終わるまでにはそれがどういった意味を持つのかが分かってくるのかもしれませんね。
 何せ、この作品のシリーズ構成は全体を通した時に、大きな意味を持つ「仕掛け」をしているような匂いがしまくりですからね。サトジュンめ…。癒し話を淡々と並べているわけではなく、起伏のあるドラマに仕立てているのでしょう。
 灯里のドキュメントドラマとして見ると、ゴンドラとの別れで一区切りがついたようにも思うのですが、「交わらない隣人」とのお話が彼女の成長の上でどういう意味を持つのかが、まだこれからですね。今後どう展開していくのか、どう描写されていくのか、楽しみです!

 それにしても。
 怪談話で良かったですよね。一歩間違えれば「神隠し」じゃなくって「誘拐」じゃないですか。
 灯里はなんでもかんでも「素敵~」ってなってすぐ心を開いてしまう子なわけですが、そりゃちょっとやっぱり危険ですよね。
 その意味では、本当は友達でも無いのに「友達ということで」と言ってルールを破ってお客を乗せてしまうことは、やっちゃいかんですね。アイちゃんみたいな子供だったり、暁みたいに素性が知れていて実際友達だったりする人と違うわけだし。
 ああやって簡単にルールを破ってしまい、その上で怖い目に遭う、というのは教訓めいたものも感じます。
 「怪談話」の部分を誇張として捉えると、まさに灯里は事件に巻き込まれたわけで。自分の安易な考えでルールを破ると取り返しのつかないことだってある、ということを身に染みて感じたかもしれませんね。
 また、出会いには「悪意との出会い」もあるっていうことですね。それを怪談話に集約させていて、基本的に「悪人」は出てこない作品だけど、もしあれが「人だったら」という視点を持つと怖さがよりリアルになりますね。

 ケット・シー達とのドラマの視点からすると、変化が感じられるお話だったようにも思います。
 アクアにある不思議な存在は、人間と同じで善意も持っていれば悪意も持っている。そんな中灯里を助けたケット・シー。今までと違って、火急の時に積極的に駆けつけたケット・シーが灯里に対して何を感じているのか。その辺りも今後なんらかの形で示されていくのかもしれませんね。
 「交わらない隣人」との言葉無き邂逅。
 そこにどんなドラマが見えてくるのか。
 今後も楽しみです!

 それではまたです!

 参照:「なぜアニメの感想を書くのか。どういったスタンスで書くのか。」
    :「物語作りの基礎。普遍的土台と誇張表現の調和により生まれる適度な感情移入…学習機会レポート」
    :「『音響監督佐藤順一』の手法に注目してみる」

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