「ハリー・ポッターと謎のプリンス」を読んだ。
こんばんは。だんちです。予約して発売日に入手していた「ハリー・ポッター」の第六巻。なんだかんだでなかなか手をつけられなかったのですが、やっと読みました。
今ちょっと仕事の合間になっていて時間があったので、2日くらいで集中して一気に読みました。
読み応えのある物語を堪能し、大満足でございます。
そんなわけで、ちょこっと感想なんぞ書いてみようかと思います。
まぁ、翻訳やら何やらに関する問題なんぞ、僕にとってはどうでもいいことなので。その辺はスルーでございます。
ネタバレは避けました。多分、これを読んでも内容は何も分からないとは思います。
この小説は話題になった頃に読んでみるかと思い読み始め、面白かったので続きも読み、今に至っております。
映画は、一本目、二本目は楽しかったのですが、三本目がちょっと苦しかったかなぁという印象で…。それは映画としてのまとまりがどうとかっていうことではなく、人物描写の演出プランが幼稚に感じられちゃって。いや、幼稚というより、「雑」に見えたかなぁ…。なので、映画はもういいや、という感じです(映画版を好きな方、すいません)。
そんなわけで、現在は小説のみを継続して楽しんでいる、ということになります。
あ。でも。
エマ・ワトソンちゃんはとても好きです。可愛いです。一本目の彼女のあのほっぺたがもう、どうにもたまりませんなぁ…。
ああそうだ。映画は、キャスティングはとても好きなんです。スネイプ役のアラン・リックマンなんか無茶苦茶ハマってますよね。アラン・リックマン見たさにテレビで放送していた「ダイ・ハード」を一生懸命見てしまいましたよ。
それは、置いておいて。
小説ですが。
いやまぁしかし。分厚いですね。それが二冊ってことで、読み進めるのも大変なわけですが。
でも、展開が早いので気にせずどんどん読んでいけました。
文字が大きいというのもあっての分厚さなんでしょうけど。文字がでかいのはいいですね。読みやすい。
昔の文庫本とか引っ張り出したりすると、あまりの文字の小ささにびっくりすることがあります。
字のサイズとか配列っていうのは、なかなかにデリケートなものだよな、と思ったりします。
自分で漫画を描いて同人誌を出したりするときも、フォントのサイズや種類にはかなり悩みます。文字の形一つで、読む気をそそられたり、あるいはそがれたりということが、やはりありますよね。
読んでもらうことを考える時に、「気持ちのいいバランス」というものを探すところに気を遣うわけですが、「ハリー・ポッター」小説シリーズは僕にとっては、その文字の大きさ、配列は丁度良い、気持ちのいいものになっています。
話は脱線しますが。
本作りの基本の一つに、左ページに印象の強い画面を持ってくる、というものがあります。
本を開く時に右ページをめくって曲げ、そのため左ページがより目につくからです。
なので、挿絵付きの小説なんかは大抵左ページに挿絵を入れるんですよね。
ただ内容を伝えるだけが本ということではなくて、細かいところまで見る側、読む側に配慮してこその本、ということですね。
「ハリー・ポッター」シリーズは挿絵はありませんが、文字のサイズや種類、余白の大きさなど、気をつけて作っているなぁという印象があります。
その辺り、本のデザインをされている方の功績ということになるのでしょうか。児童向けの本って、昔っからそういう風に気を遣うところはあったかもしれませんね。他の児童書を特に読んだりしていないので、比較とかできないんですけれども。
視覚生理について気を遣うことを徹底することで、テキスト媒体の売れ行きというものは、全然変わってくるのかもしれませんね。
話を小説に戻します。
こうやって。
小説を読んでいると、小説家の頭の中っていうのは漫画家とは全然違うものなんだなぁと改めて思います。
本当に無駄がなくって。
一つ一つのエピソードに意味があってつながっていて。
それら一見バラバラに思える出来事が繋がって一本の流れを形成する様子は、本当に圧巻ですし、気持ちいいですね。
そう。
無茶苦茶気持ちいい!
頭のいい人って、すげぇよ。
財産だよね。
んー。ちょっとまた脱線します。
漫画を描いていて、昔編集担当者に言われたことがあったのですが。
僕は物語を割りとかちっと作る方だったんですね。物語の枠組みをきちんと決めて、その中でキャラクターに役割を演じさせる。
その方法だと、「熱さ」みたいなものが足りない、と担当氏は思ったようで、「終わりを決めて、そこから逆算するんじゃなくって。出発点を決めてそこからキャラクターを後先考えずに動かす描き方をしてみなよ」というようなアドバイスをくれたんですね。
確かに、商業漫画だとかっちり終わりを決めてそこに向かって連載回数を決めるというようなことは無いわけですから、悪い言い方をすれば「行き当たりばったりで面白くする」そういう強引さ、勢いというものは必要だったのかもしれません。
でも、僕にはその当時このやり方はできませんでした。
若かったし、「そういうものかな」と思って取り組んだのですが、無理でしたね。
今になって思うけれども、いっそのこと小説家のようにがっちり作り込んでいくやり方の方をこそ、極めていくべきでした。
枠組みを作り上げ、終わりを決め、その中で、じゃあどうやって「熱さ」を表していくのか。
それは、キャラクターの表情や台詞などを細かく修正することで成し遂げられる、ということを発見したのは、最近なんですよね。
話を小説に戻すと。
このシリーズの丁寧に作り込まれた枠組みの素晴らしさは、鳥肌ものなんですが。
その枠組みの中でキャラクターが非常に生き生きとしていることがまた、大変素晴らしいと感じます。
登場人物達は周到に用意されている枠組みなんざ知る由もなく、目の前のことに右往左往、一喜一憂して、喜怒哀楽を瑞々しく発揮します。
「あ。ここは驚く場面ね。はい、ここは喜ぶのね。ここは悲しむのね。はいはい」というような、キャラクターが予定されていることに対してこなすように反応することはまったく無く、生きてそこでその事態に、その時まさに直面してくれます。
だから、「熱さ」があるんですね。
生々しい、人間らしい「熱さ」。
それがまた、非常に心地良いし、楽しい。
枠組みが優れていて、頭の良さを感じる小説というのは、まぁいろいろあるのかもしれません。
でも、やはりそこに生々しい「熱さ」がなければ、それは枠組みでしかないんだろうな、と思います。
「熱さ」を生み出すのは、作者自身の情熱なんでしょうね。
気迫というか、又はそれぞれの登場人物達に対する限り無い愛情だったり。
そういう、「情」の部分ですよね。
枠組みを生み出す頭の良さは素晴らしいし、それはすごい財産。
だけど、そこに生々しい「熱さ」を篭めていく情熱は、更なる財産だよな、と思います。
実際。
枠組みは優れていても、熱さを感じないものは、少なくとも僕はダメですね。あんまり楽しめない。
いや、楽しめはする。
楽しめはするけど、後に何も残らないというか…。
その辺りが、きっと映画版の三本目に感じた部分なんでしょうね。枠組みをこなすことに注意がいきすぎていたからか、小説の持つキャラクターの熱さ、それこそ暑苦しい程の生々しさの部分が、演出プランの中に全然入っていないように見えて…(役者さん達はそれはもう、一生懸命演じていたと思うんですけど)。
そうそう。
また脱線していい?(って、誰に聞いてんだ)
昔、まだ無名の小説家も発掘してみよう、とか思って古本屋で適当にミステリー小説買ったりしたことがあったんですよ。
確か、女子高生が主人公のものだったと思う。
で。
さぁ、どれどれ。と思って読んでみたらあなた。
「殺人事件が起きました」「まぁ大変」「じゃあ、犯人を捜しましょう」
という展開で。
「…は?」
となりましたよ。なんじゃこりゃ。って。見事なくらい「情」の部分が欠落していて。枠組みのみ。
なんというか、正直な気持ちを言葉にすると「アホか!」って感じ。
まぁ、昔の話ですから、今はそんなもんが書店に並んだりはしていないのかもしれませんが。
物語が伝えていかなければいけないのは、枠組みじゃないと思うんですよ。
さりとて。
「情」だけを剥き出しで表現しても、それは娯楽にはならない。
「枠組み」と「情」のバランスが気持ちのいい状態で保たれているものが、読んでいて楽しいものになるんだろうと思うんですね。
で。ハリーの話に戻ると、このシリーズはそこのバランスが非常に良いと思うんです。
作り込まれた枠組みと、その中で熱を持って生きる人物達の情熱。
それが、とても面白い。楽しい。
だいぶ、重々しい暗いエピソードも出てくるわけですが、それでも楽しく読んでいけるのは、この作品が優れた娯楽作品だからこそなのだと思います。
プロフェッショナルとしての知性と情熱。
でも、それは娯楽を生み出す者としては、とても基礎的な能力なのかもしれません。
シンプルだけど、とても重要な二つの能力。
それは、多大な努力と経験を積むことによって獲得できるものなのかもしれませんね。
そしてまた。
知性や知力というものが、努力によって獲得できるものであるならば、その努力を生み出すものは、やはり「情熱」なのでしょうね。
物語の中で魔法が描かれるわけですが、それは専門技術なわけですね。
それを学ぶには知性が必要。
そして、それを習得していくためには、そもそも情熱が必要。
そのことは、人が生きていくための、とても普遍的で基本的なことなのかもしれません。
そして、実際にJ・K・ローリング氏が情熱を持って、優れた娯楽という魔法を生み出してくれています。
だからこそ。
この物語は人に勇気を与えるし、この娯楽は人の心を潤すことができるのでしょう。
だからこそ。
僕はこの物語を読んで、勇気づけられ、心に潤いを満たすことができるのでしょう。
情熱を持って努力をし続けるならば。
自分が取り組んでいる分野において「魔法使い」になれるのかもしれませんね。
それは、あらゆる人が。
物語はいよいよ次巻で完結ですね。
どんな結末になるのか、とても楽しみです。
同時に、物語に篭められた情熱を心いっぱい感じられることを、期待して止みません。
おそらくは。
最高の知性と情熱で、僕の心を焦がしてくれることでしょう。
なんとも。
まとまりのない感想になってしまいました。相変わらずの長文になっちゃったし。
情熱と努力で僕も知性を手に入れなければ。
あまり何も考えずに書き始めたのですが、やはり物語を作る人間の視点での感想になってしまいますね。
優れた娯楽は、宝の山ですよ!
でも、それは物語を作らない人でもそうだと思うんですよね。
どんな仕事をする人にも、学生さんにも、優れたものには必ず自分のためになっていく何かがあるんだと思います。
それが、「情熱」ということに帰結していくかなと思い、途中からそこを焦点にしてみました。
やっぱり。
人間、暑苦しい程の情熱を持って生きていきたいですね。
暑苦しく、生々しく!
では、そろそろ終わろうと思います。
長々とした文章を読んで下さってありがとうございました。
乱文乱筆失礼いたしました。
誤字脱字、意味の通らない文章は発見次第修正していきます。
それでは。またです!
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コメント
こんばんは。少しご無沙汰しておりました。mementoです。
だんちさんはもうすでに6巻を読んでおられるんですね。僕のほうはまだです。相変わらず本が片付かないので…。
僕のほうは前作「不死鳥の騎士団」をやっと読んだところです。子供と大人の境にいるハリー(彼ももう15歳ですか…)が、周囲の状況や大人の無理解にイライラを募らせ、さらにはダンブルドア校長さえ苦悩を吐露する場面など、これまでの爽やかなハリポタのイメージとは一転、痛々しく物悲しい雰囲気が印象的でした。いくつかの伏線も回収されないままで終わるので、読後感はすっきりとはいかなかったけれど、作者はこのシリーズ全体で、ハリーの成長を描こうとしているわけで、おそらくこれも作者の意図したことなんだろうと思います。少年の成長には苦悩や痛みが伴うものですからね。
物語としてのハリポタは、だんちさんのおっしゃるように、優れた枠組みを持ったシリーズで、その枠組みを崩さないよう、作者が実に巧妙に各巻でバランスをとっている、という印象が個人的にあります。
そうやって全体のバランスを見極めながら、巻ごとのストーリーやキャラクターごとのダイナミズム…だんちさんの言葉でいうなら「熱さ」や「情」を込めることにも抜かりのないあたり、J.K.ローリングは天性のストーリーテラーなんでしょう。なんていうか、計算しているのだけど、計算していないというか。全部きっちり計算していたら、とてもこんなふうにはつくれないと思うんですよ。
ひょっとして、ローリングはシリーズの途中で、キャラクターをコントロールすることはやめてしまってるんじゃないか、とすら思います。それでいて、しっかりと全体に目配せして破綻のないようにストーリーを編み上げる手腕は、本当に恐れ入るばかりです。僕も早く6巻読みたいなあ…ハルヒの後になるだろうけど…。
ところで、映画のハリポタを見て、アラン・リックマンに注目するとはさすがですね! 個人的に彼は大好きな役者なんですが、「ダイハード」もいいですけど、お気に入りは「ギャラクシー・クエスト」のトカゲ星人、ドクター・ラザラスです。
「ギャラクシー・クエスト」は映画自体も大のお気に入りで、もし、だんちさんが「スタートレック」がお好きなら、楽しめることは保障いたします(特に「スタトレ」を知らなくても全然支障はありませんが)。未見ならぜひ、ご覧になってはいかがでしょうか。
それでは。
投稿: memento | 2006年10月16日 (月) 00:10
mementoさん。おはようございます。コメントありがとうございます!^^
「不死鳥の騎士団」は、大物の伏線を落としてくれましたよね。その上で様々な事柄が繋がっていったり。すごい見せ方してくれますよね。本当に。
>子供と大人の境にいるハリー(彼ももう15歳ですか…)が、周囲の状況や大人の無理解にイライラを募らせ、
>少年の成長には苦悩や痛みが伴うものですからね。
そういったところを本当に意識して作っている作品ですよね。
子供が痛んで苦しんで、そこから自分で這い上がって、友人を得たり信頼を得たり。そして一人前の大人、男になっていく姿を描いていくんでしょうね。
そういった物語が「ゆりかごから墓場まで」のイギリスから生まれてくるのは、なかなか面白いことですよね。
ローリング氏には、きっとこの物語を書くべき必然があるんだろうなと感じます。
その必然がmementoさんが仰る
>計算しているのだけど、計算していないというか。全部きっちり計算していたら、とてもこんなふうにはつくれないと思うんですよ。
という部分なのかもしれませんね。
必然はコントロールできないから、「キャラクターをコントロールすることはやめてしまってるんじゃないか」というのは、そうなのかもしれませんよね。
だけど、登場人物達が生々しく、その時その場を必然をもって生きていたとしても、全体の枠組みは破綻しない。こりゃやっぱりすごいですよね。
実際、ものすっごく冷静に書いているのかもしれませんね。やー。やっぱり小説家の頭の中って、宇宙人みたいですよ。わけわからんー。
>僕も早く6巻読みたいなあ…ハルヒの後になるだろうけど…。
お!ハルヒ入手しましたか?いろいろ読まなければならない本も多いと思いますが、是非ハルヒと6巻、読んで感想聞かせて下さいね!
トイレでも風呂でも読むのだ!
そうそう。アラン・リックマンが出演している映画「ギャラクシー・クエスト」を教えて下さってありがとうございます。
知らない作品なんですが、調べてみたら「スタートレック」へのオマージュ満載な作品のようですね。「スタートレック」は時々テレビでやっているのを見ていたくらいですが。どんなオマージュが見られるのか、楽しみになってしまいますね!
それにしても…「トカゲ星人、ドクター・ラザラス」
トカゲ星人って!!すげぇ。もうそれだけで見てぇ!!
このコメントをいただいた後にレンタルビデオ屋に行ったのですが、ちょっと見当たりませんでした。SF棚には無かったけど、役者別とか監督別とか、カテゴリーが多いので、もうちょっと探してみますね。
関係ないですけど、僕が好きな役者さんの一人がエド・ハリスなんです。それで「江戸針スナヲ」というペンネームを考えたことがあったのですが、友人から「つまんねぇ」とダメ出しされてしまいました。いいペンネームだと思うんだけどなぁ。って、どうでもいい話っすね。すんません。
コメントをいただいて「不死鳥の騎士団」を読み返したくなりましたが。読み返すのも大変なシリーズですよね^^;
今後も、「ハリー・ポッター」シリーズを共々に楽しんでいきましょうね!
ではでは!^^
投稿: だんち | 2006年10月17日 (火) 09:30
「ギャラクシー・クエスト」を探していただいたようで、ありがとうございます。
SFの棚にはありませんでしたか。だったらたぶん、コメディのほうにあるのかもしれませんね。
エド・ハリス、いいですね。「スターリングラード」でのスナイパー役はえらい格好よかった。
で、「江戸針スナヲ」ですか…。えーと…いいんじゃないでしょうか、ハハハ…。
しかしこの名前だと、あの猛禽類みたいな鋭い顔が「ものまね王座決定戦」の審査員席に座って、ほかの人がみんな10点出してるのに、彼だけ9点出してるとか、そんなイメージが浮かんでしまうんですが…(古いな俺も)。
投稿: memento | 2006年10月22日 (日) 23:13
mementoさん、おはようございます^^
なかなか見つかりません「ギャラクシー・クエスト」。でも昨日探した時はウンコしたくってあんまりゆっくり探せなかったし。作品と巡り会うのも縁なので、じっくり探していきますね。
「スターリングラード」のエド・ハリス!!超格好良かったっすよね!!
あの映画はエド・ハリスが「ナチスの凄腕スナイパー」を演じるというのを知って、それのみを目的として見ましたよ!
物語の背景にある部分に関しても非常に見ごたえがあって、良い映画でしたね。最近の情勢のこともあるし、若い人にも見て欲しいなぁと思ってしまいます。
>あの猛禽類みたいな鋭い顔が「ものまね王座決定戦」の審査員席に座って、ほかの人がみんな10点出してるのに、彼だけ9点出してるとか
あはははは!!!(笑)すげぇ格好いい!!
懐かしいですね。「ものまね四天王」とか。ちゃんと芸を感じさせてくれて面白い番組でしたよね。「ものまね」なんだけど、芸としてのオリジナリティがあって、あれは好きだったなぁ。
投稿: だんち | 2006年10月24日 (火) 09:14