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2006年11月 7日 (火)

「リーンの翼」を一挙無料放送で全話見た。

 おはようございます。だんちです。
 昨日の「富野由悠季監督誕生日記念、『リーンの翼』全話一挙無料放送」にて、「リーンの翼」を第1話から第6話まで視聴しましたので、感想を書きたいと思います。

 まず、「富野監督お誕生日おめでとうございます」、と言わなければいけませんね。
 小学生の頃にガンダムに出会って絵を描くようになり今に至っている僕にとって、富野監督はいつまでも心のお師匠様でございます。
 生まれてきてくださって本当にありがとうございます、という感謝の気持ちでいっぱいでございます。

 といっても、誕生日プレゼントを用意してサンライズに送ったりすることもせず。しかも「無料放送」という機会をもらって、こちらが一方的に受け取るばかりで。
 いかんですな。
 来年は何かご用意して送りつけようかな。まぁ、ご迷惑にならない範囲で…。

 しかし。
 誕生日という機会に「無料放送一挙公開」というのは素晴らしいな、と思いました。
 記念の日に、自分の方から何かを与えていく、という発想を持つことは重要だよな、と感じます。
 というのも、僕なんかは子供の頃から「損をしないように」という教育を受けてきているからです。おそらくは、僕の世代、その下の世代もそうではないでしょうか。
 「得が善で損が悪」という教育を受けた僕らは今、団塊ジュニアとして世間の中で苦しみ、そしてまた世の中にも苦しみを与えてしまっていたりしていて、しみったれててまったくしょーもねぇ。

 そんな中、なんでガンダムに夢中になり富野作品を追いかけまくっていたのか。
 そのことを考えると、それを見ると得をするからとかではなく、本気で何かを与えようとしてくれている、という感覚を子供ながらに感じていたからなんだろうな、と思います。
 子供向けだから、と馬鹿にして作るのではなく、損得を越えたところで何かを発信してきている感じ。そのために心血を注いで物語を作っている感じ。そういう何かに惹かれて、富野某の名前なんか知らなくっても、何かを受け取ろうとこっちも一生懸命テレビの前にかじりついていたのでしょうね。

 そして今また、誕生日の機会に無料放送一挙公開。
 今は物語を作る側になっている自分としては、感じるところ大なわけです。
 やっぱり、このオジサンは損得でやってねぇんだな、と改めて感じて、大いに学ぶところがあると思うのです。勿論、営業観点でのサービスっていうのは当然あることは承知の上なんですが。そこはやはり商品ですから、当たり前のこととして。いいサービスだな、って感じるんですよね。僕は。

 さて。
 そのサービスを受けて視聴した「リーンの翼」第1話から第6話。
 楽しく見ましたよ!!
 完全にサコミズの物語になっていたわけですが、分かりやすく大変面白かったです。
 サコミズはもう、完全に富野監督ですよね。
 神奈川出身で、小田原城の主だった北条氏から「ホウジョウ国」と名づけてみたり。そこまではっきり自分を投影させるんだ!とびっくりしました。その分、すごく素直にドラマが展開していて、メッセージもまた非常にストレートで分かりやすかったですね。

 第6話で、エイサップが「力は未来のために使うものだ」と言うところなんか、「そう!!それだ!!」と見ながら心の中で喝采を送っておりました。

 やはり、物語を作る者は未来に対して目を向けて、受け取り手の人達の目を未来に向けさせなければならないと僕は思うんです。
 物語を見たり読んだりした後に、「さぁ、この先どうするのか」というところに視聴者や読者を「お連れする」。それをエンターテインメントの心地良さを持って成し遂げていくところに物語を作る意味がある。
 それは何も複雑なメッセージでもなんでもなく、「元気に前を向いて、いい世の中にしてこうよ」という、そんな当たり前のことでいいんですよね。そういうことは、ロボットものでもできるし、ナンセンスギャグでもできるし、エロでもできる。
 その簡単で単純なメッセージを物語に乗せていくことが、損得を越えたものなんだと思うんですね。

 だから。
 僕はこの物語を見て、よくこれを作ってくれた!と思いました。
 青臭い程メッセージ性の強い、超ストレートど真ん中の作品を、名前のある監督がなりふり構わず作り上げて見せてくる。
 これはもう、感動せずにおれますか!

 第5話、第6話は、もう。泣きました。
 泣きに泣いた。
 第6話を見て泣いた時は、目が乾いていたもんだから涙で目が痛くて痛くて。「見たい!だけど痛くて目が開けられない!」という有様でございました。

 最近楽しく視聴している「幕末機関説いろはにほへと」もそうだし、国が変化していく時の国を想う男の在り様というのは、やはりもうグっときて仕方がありません。
 サコミズが皇居の前に降り立つところなんか、今思い出しても泣けて泣けて仕方ありません。
 そりゃもう、僕も男だからこそ。
 そうなんですよね。サコミズ自身が損得じゃないところで生きて…死んでいったんですよね。
 それは、国だけのことでなく家庭のことだってそうで。
 エイサップの父親が異国の地で愛した女性のため、生まれてくるエイサップのために、時間がかかりつつも家庭を築いていくところとかも、損得じゃないんですよね。
 アマルガンもそうだし。

 だけど、やはり同時に損得で動く者もいて。
 それが、独立しようとしていた米軍の艦隊司令だったり、サコミズの後妻だったり、その後妻と懇ろだったサコミズの部下だったり。ジャコバもバイストンウェルのことしか考えてなかったり。

 でも、それをただ単純な悪として描くのではなく、人の在り様の一つとして当然のこととして描いているところが、道理の通ったところだな、とも思うんですね。

 エイサップが言った「力は未来のために使う」という「力」とは、そういった在り様から生まれてくる力も含めてのものだとも改めて思います。
 実際、サコミズ自身地上界に出るために騙まし討ちをしたりして、人の恨みや怒りの力を利用したわけですが。そういったものも、力。
 損得だったり怨念だったり、そういった力も事態や世の中を動かしていくわけですね。
 無残に死んでいった者達の命が翼となって、それがオウカオーやナナジンの力となって。
 過去の事実や無残さは変えられない時に、そこで生まれた力をではどうするのか。
 それはもう、現実に向き合って、「未来のために使う」しかないんですよね。エイサップが言うように。
 それは、綺麗事でもなんでもなく、それが現実だし、事実なんでしょう。
 だからこそ、サコミズの最期こそがやはり綺麗事になっていくし、彼はそうやって綺麗に散る以外、なかったのでしょうね。

 
 でも、エイサップに「未来」と言わしめたことをもって、彼の散り様には意味があったよな、と思ったりします。
 
 
 本当に、意味のある物語でした。

 そんな物語の中心人物、サコミズを演じたのは小山力也さん。
 いやもう、力也氏のあれほどの熱演を聞いたのは初めてでした。すげかった。マジですげかった…。
 全体的に熱演好演の光る「劇」となっておりましたが、力也氏の超熱演は本当にもう凄まじいもので、アニメ史に残る名演技と言って良いのではないでしょうか(と、勝手に言ってみたり)。なんというか「キングゲイナー」の「アガトの結晶」での子安さんの超演技なんかを思い出しました。

 また、主役とヒロインであるエイサップとリュクスとを中心にこの物語を見た時には、このお話は「パニック映画」であるといえるのかもしれない、とも思いました。特に第1話なんか、かなりのパニックが巻き起こっておりましたね。そのパニックは最終話まで収束することはなく、更なるパニックが次々引き起こされ、怒涛の展開を見せ続けていくわけですが。でも、見ていて「こういうものかもしれない」と思ったりもしました。
 パニックは、そこで起こっている事態そのものであって、その中にいる人達はパニックに陥らないで思考や行動をしたりするのかもしれない。現実に僕らの周囲に起こっていることも、パニックなのかもしれない。なんてなことを。
 様々な事態は常に起こっていて、巻き込まれたり、主体性を自覚したり、人を愛したり、愛されたり、怒ったり、裏切られたり、助けたり助けられたり。

 そのある種パニックとも呼べるようなスピードで展開される事態の中で、人は何を頼りにするのか。
 それはもう、理屈ではなく、感覚なんだろうな、と思います。
 アマルガンがどういう人物か最初は全然分からないんだけど、でも絵や声や話し方なんかで「この人は悪い人じゃない気がする」と感じる。
 リュクスとエイサップの距離にしても、「あ。これはもうデキてるな」というのが二人の振る舞い方や話し方で感じ取れる。
 サコミズの内面も、後妻の心の内も、エイサップの父親のことも、理屈や説明でどうのこうのではなく、感じ取っていける。
 なるほど、それは。アニメーターや声優さんに厳しい指導をするはずだよ、と改めて思います。感じ取ることができない絵や演技だったら、成り立たないわけですからね。
 そういう見せ方ができるのは、富野監督がこれまでの人生の中で多くのことを感じ取ってそれを自分の中にストックしているからだな、と物語を作る人間の端くれとして感じます。
 それは、当然のこととして簡単なことじゃぁないですよね。並みの努力じゃストックできねぇよな、と思います。そしてまた、そこが子供騙しじゃねぇぜ、って思うところなんでしょうね。

 怒涛の展開の中で、理屈ではなく物語を感覚で受け止めて感じ取っていくわけですが。その物語の中で、エイサップもリュクスも立ち止まっていないところがとても好きです。
 すごく力強くて。
 でも、彼らは身の丈以上のことは決してできていなくって。
 パニックの中で自分を見失わないでいることで精一杯だったのかもしれない。
 物語の中であっても、若者は若者でしかなく、ただ「力は未来のために使うものだ」と叫ぶことが精一杯。
 だけど、それだけのことでも、とても力強く、立派に見えました。
 ほとんど何もできなかった彼らだけど。それは若者の現実の姿ですよね。
 でも、俯かない。
 そうでなくっちゃいけないよな、と思います。

 とはいえ、別れは辛いものですから。ラストはなんともやはり切なかったですね。
 あそこでエイサップが「でも僕は頑張るよ」なんてな感じにならなくって良かったと思います。そうなると、まさに「三文芝居」になっちまいますからね。
 ラストに関しては、ちょっと一回見ただけではなんとも判断しかねる余韻があったので、いずれDVDを買うなり借りるなりして改めて見てみてどう感じるのかを確かめたいと思っております。
 やはりそこは、「若者に委ねる」見せ方なんでしょうね。

 気がつくと、だいぶ長々と書いてしまっていますね。そろそろ終わります。
 本当に、良い物語でした。60を越えた大監督がこれだけ生々しく瑞々しいものを作るというのは、物語作りをしている者としては、その勇気、肝っ玉に感服せずにおれません。大変力強いものを受け取ったように思います。
 監督の誕生日なのに、見ているこっちがプレゼントをいただいたようで。本当にありがたいことです。
 やはり、物語を作るものは、度胸ですね。
 くそ度胸。
 いやすげぇ。
 本当にすげぇ。
 30代の僕なんかがチマチマしてちゃいかんですね。
 ちくしょー、頑張るぜ!!

 本当に気持ちの良い作品でした。
 富野監督の次回作がどういったものになるのか分かりませんが、期待しまくりで待ちたいと思います。
 富野監督、お誕生日おめでとうございます。そして、ありがとうございました!

 ではでは、またです!

 参照:「なぜアニメの感想を書くのか。どういったスタンスで書くのか。」
    :「物語り人(ものがたりびと)」であること。…学習機会レポート2
    :「物語作りの基礎。普遍的土台と誇張表現の調和により生まれる適度な感情移入…学習機会レポート」

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コメント

「これが迫水真次郎のその後か…」
はるか昔に小説版「リーンの翼」を読んで、てっきり、それをそのままアニメ化したのかと思って見てしまったmementoです。こんばんは。
富野監督の一連の「バイストン・ウェル・シリーズ」の主人公たちの中では、実は迫水が一番好きだっただけに、ちょっと衝撃でしたが、ある意味、すごく納得できる「その後」でした。
(ただ、アニメ版は小説の後日談そのまま、というわけでもないようですね。なにしろ小説の最後は…。まあ、パラレル的な話ってことなんでしょう)

以前に富野監督は「ダンバイン」が失敗したのは、主人公のショウ・ザマを結局自分が好きになれなかったことに一因がある、というようなことをいわれてたのですが、それと対比する形で、
「ショウのように視点が広がりきった現代人より、僕は迫水みたいな、一点集中型の人間が好き」
ともいわれてました。たぶん、だんちさんの指摘されるように、富野監督自身が迫水/サコミズであるからこその、この言葉なんでしょう。
僕なんかは典型的ショウ・タイプの現代人で、しかも、やはり損得勘定が染み付いてしまってますから、サコミズのような、一点集中な純粋さに、物凄く憧れます。それと、小説を読んでいる身としては、最後に彼が日本に戻って、先祖代々の墓に葬られたことには、感無量でした。

ところで、富野監督に対してはいろいろな評価がありますけど、日本一の「お姫様/お嬢様コンプレックス」作家だと思うのは、僕だけでしょうか?
いや、宮崎駿監督がロリコンだっていうのは、よく知られている事実(?)ですが、僕的には富野監督は最高の「姫/お嬢コン」アニメを作れる人です。今回のリュクスも、セイラさんやシーラ・ラパーナに劣らないキャラでした。ディアナ様には及びませんが、まあ、あの方は僕の中で別格なので。

えーと、結局なにがいいたいのか、自分でもよくわからなくなりましたが、とにかく、これからも富野作品を期待してますってことで。60歳過ぎてこんな作品が作れる人には、やっぱり、期待せざるを得ないでしょう。
それでは。

投稿: memento | 2006年11月12日 (日) 00:46

mementoさん、おはようございます。コメントありがとうございます^^
「リーンの翼」ご覧になりましたか!見応えありましたよねぇ。
アニメーションは小説とは違うものとして企画されたようですね。
僕は小説は1~2冊だけ読んだ記憶があります。
なんだかすげぇエロくって。だんち少年はエロ小説として楽しんでおりました。でも、親父が見つけて読んだらしくて、気がついたら親父がこっそり持って行っちゃったんですよね。気に入ったらしくって。なので、その後の行方は知れず…。

「ダンバイン」の記憶ももうだいぶ無いですね…。あれも随分人が死んだなぁっていう印象はすごくありますが。
テコ入れのために地上に出して、そこから無茶苦茶になった、というような話をどっかで見たようにも思います。僕はバイストン・ウェルの世界観がすごく好きだったので「地上に出なくってもいいのに」とは思っていましたが。でも商売だからその辺は難しいんでしょうね。
ショウ・ザマの印象も今となってはちょっと薄いかもしれません。ザブングルのジロンがどんな奴だったかは思いだせるのに。
その辺りが「視点が広がりきった現代人」というところで、没個性的になってしまったから、なのかもしれませんね。
「一点集中型」の主人公は確かに印象に残りますし、物語を動かしますよね。これは…なんかすごくいいことを教えていただけたように思います。
思い返せばアムロも「父性」を求めてずっと戦っていたようなところありますよね。ララアに「故郷もなければ家族もいない、人を愛してもいない。それなのになぜ戦うの?」というようなことを言われていて、「うっわ!すっげぇこと言うなぁ」と思ったのですが、アムロにとってホワイトベースが全てだったんだろうなぁ、なんてなことを今更ながらに思ったりします。
ロランもディアナしか見てなかったし。
「一点集中」はものすごく純粋だし、行動を生んでいきますよね。一点集中ってことでいうと、僕ハリー・オードとか無茶苦茶好きなんですよ。行動原理が一貫してとことん視野が狭くて。だからこそ男らしいなぁって思ったりしてて。

>サコミズのような、一点集中な純粋さに、物凄く憧れます。

憧れますよねぇ。あのなりふり構わないところ。上手に生きるんではなく「生きる」ということ「命を全うする」というところに集中しているところが、痺れますよね。
憧れることができるキャラクターを生み出すことができるというのは、それだけ命を吹き込んでいるっていうことですから、やはりすごいことですよね。役者さんも含めて、本当に本気で作って見せてくれているんだということを改めて感じます。

>それと、小説を読んでいる身としては、最後に彼が日本に戻って、先祖代々の墓に葬られたことには、感無量でした。

あぁ…小説を読まれていると、より一層心に来るラストだったのでしょうね。非常に良いラストでしたよね。美しい絵と共に、サコミズが綺麗に散るべくしてその命を全うした様を描いていたように思えて。すごく意味のあるラストだったように思います。

>ところで、富野監督に対してはいろいろな評価がありますけど、日本一の「お姫様/お嬢様コンプレックス」作家だと思うのは、僕だけでしょうか?

ふむ!これはまた興味深いテーマを持って来ましたね!!
確かに、富野監督はお姫様的な総括的母性というか、大きな母なる存在に対してすごく畏敬の念を持っているように感じます。ある種マザーコンプレックスなのかもしれませんが、それを隠さず表現してくるところがすごいですよね。
その意味では、男として「自分は命を生めない」というところにコンプレックスがあるのかな?と僕なんかは思ったりしますけれども。でもそれは「お姫様/お嬢様コンプレックス」とは視点が違うか…。
もっと純粋に美しさに対する憧れなのかなぁ。きっと思春期の体験とかが大きいんでしょうね。

リュクスもお姫様でしたねー。しかも信じるところを貫く強さを持った。
でも僕はキングゲイナーのサラみたいな庶民の子が好きなんですよね。富野監督が好きじゃないようなのが(笑)
「∀」ではソシエが無茶苦茶好きだし。
…単純に、ショートヘアが好きなんですよね。あぁ違う話になってきた。

>えーと、結局なにがいいたいのか、自分でもよくわからなくなりましたが、

じゃあ、フリートークでだらだら語りましょうぜ(笑)
ちょっとやそっとじゃ語り尽くせるはずのない人を話題にしているわけですしね^^
65歳だなんて、なんというか信じられないですよね。
まだまだ散らないで、力強い作品を沢山見せて欲しいですね!!

ではでは、またです!^^

投稿: だんち | 2006年11月13日 (月) 05:59

僕も小説版「リーンの翼」を読んだのは少年の頃でしたが、あの読書体験はそりゃもう、刺激的でした。「ダンバイン」では毎回、冒頭で、
「バイストン・ウェルの記憶を持つ者は幸いである…」
とかなんとか、そういうナレーションがかかってましたけど、僕にとってのバイストン・ウェルの記憶は、濃厚なエロスとバイオレンスに彩られてます。まあ、ある意味、幸いっちゃ幸いですが。

>思い返せばアムロも「父性」を求めてずっと戦っていたようなところありますよね。

ショウを好きになれなかったと語った同じ文章の中で、富野さんは確かアムロについても語っていたと思います。それによると、アムロは自分の中に価値基準がないままに、ただ事態を受け止めた…言い換えると、戦う理由はないままに、状況をただ受け止めて戦っていた、と。でも、ショウにはもっと悪いところがあって、本当は戦う理由も自分なりの価値基準もないくせに、どこかでそれを持てると思っている、ということでした。
常識や既成の価値観に縛られない生き方は憧れだけど、そうするためには、自分なりの価値基準を持って持続させなきゃならないわけで、根本的な人間力(稚拙な言い方ですけど)が必要なわけですよね。でも、一点集中じゃない現代人は、なかなかそういう強さは持てなかったりもします。
この発言は「ダンバイン」終了直後(たぶん、83年頃でしょう)の記事のものなんですが、なんか、今の若者にこそ、当てはまりそうな言葉かも…っていったらキツすぎるかな? まあでも、基本的に僕もショウですから、すごくわかってしまうんですよね。

ただ、だんちさんがおっしゃった「父性」を求めて、というのもおそらく当たっていて、それはむしろ、富野監督自身が求めていることなんじゃないかな、と思います。アムロは父親を見出して(象徴的な意味で)殺したかったんだろうし、シャアもそうだったんだろうな、と。やっぱりマザー・コンプレックスですよね。
僕の言う「お姫様/お嬢様コンプレックス」っていうのも、聖/性の対象である女性を上位に置きたいっていう、要は「僕のママになってよ」ってやつですし。もう典型的なエディプス・コンプレックスなわけですが。
だから、「逆シャア」の最後でのシャアの台詞、
「ララァは私の母になってくれたかもしれない女性だったのだ!」
を聞いたときには、本当に富野さんは、あけすけに自分自身をフィルムの中で語ってしまう人なんだなあ…と思いました。いろいろいわれる人ではありますけど、どんなときにも本気で、真っ向から視聴者と向き合う監督であることだけは、間違いありません。

なんか、富野作品について語ると、自分の性癖の暴露になってしまいかねない(もう遅いですな)ので、いいかげんにしておきます。アニメ版「リーン」はあまりに怒涛の展開すぎたので、できれば26話くらいの尺で見てみたかったですね。新作ももちろん見たいですが、リメイクしてもらえないかなあ。ま、いずれにしろ、やはり期待です。
それでは。

投稿: memento | 2006年11月15日 (水) 18:27

mementoさん、おはようございます^^
僕のバイストン・ウェルの記憶も、mementoさんと一緒で「濃厚なエロスとバイオレンス」ですねー。
「ダンバイン」で印象に残ってることの一つに終盤のキャラクターの死にっぷりの中で、綺麗な女の子の無残な死に方があって。あれとかも、子供心にヤバイ刺激でしたし。
でも、その記憶もあることで自分の性癖に開き直れるところがあるのかもしれないから。そういう意味ではやっぱりこの記憶は「幸い」なのかもしれません。

>この発言は「ダンバイン」終了直後(たぶん、83年頃でしょう)の記事のものなんですが、なんか、今の若者にこそ、当てはまりそうな言葉かも…っていったらキツすぎるかな?

なるほど。富野監督の仰ることと共に、「根本的な人間力」のことや「そういう強さを持てない現代人」のこととか、面白いですね。
僕は、今の若者っていうのは、「本当は戦う理由も自分なりの価値基準もないくせに、どこかでそれを持てると思っている」というショウ的な傲慢さとは違うものがあるかな、とも思います。
若者を作り出すのは大人で、どういう教育や価値観を与えていくか、ということによって若者は形成されていくのだと思います。
アムロが70年代的な若者だとしたら、当時の大人達が状況に揉まれながら力強く働いて闘っていたんだろうと思うし、80年代的な若者としてショウを括るとしたら、当時の大人達が根拠の無い傲慢さに浮かれていたんじゃないかな、と思います。
ちょー乱暴な言い方ですけども。
それで言うと、今の若者はもっと臆病で、傲慢さとは逆に多様化する価値観の渦の中で「常識や既成の価値観」を欲しがっているのではないかな、と感じます。
80年代が「個性」という言葉で傲慢さを誤魔化していたとしたら、「アリ」とか「ナシ」とか言って、表面的な傲慢さで臆病を誤魔化しているような。そんな感じがします。
「キングゲイナー」のゲイナーとか、そういう象徴とも見れるのかな、とも思いますが。どうでしょうね。ゲームの世界でキングなんだ、とその中に閉じこもって自分の周囲の現実とコミュニケートしようとしなくって。いざデートする時も自分で服を選ぶこともできなくって、すっげぇ滑稽な格好をしちゃったり。
でも、実はそれってすごく素直なんですよね。臆病なだけで、傲慢ではない。
その意味では、ショウ的な若者よりゲイナー的な若者の方がずっと救いがあるよなぁと思ったりします。
「大人が若者を形成する」ということで言うと、今の大人がそもそも傷ついて、すごく臆病になっているんじゃないかなぁと思うんですね。
アニメなんかでも「とりあえず萌えものを…」的に弱気にプロデュースする傾向に対して「ビクビクしてんじゃねぇ!」って現場サイドから反発があったりもするようですが。やっぱり、大人がまずビクビクしてるよなぁと思いますよ。
で。今後の若者がどうなっていくか、といったら。
それはもう、僕らの年代がどういう大人であるか、によっていくんだろうな、と思うんですね。
僕らが「根本的な人間力」を持って生きていくならば、力強い若者はどんどん出てくるでしょうから。要はもう、「俺らがどんな大人になって体張って生きていくのか」っちゅうところに、入っていくことになるんでしょうね。
そのためには、僕らがサコミズとか富野監督なんかに憧れていくことは、すごく大事なんだろうし、僕らの年代(と勝手に同年代と思って括ってしまっていますが)もアニメ「リーンの翼」を視聴できたことは、まさに「幸い」なのかもしれませんよね。

父性、母性の話と絡めると、僕らが若者に対して「どういう父であるか」「どういう母であるか」ということになるんだと思います。
それは、直接の父親や母親でなかったとしても。
アムロにはブライトという「父性」があったことがすごくでかかったと思うんですね。だから彼は最後まで闘えたんだと思うし、母親も父親も捨てることができたし、ホワイトベースのみんなを守れたんだと思います。
それに対して、シャアは父親を殺されて深く深く傷ついて、そこで傷ついた心を癒してもらうことを母性に求めたのかもしれませんね。
それが、キシリアだったり、ナナイだったり、そしてララアだったりしたのかなって思います。
シャアが結局アムロに勝てなかったのは、彼にとっての父性が存在していなかったからかもしれませんよね。
母親の代わりはいくらでも求めても、父親の代わりを誰にも求めなかったということは、それだけ彼にとって父親の存在がでかくって、マザコンのロリコンに見えて、実はシャアは超ファザコンだったのかも。そう考えると、デギンではなく、デギンという父親がいるガルマを真っ先に殺したことも、そのことに虚しさを感じたことも納得できるかもしれません。

と。ここまで書いて思いましたけど。
富野監督がアニメ版「リーンの翼」を作って、「何をするべきなのかが分かった」ということを仰っていましたが、それはもしかすると「俺が若い連中の父親になる!」というようなことなのかもしれませんね。
テレビ版「Zガンダム」でブライトがカミーユについて「カミーユの父親代わりはできない」というようなことを言ったことがありましたが、そのことでいうと「いいよ。俺がカミーユ(つまりは若者)の父親になってやるよ」という肝(はら)が決まった感じなのかな、と思ったりします。

マザコンの話がファザコンの話になってしまいました…すんません^^;

>「ララァは私の母になってくれたかもしれない女性だったのだ!」

は、明確なマザコンの表現で、すごい台詞ですよね。あの時点で一国を束ねている男が言うことなわけですからね。すげぇっすよねぇ…。
同時にそれをアムロにぶつけることで、アムロに対して父性を求めていたりしたのかもしれない、とも思ったりもします。
だからこそサイコフレームの情報を与えて対等の条件を作り出したり。
アクシズを地球に落とすなんていう極端なことまでしようとして。それは、本当は「グレたけど、親父に叱って欲しいんだ」的なことだったり。
なんていう風にも思ってみたのですが。どうでしょうね。

>いろいろいわれる人ではありますけど、どんなときにも本気で、真っ向から視聴者と向き合う監督であることだけは、間違いありません。

いやぁ、本当にそうですよね。やっぱり富野監督は「父性」の権化かもしれないっすよね。ガンダム世代のクリエイターが「富野チルドレン」なんて言われたりもしますが、僕ら多くの視聴者含めていっぱい「子供」を育ててくれているなぁと思います。

>なんか、富野作品について語ると、自分の性癖の暴露になってしまいかねない(もう遅いですな)

あははは(笑)もっとぶつけてくれてよろしくってよ!!!
ってことは僕はファザコンなんでしょうねぇ。こんだけたっぷりとっぷり父性について語って。
でも、作品を鏡にして自分のことを知ることができるというのは、素晴らしい視聴体験だよなぁと改めて感じます。
そういう作品を、富野監督にはこれからもいっぱい作って欲しいですね!

>できれば26話くらいの尺で見てみたかったですね。新作ももちろん見たいですが、リメイクしてもらえないかなあ。

おぉいいっすね!バイストン・ウェルもので2クールくらいの、見てみたいですね。新作も含めて、富野監督を支える若いプロデューサー達に、頑張ってもらわないといけませんね^^

刺激を受けて、勝手な語りをいっぱいしてしまいました。えらく長くなってもしまいましたし…すんません。
でも、富野作品について語るのは楽しいですね!^^

ではでは、またです!

投稿: だんち | 2006年11月17日 (金) 11:17

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