「物語り人(ものがたりびと)」であること。…学習機会レポート2
こんばんは。だんちです。
普段、自分が物語り作りをする上での学習機会とするために、アニメ視聴をして感想を書いていまして、それをたまに「学習機会レポート」とまとめていっております。
今回はその第二段でございます。
いつものように、指がキーを叩くに任せて文章精度などは気にせず、思うまま書いていこうと思います。
今回は、アニメーションに限らず最近いろんなものを見ていて感じる「物語り人(ものがたりびと)」というものについてです。
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僕は「物語人(ものがたりびと)」になりたい。
そう思います。
「物語人(ものがたりびと)」という言葉は僕が作った造語です。
でも、字面でどういったものかはなんとなく分かってもらえるのではないでしょうか。
面白いアニメーション作品や漫画を見たり、小説を読んだり、素晴らしい音楽を聴いたり、スポーツで感動したり。そういったことを繰り返していくうちに、ここ最近、一つの境界線が見えてくるような気がしてきました。
それは、人に見せる(又は聴かせる)エンターテインメントにおいて、「それを見る側に見せようとしている」かどうか、の境界線です。
それを、「物語」という境界線で仮に線引きすることによって出てくるのが「物語人(ものがたりびと)」という存在です。
「物語」とは、その字の成り立ちから言って、「物事を語って聞かせる」から「物語」ということなんだろう、と思われます。
「物語」が「物語」として成り立つには、重要な二つの要素が求められます。
それは、「語る側」と「聞く側」です。
つまり、「これこれこういうことがあってね」と語る人がいて、「へぇ、そんなことがあったんだ」と聞く人がいる。ということですね。
この二者がなければ、「物語」は成り立つことがありません。
それは、僕が描いている漫画もそうですし、小説やアニメーションのように、読んでもらったり見てもらったりする媒体においても言えることで、「見せる側」と「見る側」があって、初めて「物語」が成り立ちます。
物語を語って聞かせるように、人に見せようとする人。
そういう存在を、僕は「物語人(ものがたりびと)」と考えます。
ということは。
漫画家や小説家、アニメーション作家などは例外なく「物語人(ものがたりびと)」である、ということになりますし、前述の「境界線」とは「見せる側」と「見る側」の境界線である、というそういう論調なんだべな、と思われるかもしれません。
でも、僕が思った「境界線」はそこじゃないんです。
本来は全員が例外なく「物語人(ものがたりびと)」であるべき、「見せる側」の中での境界線なんです。
漫画家なら漫画家の中で、読む人に読ませようと描く人とそうでない人がいる、ということです。
漫画家のことで続けると、つまりは、
「読者に読ませるために描く漫画家」と「原稿料だけのために描く漫画家」との間には明確な境界線がある、ということです。
前者は「物語人(ものがたりびと)」であって、後者は「漫画家」かもしれないけど、それは「職業が漫画家」というだけであって「物語人(ものがたりびと)」ではない。
僕は、この境界線を経験上よく知っているつもりです。
というのも、僕自身が漫画家ではあっても「物語人(ものがたりびと)」ではなかったから。
「漫画家」であることを目指して、日々編集担当者と打ち合わせて、編集会議を突破して編集部に認められること。そして原稿料をもらい満足すること。それが一時期の僕のしていたことでした。
現在の僕は、「それは違う」という自覚を持ち、どうやったら読む人を楽しませることができるのか、どう満足してもらえるのか、を考えるようになりました。一つの例を挙げると、レディースコミックで仕事をする時に、女性にペンを入れてもらったりしていることなどは、見る人のことを考えた上でのことでもあります。
「物語」を「語る」立場から思うこととしては。
漫画というもの、特に商業漫画においては目の前で読んでもらうわけではありません。だから、語っている相手の反応が見えないんですね。
少年誌や少女誌は読者からのリアクションがかなりあったりもするようですが、青年誌などになってくると反応はかなり少ないものになります。そうなってくると自分が描いているものが喜ばれているのかどうかも分からなくなり、編集部の顔色を伺いながらルーチンワークでただ仕事として描く、という状態に陥ることもあります。
そこで、読者に読んでもらうために描くという基本的なことを忘れていってしまったり、煮詰ったりということも起こるのだと思います。
きちんと調べたわけではなく印象でしかないのですが、読者の反応を吸い上げようと努力している雑誌は活気があって良い作品が多く生まれていっているように思いますし、そこの努力が足りなかったりずれていたりする雑誌は伸び悩む傾向があるのではないでしょうか。
また、「物語」を「聞く」立場として、つまり楽しむ側として思うこととしては。
「面白い!」と思えるものは例外なく受け取る側のことをちゃんと見て作られている作品であるように思います。
「感動してもらおう」「笑ってもらおう」「切なくなってもらおう」
そういった、「楽しんでもらいたい」という基本的な姿勢をもって作られたものには、訴えてくる力があります。
反応に対する想像力がある、ということなのでしょうね。
「これは楽しんでもらえるはずだ!」という基準を持って作るということになるのでしょうけど、それは作る人が様々な経験を積むことによって育んできた感受性によって、裏付けられたりするものなのかもしれません。
そして、そここそがまた「才能」というものであるようにも思います。
反応を想像するということはつまり、人の心に対するセンスを持つ、ということでしょうから。
受け取る側から見た時に、「この作品は自分に心を開いてくれている」と感じるかどうか、というような感じかもしれません。
漫画だったら、「ただ描かれたもの」なのか、「読ませるために描かれたもの」なのか、ということですね。
「ただ描かれたもの」が面白いものになることはなくても、「読ませるために描かれたもの」が面白くなる可能性はかなり高いように思います。
そこにある境界線が、それを作った人物が「物語人(ものがたりびと)」であるのかどうか、ということですね。
その基準は、僕は「物語人(ものがたりびと)」という言葉を造る前から持っていたように思います。
以前はスタジアムまで足を運んで見ていたJリーグをここ最近はほとんど見なくなったことも、「物語人(ものがたりびと)」である選手が少なくなっているからであるように感じます。
テレビ番組もどんどん見なくなっています。ディレクターやプロデューサーの方ばかりを見て、視聴者を見ていない出演者を見る気にはなれないからでしょう。
多くのエンターテインメントが発展してきた歴史の中には、おそらくは偉大な「物語人(ものがたりびと)」がいて、その分野を向上発展させてきたのでしょう。
その恩恵を消費するだけでは、停滞と劣化が待つのみであるように思えます。
僕も、小さいものではあるでしょうけどその原因の一人であったわけですね。漫画家になりながらも、「物語人(ものがたりびと)」たろうとしていなかった。それは、大いに反省すべきことですし、情けない思いでいっぱいになります。
僕は、今後もただの漫画家として仕事をして生活していくことは、できるのだと思います。
でも、そんなことで漫画を描く意味があるとは思えない。
人に読んでもらうために描く。
その基本的なことを忘れないで、少しでも多くの人を楽しませることを目指していきたい。
僕は「物語人(ものがたりびと)」になりたい。
漫画家になりたい、小説家になりたい、ミュージシャンになりたい、スポーツ選手になりたい。
そういう人は沢山いると思います。
でも、そういった目標はとても小さく、実はあまり大したものじゃないものなのかもしれません。
「そうなって、そこで何をするのか。どれだけ人を楽しませるのか」
それこそが、考えて目標としていくべきことであるように思います。
多くの人達と、「物語人(ものがたりびと)」であるための努力を共有していけたら、素晴らしいことだと感じます。これからも、多くの学習と経験を経ていって、思ったことを書き止めていきたいと思っています。
自分にとって反省と決意のようなものになりましたが、物語を作る人でこの記事を読まれている方にとっても、少しでも参考になる文章になっていれば幸いです。
以上でこの記事を終わります。
乱文乱筆失礼いたしました。
2006・9・3 漢弾地
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ってな感じで書いてみました。
なんだかもう、えらく当たり前のことを書いているわけですが。
当たり前のことこそが実はすごく大事で、また忘れられがちである、ということですね。
そして、漫画を含めて多くのエンターテインメントが抱えている問題が、この当たり前のことを失念していることから発生しているように思います。
そういった問題は、小さな努力で多くの成果を得ようとする歪んだ合理主義教育によるもの、なんてなことも言えるのかもしれません。
まぁでも、そういう分析よりも重要なのは「こりゃいかん。やるべきことをやらなければ」と自覚して、そして実際に「やる」ということですね。
頑張らなければいけませんね。
今、与えられた状況や環境の中で、しっかり読む人に向き合って、いい仕事を一つ一つしていきたいです。
でも、「物語人(ものがたりびと)」であろうとする、という根っこが定まると、「やるべきことをやる」ということが明確になって努力の方向も定まるし、努力のし甲斐もあるし、すっきりしますよ。
上手くなりたいし、いいもの作りたいですね。
頑張りますよ!
ではでは、またです!
参照:「なぜアニメの感想を書くのか。どういったスタンスで書くのか。」
:「物語作りの基礎。普遍的土台と誇張表現の調和により生まれる適度な感情移入…学習機会レポート」
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