今日気づいたことメモ…模写の対象としての写真集。
「漫画における演技論」の続きで書こうと思っているのですが、キャラクターを描くにあたって一番情報を伝えられる部位はなんといっても顔です。
なので、絵の練習で模写する時、素材とする写真集の中でモデルさんが水着になって魅力的な太ももや胸元をご披露して下さっていても、顔の模写だけをすることが多いのです。僕の場合は、ですが。
ここ最近模写に使っている写真集は1998年発行の「わたしとボク(モデル:松本未来、小磯絵里奈。撮影:中村誠作)」。特に小磯絵里奈嬢が昔っからのお気に入りで「7days fuzz」の香織の外見上のモデルは彼女がかなり入っております(描いているうちにすっかりモデルを離れてオリジナルな顔立ちになりましたけれども)。
この写真集、少女達をかなりエッチに撮っていて、見ているだけでもうハァハァとしてくるのですが、それはそれとして、ストーリー性があって、少女二人が表情でかなりいい演技をしているんですよね。だから顔だけ模写していても非常に楽しいし、全然飽きません。
だけど、今日作業する時に、「ちょっと違う人も描いてみよう」と思って手元にあった別の写真集を模写してみました。
それは、2002年発行の「本当に!?(モデル:大久保綾乃。撮影:松田忠雄)」。
大久保綾乃の丸顔がとてもツボで大好きなので、張り切って模写を開始してみました。
なんですが…。
なんだかもう、全然面白くないんですよ。
どの顔を模写してみても、とにかく表情が乏しくて、つまらないんですね。
写真の中で全然演技ができていなくって、ストーリーもドラマも何も感じられなくって、絵に描くポイントが見当たらない、そんな感じで戸惑いました。
「おかしいなぁ。俺、大久保綾乃は好きなはずなのに。なんで描けないんだ?」って。
「わたしとボク」の小磯絵里奈の模写が楽しくって面白い分、ちょっとびっくりするくらいのつまらなさでした。
だけど、心当たりはあって。
大久保綾乃の写真集には、「本当に!?」の後に出ている2003年発行の「ここに、いるよ(撮影:田村浩章)」というものがあるのですが、僕はそちらの方を先に買っていました。この写真集での彼女はすごく可愛いんですよ。それで一気に気に入って「本当に!?」の方も遡って買ったのですが、その時に「あれ?こっちの写真集だとちょっと可愛くないぞ?」という違和感があったんですね。
彼女のチャームポイントである口元のホクロをCG処理で消してしまっていたりしていて、モデルの魅力を引き出そうというよりも、「男が喜びそうな女の子像に近づける」という無理矢理な撮り方をしている印象がありました。
写真集自体もストーリー性が弱くって、ただ撮った写真を並べているように見えるし。髪型や服のセレクトも、どうにも平凡すぎてつまらないように思えるし。
まぁでも、せっかく買ったものだから、鑑賞する上ではそういったネガティブな印象を封印していたんですね。
でも、今回模写をしてみると、モデルである大久保綾乃嬢の写真集「本当に!?」での表情の固さ、乏しさが改めて実感させられました。
これはまぁ…きっとカメラマンの腕ってことになるんでしょうかね。
その辺りのことは分からないので、あまり言えたことじゃないんですが。
でも、「模写をして練習する対象」として写真集を見た時、「モデルの表情が固くて乏しい」写真集は練習意欲をそそられないし、その効果も低いものになってしまうということは確かだと思います。
このことに気づいて、改めて同じ大久保綾乃でも写真集「ここに、いるよ」の方を模写してみました。
すると、表情に大きな差はなくても、描いてみると「あ。こっちの写真集の方が柔らかい表情しているよ」ということが分かるんですね。微妙な差なんでしょうけど。
写真集自体にもストーリー性を感じるし、やっぱり「ここに、いるよ」の模写をする方が「本当に!?」を模写するよりも断然楽しいし、面白いし、「描きたい」という意欲が沸いてきます。
いや、面白いもんですよね。同じモデルなのに。
模写をして練習する素材として写真集を選ぶ時、モデルの表情の良さ、写真集そのものの持つストーリー性の良さなどは、考慮すべき重要な点なのでしょうね。
その意味では、好きな女優やグラビアアイドルを「ミューズ(女神)」として持っておくことと同時に、「このカメラマンの撮る女の子が好き」という基準を持つことも大事ですね。
その基準を得るためには、とにかくひたすら写真集を見まくるしかないでしょうね。
それで自分のツボに合うカメラマンを見つけられたら、その人が撮っている写真集を集めまくって模写しまくる。と。それなりの投資は必要になるけれども、上手くなるためには必要なことでしょうね。それに、なんだか楽しい作業な気もしますしね!
今度、古本屋めぐりして買い漁って来ようかな。
*画像の説明…
全部顔だけで12体ですね。これ、全部消しゴム無しで描いています。精度よりもスピード重視ということで。
一枚目。全部小磯絵里奈嬢ですね。
ちょっと久しぶりの模写ということもあり、なんだか上手くいっていません…。でも、消しゴム無しの一発描きなので、気に入らなくっても先に進みます。こういう縛りを設けると「これはこれでいいんだ!」と決めていく勇気を養うものにもなるかもしれないですね。細かいことを気にしなくなるというか。漫画は大量に絵を描かなければいけませんからね。まぁ、ちょっと言い訳です。
二枚目。右上が小磯絵里奈嬢。その下から大久保綾乃嬢ですが、つまらなかった「本当に!?」から四つ。右下のと真ん中上下の二つ、左上がそうです。つまらないなりに、なんとか描こうと必死な感じが絵に出てるように思います。
で、「こりゃつまんねぇよ!」となって、「ここに、いるよ」を引っ張り出して描いたのが左下の綾乃嬢。いきなり生き生き楽しく描いています。同じモデルなのに絵のノリに違いがあることが感じられるように思います。微妙な差なんですけどね。
何はともあれ、良い発見をしたように思います。絵を描く上で「面白い」と感じるか「つまらない」と感じるか、はとても重要なことで、仕事をする上ではつまらない絵だって描かなければならないわけだけど、それでも、「面白いから描く」という初期衝動を失っては、絵を描くことそのものだってできなくなってしまうこともあるかもしれません。
「絵の練習」というのは、苦痛であってはいけないですね。練習の時から「ああ、楽しい!」と思える絵を描いていければ、どんどん上手くなっていけるように思えます。
頑張って練習していきたいものですね!
ではでは、またです!
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コメント
こんばんは。mementoです。
写真でも、
「あ、撮ってる人がノッて仕事してるな」
とか、
「あんまりこのカメラマン、被写体に興味なさそう」
とか、素人目にもなんとなくわかるものがありますからね。もちろん、絵画でも映画でも、文章でも、表現する側が表現する対象に、興味や執着や愛情、思い入れというものを持っているか否か、というのは、案外綺麗に表に出てしまうもんだと思います。
>「面白いから描く」という初期衝動を失っては、絵を描くことそのものだってできなくなってしまうこともあるかもしれません。
そういえば以前、なにかの本でコメディアンの関根勤さんが、
「技術的にこの人の物真似はできるし、やればウケルだろうな、というのがわかっていても、僕自身がその人に興味を覚えられなければ物真似はやらない」
ということをいっていました。
その言葉に僕は、
「ああ、プロだなあ」
と感心したんですが、表現におけるプロというのは、むしろ自分の仕事に思い入れや興味や楽しみといった、個人的なものを込めるのを恐れない人のことをいうような気がします。“公私混同”は非常に重要な要素じゃないでしょうか?
でもこれは、口でいうよりはるかに勇気のいることだとは思うんですが。やっぱり自信が必要ですよね…。
それでは失礼いたします。
投稿: memento | 2006年8月27日 (日) 22:09
mementoさん。おはようございます^^
仰る通りで、表現する側の心というのは、その表現に如実に表れてしまうものなのでしょうね。
僕が模写していて「つまらない」と感じた写真集のカメラマン氏も、もっと他の写真を撮るとすごくいい仕事をするのかもしれませんよね。
絵や文章だけでなく、写真にもそういう撮る側の心が写るというのは、改めてとても面白いことだと思います。
表現する上での心というのは、本当に大事なものなんだなぁと実感させられます。
関根勤さんのエピソード、教えて下さってありがとうございます!素晴らしい芸人さんの言葉はもの凄い高いプロ意識を感じさせられて、この言葉だけでも痺れてしまいます。
とても勉強になります!
気持ちの入っていない芸は芸じゃなく、ただ消費されるだけのその場だけのものになってしまうのでしょうね。
厳しい姿勢で芸をされている方なんだなぁと改めて思います。
また、その言葉にプロ意識を感じられたというmementoさんのコメントにもハっとさせられますし、大いに納得させられます。
≫表現におけるプロというのは、むしろ自分の仕事に思い入れや興味や楽しみといった、個人的なものを込めるのを恐れない人のことをいうような気がします。“公私混同”は非常に重要な要素じゃないでしょうか?
でもこれは、口でいうよりはるかに勇気のいることだとは思うんですが。やっぱり自信が必要ですよね…。
仕事としてやる上では、どうしても「自分の気持ちに左右されず、コンスタントに技術を発揮すること」を意識してしまいますし、「言われたことをベストの状態で全てこなすのがプロ」という意識も、仕事をする側にも依頼する側にもあるように思います。
でも、本来「プロ」というものはスペシャリストであって、なんでも屋ではないんですよね。もっと一芸に秀でた人間で、なんでもできるどころか「それしかできない」という類のもので。
そういう人間がプロであるという認識は、戦後日本の「総得点が高い人間こそ優秀」という教育スタイルのために育って来なかった部分であるようにも思います。
以前コメントで下さった「オタク」のことで言うと、自分の興味をつきつめる類の人間を、ほとんど条件反射的に叩くという時期があったりもしましたし。
「自分にはこれしかできない」「これにしか興味を持てない」という自身の心のベクトルを認識して受け入れて、それをつきつめるのは、確かに勇気のいることですよね。
自信は、失くしたり取り戻したりの繰り返しですよね…。
砂上の楼閣を、自分の腕だけを頼りに生きるっていうのは。
結局、好きでやってるんですよね^^;
でも、ただやみくもに「好きだから」というだけで進むのではなく、今回教えていただいた関根さんの言葉のように、多くのプロフェッショナルから多くのことを学んでいくことが大切なんだろうなと思います。
これからも、いろいろ教えて下さいね!^^
投稿: だんち | 2006年8月29日 (火) 09:23