「らき☆すた」第3話を見た。
おはようございます、だんちです。TVKにて「らき☆すた」第3話を見ましたので、感想を書きたいと思います。
前回の感想で、「これは風俗だ」と書いたわけですが。
その観点でいうと、毎回「ナンバーワン・ホステス」が決まっているのかな、と思ったりもしていました。第1話はこなた、第2話はかがみ。ということは、今回はつかさかな?で、その次がみゆきかなぁってな感じで。
…つかさは、一番にはなりにくい…かな。
いやでも、目立つアップも多かったように思うし、意識的に可愛く描かれていたように見えましたけれども。
今回、つかさのドジから始まりみゆきのドジで終わりましたから、バトンタッチはされたって感じでしょうか。
でも、実際のところクラブ「らき☆すた」はまだ開店したばっかりだし、僕らもまだ入店したばっかりだから、まだナンバーワン・ホステス云々の時期ではないのでしょうね。
しのぎを削る四天王!?
女の子も後々増えていって、更に「お店」として充実していくんでしょうね。ちくしょー、ナンバーワンなんて決められねぇぜ!○○○大回転だ!
そういや、ちょっとした色気の見せ方も、やはりええですな。
電車の中でスカートの中まで仰ぐこなたに、ラストで椅子に座っていてスカートの裾が上がっているかがみ。
アップ描写が多い中でのこのちょっとした色気の見せ方がとてもいい!
こういう見せ方も、ぐっとくるんだなぁと改めて思います。
ところで。みゆきの出番が少なかった分、面白かったのは、「本編」でも「らっきー☆ちゃんねる」でも、みゆきの「噂話」が出たことでした。
今回、サブタイトル通りいろいろな人たちの話題が上りましたが、すごく特徴的でしたね。
目の前にいる相手に対しては「言い方がすっげぇムカつく!」だの「よくこの学校に入れた」だの「怖いおねぇちゃん」だの言うわけですが、その場にいない人間のことを悪く言うことはないんですよね。
そこが特にはっきり表れていたのが、みゆきの噂話をするところで。
本編での彼女達はみゆきのことを「美人」とか「博識」とか「萌え要素がある」とか言って魅力的であることを口にするんですね。
だけど、「らっきー☆ちゃんねる」では、「実際どうなのよ!?」と悪いところをほじくろうというお方がいらっしゃる。
本編がタレントによって「演じられている夢世界」で、「らっきー☆ちゃんねる」が演じるタレントの「現実世界」という見せ方であると見た場合、「噂話」に表れる見せ方はとても象徴的に思えます。
そこには、視聴する側に対して「実際どうなのよ?あんた達だっていない人のことを悪く言ったりしてるんじゃないの?」という一刺しがあるようにも感じます。
夢を夢として魅力的に見せてくることで、現実のある種の意地汚さを際立たせる。
そこに、「夢から醒ます仕掛け」を感じ取ることもできますし、わざわざアニメーションという作られた「夢世界」を見ることの意味づけを感じることもできるかもしれません。
その意味では、「らっきー☆ちゃんねる」の第1回で、小神あきらに「あんたいくらもらってるんだよ?」と問いかけてきたのが「視聴者からのハガキ」という形であったところなんか非常に辛辣ですよね。
視聴者が、楽しませようとする側の仕事に対して素直に楽しむのではなく、どうでもいいところ、ズレたところを見ている、という前提がそこにはあるわけですから。
架空の存在とはいえ「視聴者」によってやさぐれキャラが浮き彫りになったあきらが、「実際仲悪いんじゃないの!?」とか「実際あの子はどうなのよ!?」などとぶつくさ垂れる。
それは、夢世界を夢世界として楽しむ上では、どうでもいいことだし、ズレている。
それよりは、いない人の悪口を言わない夢世界の彼女達の方がずっと魅力的に思えるし、「自分だってそうしたい」と思える。
そう思った時に、夢世界の夢らしさ、楽しさを改めて実感して、それを心に持って現実に帰れる。
夢世界を現実と勘違いしたり、夢世界を自分達を騙しているものだと疑ってかかったりするのではなく、夢世界のチアリーダー達が現実の自分達を応援してくれているんだ、と素直に受け取って楽しんでいくのであれば、その夢世界からちょいと折り詰めのお土産なんかを持ち帰れるのかもしれません。
僕は今回、「ああ。いない人の悪口を言わないというのは、本当にいいな」という折り詰めをいただきました。
勿論、こなたの「ちょいセクシー」な姿も、かがみの可愛らしさも、つかさの素直さもポニーテールも、みゆきの薀蓄もドジも、なかなかの折り詰めでございます。
「風俗店」として楽しませるという、エンターテイメントとしてのあり方を持つ作品だと僕には思えるこの作品。
今回もたっぷりと満喫させてもらいました。
折り詰めもいただいたしね。
本当に、視聴者を意識した作品なんだな、と改めて感じます。
これまでは、夢世界に引き込んでくれて応援してくれて、そして帰してくれる、そういう「お店」だな、と思っていたのですが、折り詰めまであったんですね。
あれですね。
通い詰めると、いろいろと得るものがあるという。いい「お店」だなぁ。
次回はどんな折り詰めをいただけるのか。今からとても楽しみです。
そしてまた、もらってばっかりではなく、自分も人に対して「心の折り詰め」を渡せるようになりたいよなぁなんてなことも思います。
そういう心持ちを少しでも手に入れられることが、「夢世界」に触れることの意義の一つだよな、と改めて感じます。
次回の「らき☆すた」の「営業」も楽しみでございます!
と。
いうところで感想は終わりなんですが。
最後にまたちょいと、長文を一つ。
この第3話を見る前にちょっと思って書いたものです。
「らき☆すた」が、意識的に漫画的に作られ、夢と現実とをその作品世界の中で明確に分けて描写していることは、「涼宮ハルヒの憂鬱」という作品が前提にあってのことなんではないか、ということを思ってみたんですね。
長いし駄文でございますし、第3話の感想ではありませんので、スルーしちゃって下さい。
そんなわけで、ここでひとまず区切りのご挨拶を。
ではでは、またです!
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そんなわけで、改めましてこんにちは。
この「らき☆すた」という作品が、「この作品は風俗なんですよ。一時の楽しみのためのものなんですよ」と視聴者に明確に訴えかけてくる理由として、アニメーション作品「涼宮ハルヒの憂鬱」の存在を抜きにして考えることは、やはりできないのかもしれません。
別々の作品を繋げて考えたり比較したりすることは、基本的に無意味なことだとは思いますが、でも、「京都アニメーション」「山本寛」「平野綾」とキーワードが並んで「ハルヒ」を連想するな、という方が無理なことなのかもしれません。
なので、普段は切り離す頭の中の回路を繋げてみて、「らき☆すた」と「ハルヒ」とを連続性を持って捉えてみることにしてみました。
作る側にとっても、「ハルヒ」という作品の存在を意識しないというのは、どうしたってできないことでしょうし。
そこで思ったのは、「らき☆すた」は「涼宮ハルヒの憂鬱」の反省と後悔からスタイルを決定づけられている部分があり、そして「ハルヒ第二期」の前提として位置しているのではないか、ということです。
「ハルヒ」は、「生きている人間」を生み出すことに本気で取り組んだ作品で、その結果瑞々しい青春ドラマを描き出すことに成功して、人気作品になりました。
作品としての方向性は、「実写ドラマ」をアニメでやる、というもので、その象徴的なものが第1話の「朝比奈ミクルの冒険」だったとも言えるかもしれませんね。
つまり、アニメでありながら「実写のように、実在の人物が、ドラマを演じている物語」という方法論で作られた。
その辺り、山本寛氏は「実写の匂いを含ませつつ、生きている実感のある少年少女を動かしたかった」と仰っておりますね。
リアルタイムで見ている時は「あぁ、今実写ドラマすげーつまんねぇもんな。なるほど、やるなぁ」なんて思っておりました。
しかし。
「生きている実感のある少年少女」を生み出すことに本気で取り組んだことによって、「生きている人間を作り出す」ことを「やってしまった」という側面があったのかもしれない。
つまり、見る側にとっては「演じている」のところが抜け落ちてしまい、「実写のように、実在の人物が、ドラマを演じている物語」というものが、「実在の人物の物語」になってしまうところがあったのかもしれない。
見てしまった者を作品世界に入り込ませすぎてしまい、現実逃避から抜け出すことを困難にしてしまう、そういう事象がいろいろ起こったのではないか、と思います。
そこは、作る側にとっても想像することが難しい部分だったのかもしれないと思います。だからこそ、「実在の人物が演じている」の「演じている」という部分を曖昧にしながら「やってしまった」ところがあったのかもしれません。
「超監督・涼宮ハルヒ」というクレジットもあったわけですしね。意識的に実在性を強調したところもあったんでしょうし。
でも、本気になって「生きている人間を作り出す」ということを、魅力的にすぎるアニメーションの世界でやるということは、もしかすると「やってはいけない」ことなのかもしれませんね。
人気が出た、いろいろ売れた。多くの人を楽しませた。
それは、いいことかもしれない。
でも結果として、見る人を現実の世界に帰す帰り道の無いものになってしまったのかもしれない。
人の心に、あまりにも大きな影響を与えてしまう。しかも、与えっぱなしになってしまう。
それは結局のところ「良い作品」や「影響力の強い作品」にはよくあることなわけですが、そういうものを作ってしまった側は、多くの人の心というものを一気に背負うプレッシャーに苦しむことになるのでしょうね。しかも、予期しない偏った形の背負い方になる。
だから、ということなのか、今までもアニメ史に残る傑作を作ってきた監督達がわざとファンを突き放す発言を繰り返すことがあったりもしました。
それは、何とかして「帰そう」とすることだったのかもしれませんね。
そういう、思っていた以上の影響を人に与えてしまうものを作ってしまい、しかもそれが「現実逃避から現実へと帰す機能」に欠けているという欠点を持ったものだったとしたら、「人気が出たから、第二期やってよ」と言われて「はいそうですね」と取り掛かることはできないのかもしれない。
自分達が作っているものは、「アニメーション」という映像娯楽作品であって、それはどんなに本気で作ったとしても「演じて人を楽しませる」、そういうものなんだ、という認識を改めて強く持つ必要があったのかもしれない、と思うんですね。
で、そのことを技術として明確に掴んで使いこなせるようにならなければならないし、見ている側にもはっきりと示さなければならない。
だからこそ、山本寛氏が監督する「らき☆すた」で平野綾さんを主演声優に据え、「いかにも漫画」的な作品を作り、作中でも「これは可愛い女子高生を演じて視聴者を楽しませようとしているものなんですよ」ということをわざわざアピールしているのかもしれません。
そのことをしっかりと視聴者に分かってもらって、一時の現実逃避からの帰り方を掴んでもらってからでないと、とても「ハルヒ第二期」なんて作れない。
なんてなことが、あるのかもしれないな、と思うんですね。
富野由悠季監督も劇場版「Zガンダム」を作るために「キングゲイナー」を作らせてくれ、となったことがあったりもしましたし。作り手にも、そしておそらくは受け手にも「順序」は必要なのかもしれませんね。
「夢を見せながら夢から醒ます」方法論を手に入れること。
同時に、平野綾さんが演じる女の子は虚構の人物だよ、ということを改めて印象付けること。
そういったことを「らき☆すた」によって成し遂げることによって、「ハルヒ第二期」にやっと手をつけることができるのかもしれません。
そして、そこで確立される方法論は、アニメーションというエンターテインメントにとって、とても重要なものになるかもしれない。
「らき☆すた」は、作る側にとっても見る側にとっても、とても価値のあるものになるかもしれませんね。
そして、現時点の「らき☆すた」では、感想を書いている視聴者などから「感想を書きにくい」と言われることが多いようです。
それはもしかすると、「ちゃんと夢から醒めている」ということの証なのかもしれません。
とはいえ、夢から醒ますだけでは意味がない。
約30分の間できちんと楽しい夢を見せ、そして醒ます。
だからこそのオープニングなのでしょうし、本編の可愛らしさなのでしょうし、だからこその「らっきー☆ちゃんねる」、そしてエンディングなのでしょう。
それは、とてもハードルの高いことだとは思いますが、上手くいっているように思います。
このシリーズがこのまま「夢を見せ、夢から醒ます」という、エンターテインメントとしての理想的な技術を練り上げ示してくれることが、作り手にとっても視聴者にとっても大きな意味を持ってくれることを期待しつつ、今後も楽しみに見ていきたいと思います。
というところで。
長々と失礼いたしました。
それでは、またです!
参照:「らき☆すた」第1話を見た。 「らき☆すた」第2話を見た。
:「映像言語」と「漫画言語」の具体的な違いの例。
: 「なぜアニメの感想を書くのか。どういったスタンスで書くのか。」
:「物語り人(ものがたりびと)」であること。…学習機会レポート2
:「物語作りの基礎。普遍的土台と誇張表現の調和により生まれる適度な感情移入…学習機会レポート」
TB先:らき☆すた 第3話 「いろいろな人たち」 (たこーすけの、ちょろっと感想)
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コメント
初めまして。東西南北と言います。
もう大分前から読ませて頂いてましたが、今回初コメントさせて頂きます。
OP前の「美水かがみ劇場」っていうのも、つまりはそういう事なのかもしれないですね。
これから「演劇」をやります、と。こなた達がこれから劇を演じます、と宣言していると。
らっきーちゃんねるでも、「楽屋戻ったらタバコふかしてるんじゃないの?」なんて言って、みゆきも楽屋を用意されている「演者」なんだと言ってました。完璧に「帰り道」は用意されてますね。
実写ドラマ風といえば、Kanonもそうでした。動と静と言うくらいハルヒとは空気の違う作品ですが、実写ドラマ風という点では共通してました。そしてKanonでは、原作時点でそういうテイストはあるそうですが、アニメにおいてもどこかどっぷり浸かり込む事を許してくれず、第3者的俯瞰視点を要求していました。それが不評の一因となってた様に思うんですが、つまりは今回だんちさんが仰られている様な意図があったのかも知れないですね。
と、思いついた事を書き並べただけとなってしまいましたがご容赦下さい。
それでは。
投稿: 東西南北 | 2007年4月25日 (水) 00:11
こんばんは。
答え合わせをしにくるつもりが、漠然とした感想だけしか思いつかず、このブログを見て「ああ、そういうことか」と気づいた部分が多々ありました。と、いうわけで、だんちさんと自分の意見が違ったところを重点的に書いていきます。
自分は、この第三話でキャラのリアルさが増したような気がしました。
二話までは、脚本通りに動いているキャラクタとしてしか見ていなかったのですが、三話で一気に現実味を帯びたというかなんというか……
雑談って、食べ物の話やゲームの話等になることもあるのですが、やはり噂話、というものをどうしてもしてしまうわけで。
……もちろん、その中には多少ネガティブな内容の会話もしてしまうわけです。で、なぜそういう話をするのかを考え直してみると、その人物に対する、共通の認識とそうでない部分に対する確認、だと思うんです。
らきすたの場合、こなた→みゆきでは、「萌え・可愛い・マニア向け」という捕らえ方をしているのに対し、つかさ→みゆきでは「美人・近寄りがたいかも?」という印象。また、かがみ→みゆきでは「優しい・面倒見がある」という感じ。
その意見を、雑談の中で交換し合って、「それもあるよね」と言い合う。この流れが、アニメ世界と現実世界の区別をむしろ曖昧にしたかな、と。
その結果、キャラクタがこちらに一歩近づいてくる。よりリアリティを増して見れる……その上、らっきーちゃんねる等の存在で、作品⇔現実の区別をはっきりとさせているので、やはり作りこまれた作品だな、とは思いました。
ですが、実は自分の場合、こなた達にはもう少し遠くのほうにいて欲しかった……なんてことも思っていたりします。
パロディ等がほとんど無い一話が、一番浮世離れしていて、こなたのポジションと作品のポジションが一番ぴったりと合っていたのかな、と。
……あー、ここまで書いて、一つ気づいたのですが、もしかするとこのアニメは「遠くから来た女の子達」を描いたアニメなのかも、ということです。
これは自分の推理ですが、中盤に向けてこなた達は、ハルヒ的な現実味を帯びた女の子達になっていって、終盤で少しづつ浮世離れしたキャラクタに戻ってゆくのかもしれません。もし本当にそうだとしたら、その意味は……多分、だんちさんがおっしゃっている理由そのままだと思います。
しかしまあ、あれだけの日常アニメを、ここまで考察させられる作品に仕上げた京アニ恐るべし、ですねー。もちろん、自分がここまでの考察を書く理由になった、だんちさんの考察も恐るべし、です。ではー。
P.S ハルヒ見てないなぁ……やはり見るべき、ですよね?
投稿: すまいらー | 2007年4月26日 (木) 01:56
>東西南北さん、こんばんは^^
初めまして!いつも見て下さって、今回も長い文章を読んでいただいて、コメントも下さって、本当にありがとうございます!
僕は視聴環境が無く、「kanon」は見れなかったのですが、仰られているようなスタンスで作られていたんですね。
「らき☆すた」は、更にその先にある、ということでいうとやはり段階というものを見ることはできるのかもしれませんね。
参考になります^^
きちんとお返事を書きたいのですが、今申し訳ないことに自分の都合でちょっと時間が取れません…^^;
ですので、今回はまずご挨拶をさせていただいて、後日改めてお返事を書かせていただきたいと思います。
せっかく書き込んでいただいたのに、お返事が遅れてしまいすいません…。
でも、これをご縁に、今後もまたいろいろ語り合ったりして共々に作品を楽しんでいきたいなぁと思っておりますので、よろしかったら、また是非遊びにいらして下さい!
それでは、今回はひとまずこの辺で失礼させていただきます。
またです!^^
>すまいらーさん、こんばんは^^
今回も長文を読んで下さって、コメントをありがとうございます!
良い作品を見ると、ついつい考察めいたことを考えてしまいますよね^^
すまいらーさんの感想を読ませていただいて、自分が感じたことと付き合わせると、いろいろと整理される点があります。
そういったことについて、きちんとお返事を書きたいのですが、今、ちょっと自分の都合で時間がありません…。
申し訳ないのですが、また改めて後日に書かせていただきたいと思っております。
お待たせして申し訳ありませんが、今後もこうやって作品について語り合っていきましょうね!
それでは、今回はこれにて失礼させていただきます。
またです!
投稿: だんち | 2007年4月27日 (金) 23:20
うわー!早く「Kanon」の録画ビデオをお貸ししなくては!
なかなか約束が果たせないでおりまして本当に申し訳ありません!
こんにちは、たこーすけです。
だんちさんは今頃「COMIC1」でしょうか。そろそろ終わっているのかな。
終了後はどうか、たっぷりとお休み下さい。
くれぐれもご無理をなさらず、お体にお気をつけて。とくに腰痛とかに。
第3話。やっぱりTBが通らないでした…
毎度申し訳ありません。
らき☆すた 第3話 「いろいろな人たち」 (たこーすけの、ちょろっと感想)
http://blog.goo.ne.jp/takosukena/e/7e7bf8b79f7f7ee9e626d49fe4e0581c
になります。よろしくお願いいたします。
だんちさんの、
『「らき☆すた」は「ハルヒ第二期」の前提として位置しているのではないか』
および、
>「夢を見せながら夢から醒ます」方法論を手に入れること。
>同時に、平野綾さんが演じる女の子は虚構の人物だよ、ということを改めて印象付けること。
の、ある種補強となるようなものを書きました。よろしければご覧下さい。
ただいま「らき☆すた」は、大激震が襲っていますが、どうなることでしょうか…
それでは。
投稿: たこーすけ | 2007年4月30日 (月) 17:04
>東西南北さん、改めましてこんばんは^^
コメント、ありがとうございました!
仰られる通りで、「舞台」「演劇」という雰囲気ありますよね。
幕が開いてすぐダンス。で本編が始まって、「らっきー☆ちゃんねる」のような劇中劇のようなものが入って、ラストは幕が降りて演者を見せない形で舞台の終わりを告げる。
風俗と演劇、というものも共通点ありますもんね。
よく、演劇界では「舞台に上がるっていうのは、股開いて客に見せるっていうことなんだ」なんていう格言が言われたりしていますが、そういった観点で「らき☆すた」を見ることもできるかもしれませんね。
幕が開いたら、股の中だって見せるけど、幕が降りたらちゃんと閉じますよ。っていう。
≫みゆきも楽屋を用意されている「演者」なんだと言ってました。完璧に「帰り道」は用意されてますね。
本当にそうですよね。彼女達に「楽屋」があるっていうことを、わざわざこちらにアピールしてくるところに、見せ方としての明確な姿勢を感じますよね。
「kanon」を僕は見れなかったわけですが、その雰囲気や作風を教えて下さってありがとうございます。非常に腑に落ちる感じがします。
僕の勝手な印象なんですが、視聴者に向いている制作者ほど、仰られているような「どっぷり浸かり込む」ことを許さない姿勢を感じます。
そのこと自体に、既に作品としてのメッセージがあるのでしょうね。
≫それが不評の一因となってた様に思うんですが、つまりは今回だんちさんが仰られている様な意図があったのかも知れないですね。
不評だったんですか^^;
でも、東西南北さんが感じられる意図が何かしらあったのであれば、きっとそういう評価も含めて、視聴者に何かを訴えかけて、何かを残せた作品になったことでしょうね。
僕もいつか「kanon」を見ることがあると思いますが、そこでどんな意図を感じるのか、どんなメッセージを受け取るのか、改めてとても楽しみになりました^^
「ハルヒ」「kanon」と経ての「らき☆すた」。
この作品によって、視聴者にとっての理想的な夢の見せ方を、制作者と視聴者とで一緒になって獲得していけるといいですよね!
≫と、思いついた事を書き並べただけとなってしまいましたがご容赦下さい。
いえいえ!書き込んでいただけてとても嬉しいです^^
思いついたものがあって、こうやって言葉にして書き込んでいただけると、作品を楽しんでいく横の繋がりが生まれて、一緒になってより作品を楽しんでいけると思います。
ですので、とてもありがたいです^^
よろしかったら、これからも気軽に書き込んで下さいね!
それでは、またです!
投稿: だんち | 2007年5月 3日 (木) 01:02
>すまいらーさん、改めましてこんばんは^^
コメントありがとうございました!
長い記事を読んでいただいて、その上で気がつかれた点があるとのこと、嬉しいです^^
リアルさが増している、というのは確かに仰られている通りだと思います。
一話、二話でキャラクターを紹介するどころか、描かれている文脈の中にそのまま放り込んで、説明なく本編を進めてくるスタイルなので、キャラクターが馴染むこともなく、あれよあれよと見せられていくんですよね(まったり日常ものなのに)。
そういった描き方は、いわゆる「導線」の無い始め方で、富野由悠季監督なんかがスタイルとして持っていたりもしますよね。
それは、ある意味で非常に演劇的であるとも言えるかもしれません。
幕が上がるといきなり登場人物が物語を進めていって、「えー?」っと思っていると、それから解き解しが始まる。野田秀樹の舞台なんかもそんな感じかもしれません。
その意味では、この第3話から「らき☆すた」の解き解しが始まったと見ることもできるのかもしれませんね。
≫その意見を、雑談の中で交換し合って、「それもあるよね」と言い合う。この流れが、アニメ世界と現実世界の区別をむしろ曖昧にしたかな、と。
あの雑談シーンはそういうリアリティを持っていましたよね。仰られる通りで、一人一人「みゆき」という人物に対する印象が違う。それはつまり彼女達それぞれが視点を持った一人一人の少女達である、という表現にもなりますもんね。
で。
≫その上、らっきーちゃんねる等の存在で、作品⇔現実の区別をはっきりとさせているので、やはり作りこまれた作品だな、とは思いました。
ということになるんですよね。
あきらがみゆきを悪く言おうとすることで「そうか。女の子達の噂話でいない人のことを悪く言わない、というのは実はリアルじゃないんだな」と感じられました。
そこがつまり、やはり「夢」なんだなって。
≫ですが、実は自分の場合、こなた達にはもう少し遠くのほうにいて欲しかった……なんてことも思っていたりします。
そこは、個人個人の感じ方の部分ですから、難しいところですよね。
この作品はオープニングの後半に見られるように、かなりこちらに対して接近することをスタンスにしているように思えます。
近付いて、それこそセーラー服を脱いで、下着姿のまんま寄り添ってくるくらいの姿勢があって。その上で、ちゃんと離れていく。
そこがまさに、
≫もしかするとこのアニメは「遠くから来た女の子達」を描いたアニメなのかも、
というところかもしれませんね。
≫これは自分の推理ですが、中盤に向けてこなた達は、ハルヒ的な現実味を帯びた女の子達になっていって、終盤で少しづつ浮世離れしたキャラクタに戻ってゆくのかもしれません。
というのは、本当にありそうですよね。いや、それはマジでそんな気がします!!
なんか、そうやって思うと、こういうアニメなのに、最終回では泣いてしまいそうかも…^^;
≫しかしまあ、あれだけの日常アニメを、ここまで考察させられる作品に仕上げた京アニ恐るべし、ですねー。
けっこう、業界長い会社ですからね。いろいろと思うところがありつつ作っているように感じますよね。
勿論、どこの会社のどの作品も非常に考えられて一生懸命作られていると思います。
「一枚一枚の絵」を動かして作るアニメーションは、考えることなしに作ることはできませんもんね。
こうやってアニメーションを見て、そこに考えられていることは何なのか、を感じ取っていくことは、とても楽しいことだと感じます。
≫もちろん、自分がここまでの考察を書く理由になった、だんちさんの考察も恐るべし、です。
わーい。誉められたー^^
僕もすまいらーさんの書き込みを読ませていただいてとても刺激をいただいております。
是非これからもあれこれ語り合っていきましょうね!
「ハルヒ」は、見ていただけると、少なくともこのブログのコンテンツの大半を楽しんでいただけるかもしれません^^
まぁ、それはともかく。機会がありましたら、是非一度ご覧下さい。
「ハルヒ」があって、「らき☆すた」がある、という流れも、感じられるかもしれませんし。そもそも作品として丁寧に作りこまれていてとても良い作品ですので。
ご覧になったら、是非感想を聞かせて下さいね^^
ではでは、またです!
投稿: だんち | 2007年5月 3日 (木) 01:45
>たこーすけさん、こんばんは^^
TBが通らないと、強制的にコメント書き込みになるので、その意味では僕はちょっと嬉しいかも^^
なんつって。
いや、なんでTB通らないのか分かりませんが、毎度お手数をおかけしてすいません。
でも、これに懲りずに今後ともよろしくお願いいたしますね^^
「Kanon」のビデオ、早く借りに行かなければ!!
そして「蟲師」を見せなければー。
こちらこそ、なかなか会いに行けなくってすいません。
お互いの都合を相談してどっかしらでお会いしましょうね^^
「COMIC1」は無事参加してまいりました!終了後は、お言葉に甘えてたっぷりとっぷり休みましたよー^^
腰痛のことなどお気遣いをありがとうございます。
自分でも気をつけて、背中を丸めないように、常に腹に力を入れて過ごしていたら、もうちょー腹筋が筋肉痛ですよ^^;
いかんいかん。また鍛えなければ…。
≫ある種補強となるようなものを書きました。よろしければご覧下さい。
おぉ!!ありがとうございます!!
読ませていただきました!!
記事中でも取り上げていただいて、嬉しいです^^
相変わらずの長文を最後まで読んでいただけて、共感を持っていただけたのでしたら、本当にありがたいです。
仰られている「パロディ化することは、元作品を客観視することであり、さらに言えば、突き放して相対化することでもあるのだとすれば」ということは、視聴者にとってもやはりそう伝わってくるところがありますよね。そこも含めて「帰り道」になっているというところがあるのかもしれませんね。
それは、公式ホームページの「消失」を思い出させるものにも感じられます。
「エンターキーを」押せ、と長門が言ってくる。
あの行為は、現実に帰る疑似体験だと僕は思っているわけですが、作品を相対化して見せてくるところで、現実への帰還をさらに推し進めてくるところがあるのかもしれませんね。
と、なると。
やはり、次に「ハルヒ」が何らかの形で映像化されるのであれば、「消失」以外に無いようにも感じられます。
視聴者の目の前で、キョンにエンターキーを押させる。
それは、いつかどこかでやらなければならないのかもしれませんね。
補強して下さってありがとうございました^^
おかげで、ますます「ハルヒ」の次の映像化が近い気がしてきますよ!!
≫アニメや漫画やゲームも「教養」
というのは、本当にそうですよね。
音楽でもそうですよね。何を聴いてきたか、で話が合ったり音が合ったり。
アニメや漫画、ゲームにおける「教養」を制作者と視聴者とで共有し合う。
それは、こちらに積極的に語りかけて近付いてくることに感じられます。
で、そういう「元ネタ」が多岐に渡っていて、アニメや漫画、ゲームだけに限られないことで、どれもこれも分からない、ということは無いんですよね。
そこに、非常に丁寧かつ大胆に話題を選んでいる、まさに「教養」を感じますよね。
…ということは、そちらにコメントするべきでしたね^^;
申し訳ない!またそちらにも遊びに行きますね!!
≫ただいま「らき☆すた」は、大激震が襲っていますが、どうなることでしょうか…
やー。ちょっとびっくりしましたね。
「山本らき☆すた」だからこその「次期ハルヒ映像化」の前提、と思っていたわけですが。「武本らき☆すた」になるってことは、「フルメタ」の次の映像化が近いってことになったりして。
たこーすけさんも、予習のためにも「ふもっふ」と「TSR」を見るのだ!
まぁでも、実際「演出」と「監督」っていうのは違いますからね。
監督としての域に達していなくても、演出家としての腕は確かなわけですし。山本寛氏には、是非今後も演出家として手腕を発揮して欲しいなぁと思っておりますが。その辺、どうなんでしょうね?完全に絡まなくなるのか。一演出家として残るのか。
何はともあれ、視聴者のテンションを下げてしまったことは確かでしょうから。この逆境をどう克服していくのか。視聴していくポイントが増えましたよね。
僕は、「ちょっとスランプぎみに感じられる武本康弘監督の復活ロード」になるかどうか、という点を個人的に楽しみにしております。
まぁあれですよ。こなたが言ってたみたいに「一粒で二度美味しい」ってことで。
これからも共々に楽しんでいきましょうね!
ではでは、またです^^
投稿: だんち | 2007年5月 3日 (木) 02:44