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2006年9月 6日 (水)

「ゼロの使い魔」第10話を見た。

 おはようございます。だんちです。久しぶりに「ゼロの使い魔」の感想でございます。感想を書くのは久しぶりでも、毎回楽しく見ております。
 今回は、ルイズと才人の恋愛について書こうかと思います。

 ルイズに婚約者が出てきたわけですが、その婚約者氏は物語の展開に大きく関わる人物なのでしょう。
 その辺りの展開を楽しみにしつつ、見ていてルイズと才人のあの恋愛の感じを見ていて、今回ちょっとピンと来るものがあったんですよ。
 それは…

 「そうか!!これは『庭師』ものなんだ!!」

 というもの。
 あれですよ。
 ヨーロッパの物語なんかで出てくる、お嬢様と使用人である庭師との恋。
 身分の違いと住む世界の違いがありつつも接点があり、互いにコンプレックスと憧れを持って燃え上がってしまうという。
 周囲からは許されることはなく、祝福されることもなく、その心を公けにすることもできないんだけど、どんどん惹かれあってしまい、どうにも止まらなくなる。
 互いにそれはいけないことだと分かっていても、体を重ね合わせてしまうと、もうどうにも燃え上がってしまって止まらなくなってしまうような、ああいうの。
 いや、体まだ重なってないけども。
 でも、見ていて感じるエロさ…エロさっつぅよりもっと古典的な「淫靡さ」というか、そういう印象があったんだけど、「庭師もの」として見るとすごく納得いく気がします。

 才人があの世界を救ったり、陰謀を打ち滅ぼしたりという英雄的な活躍をするのかもしれませんけど、ルイズと才人の基本的な関係は「お嬢様と庭師」で変わらないんでしょうね。

 その古典的かつ普遍的な恋愛物語の形というものが、どういう満足感や感情移入を見る側に与えるものなのか、なかなかに興味が湧いてきます。

 男の立場からすると、「高嶺の花」が立場の低い者に惹かれて、弱いところや本音なんかを晒してきて、しかも惚れてくれる、なんていうのはこれはもうまさにファンタジーなわけでございますね。
 …ん?ルイズが高嶺の花というのは…。
 まぁでも、家柄が良くって可愛くて、権力のある方とも懇意だったりするし。
 とはいえ、おっぱいが無い、というのはどう捉えるべきなのか。
 高嶺の花ではあっても、それが完璧なものではなく、欠点を持っている。しかも、それがコンプレックスだったりもする。
 その完璧でないところがすごく人間臭さを生む要素になるんでしょうね。
 高いところにいる人でも、同じ人間として悩みを抱えるところを持っていることで、「人間対人間」の付き合いになれる、というか。

 「お嬢様と庭師」ものというのは、ちょっと極端に「男女関係」を強調したものなのかもしれませんね。
 男は、やはり腕っぷしで生きるところがあって、そこが魅力になる。
 身分が低かろうと育ちが悪かろうと、約束を守って、正しい振る舞いをして、そして強い、というのはやはり魅力的だし女を惹き付けるものなのでしょう。
 対して、女というものは、容姿やお育ちがどうであっても、コンプレックスを抱えているもので、それが魅力だったりするわけですね。
 そのコンプレックスが女としてのものである場合、それを解決することはもう男にしかできないわけですよ。肉体も心も、一緒に全部抱きしめたりすることで、その女の存在を救えるわけですね。

 で。
 身分が違ったり、周囲が許したりしないその男女の関係は、「その内容」によってのみ、結ばれるものになるわけですね。
 つまり、二人だけの絆によって結実する関係。
 交際したり結婚したりできないんだったら、関係を形として表現できなくとも、その中身によってのみ、男女の関係を築き上げるしかないわけですね。

 そこがつまり、エロかったりするし、また同時に男女の刹那的かつ衝動的な心身の働きによるドラマを感じさせるし、そして、切なかったりするんですよね。
 その意味では、あれだけ裸の表現が多かったりして、セックスを感じさせる表現が随所にあることも納得でございますよ。「サービス」という意味が勿論あるものでしょうけど、でもそれだけじゃなくって、恋愛の持つ「裸(はだか)」性、肉体性というものが含まれているように感じられます。
 「こいつら、このままいったらエッチするんじゃねぇか?」と見ていて思えるというのは、恋愛を描く上では重要なことだと思うし、見る側にとっても、そこにある生々しい感じは「人と抱き合いたい」という情念を湧き上がらせるポジティブなものになるのだと思います。

 こうやって書いていて思ったけど、この作品はスキンシップがある場面と体が離れている場面とが、とてもはっきり描かれているような気がします。
 それはやはり、意識して描いているのでしょうね。最初っからキスしたりしてたし。そういや、今回ワルドがルイズにキスしようとして、その時に言った言葉が才人が言った言葉と一緒で。だけど、才人はその言葉をルイズを触らずに言っていたりするんだけど、心の距離は才人の方が近かったり。で、ワルドが登場してからの才人とルイズの肉体的な距離はやっぱり離れているんだけど、その離れ方がいつもよりちょっと遠かったり。
 そういう描き方なんかに、非常に丁寧な関係性の描写を感じます。

 そんな感じで「これは『庭師もの』だ!」と思ってみると、そこにある恋愛関係の普遍的な物語性というものの面白さに改めて気づかされます。
 同時に、そこにある普遍性とか古典的な物語性なんかは、面白さや感情移入を生み出すものではあるけれども、やっぱり大事なのは「丁寧に描く」ということだよな、なんていうことも思います。
 何はともあれ、「恋愛」というドラマについて、今後もじっくり考えてみようという気になります。次の学習機会レポートは恋愛についてになるやもしれません。

 なんてなことを書きつつも。今回のお話を見ながら、一緒に同人誌をやったりしているクリ・コバーン氏とすっごくくだらないことを話したりもしていました。その内容はクリ・コバーン氏のブログで読めまする。
 「ゼロが25だったら。」←これです。
 まぁ、こんなネタもこの作品が持つ普遍的な生々しさから出てきたもの、ということでしょう。

 先の展開が読めつつも楽しめるこの作品から、沢山のことを学んでいきたいものです。
 ではでは、またです!

 参照:「なぜアニメの感想を書くのか。どういったスタンスで書くのか。」
    :「物語り人(ものがたりびと)」であること。…学習機会レポート2
    :「物語作りの基礎。普遍的土台と誇張表現の調和により生まれる適度な感情移入…学習機会レポート」    

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「あのさ……、なんかあったら、俺が守ってやるよ」 うーーん?才人はよく解りませんねぇ? ルイズ様に迫られても、ビックリして逃げ出すクセに…… ルイズ様を守るのは自分だ、という気概だけはある、とは…… ワルドを前にして、デレデレしているルイズ様を見て、なんだか不機嫌で…… 「まあ、あれだ、俺がついてくるコトも無かった、っていうか」 と、なんだか自嘲気味で…… 惚れ薬で、アレしちゃっているルイズ様に迫られる、というシチュエーションは、堪らなく魅力的です(... [続きを読む]

受信: 2006年9月 6日 (水) 18:48

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