「映像言語」と「漫画言語」の具体的な違いの例。
こんにちは、だんちです。
「らき☆すた」第1話の感想で「映像言語」ではなく「漫画言語」で表現しようとしているのではないか、ということを書いたわけですが。
その「映像」と「漫画」の違いについて、アニメーション演出家の立場から佐山聖子さんがご自身のブログで書かれていたことがありましたので、ちょっとご紹介させていただきます。
「何かもやもやとしたまま・・・」という昨年夏の記事で、漫画原作のアニメーションを作る時に、映像の持つ制約のため、漫画のイメージを再現できないジレンマについて書かれています。
僕は映像に関しては見るばかりで、勉強をしたことは無いため、「イマジナリーライン」の制約のことはこの記事を読ませていただいて初めて知りました。とても面白いし、なるほど、と思えます。映像らしい制約なんでしょうね。
舞台などと違って、視聴者、観客の視線が一定ではなく、カメラの視点によって千差万別に変化していくため、「視点」の制約を設けないと、本文中にあるように「視聴者が混乱する」ということになってしまうのでしょう。
「誰がどこで何をしているのか」を視覚的に分からせるための制約、又は基本、ということで、好き勝手に作りたい画面を作ればいいわけじゃない、ということがよく分かります。
そして、佐山さんは、その映像の制約に則って画面を作っていくと、漫画のイメージを再現できないことがある、ということを仰っています。
ここが、「映像言語」と「漫画言語」の違いの一つの例ということになってくるのだと思います。
佐山さんは、漫画はイマジナリーラインの制約が緩やかで「本来同じ画面におさまるはずのない被写体を同じコマに自由に配置する場合もある」ということを指摘されています。
それは、まさにその通りで、佐山さんが仰られているように見開きで10コマ近くを見せていく時、漫画ではコマの大きさや配置で演出していくことがあるので、コマのサイズがそもそも一定でなかったりします。
その上、「情報としてのキャラクター」を一つのコマに入れていったりするため、映像でいうところのイマジナリーラインは無視していかないと、一本の話にとんでもないコマ数が必要になっていってしまいます。
更に、実は漫画を描く上でとても制約になるのはキャラクターの置き方以上に、「台詞の置き方、分量」というものなんですね。
映像では、キャラクターが交互にしゃべる場面があった時、キャラクターの位置を変えずに、しゃべる順番を交互にしていけばいいのだと思いますが、漫画の台詞はそうはいきません。
「右から左へ」「上から下へ」または「右上から左下へ」と読ませる必要があるため、台詞の配置は絶対に自由にはならないんですね。
コマの中の画面を作っていく時に、キャラクターの位置関係が画面として「正確」であったとして、しかしそこに台詞を置いてみたら、キャラクターの顔が台詞で隠れてしまう、なんてなことがあるわけです。
その場合、動かす素材は、台詞ではなく、キャラクターの方、ということになっていきます。
漫画は、絵で描写するものですが、台詞(いわゆる「ネーム」)というものをテンポよく、ストレスなく「読んでもらう」媒体であるからです。
その意味では、漫画には「台詞配置のイマジナリーラインが存在している」ということが言えるのかもしれませんね。
コマの中にもあるし、「見開き」ということでいうと、左ページと右ページとでは視覚印象が違う、という紙媒体の基本から出てくるところにもありますし。
つまり、「漫画言語」というものにとって大きな要素となるものは「台詞」ということになるのだと思います。
で、「漫画言語」で語っているように思える「らき☆すた」ですが。
この「台詞」の使い方、表現の仕方が特徴的なのだと感じるんですね。
漫画で台詞を読む時に、スピードを早くしたり遅くしたり、ということは基本的に無いことだと思います。「早口」とか「ゆっくりしゃべる」というような、音声としてのスピードの概念は漫画には無いんですね。
同時に、一コマの中で表示できるテキスト量にも限界があるため、漫画の台詞の分量は一定以上を超えることはありません。
「らき☆すた」では、台詞の速度がかなり一定であるように感じます。そして、台詞の分量もシーンの中で一定を超えることが無いようにも感じます。
その上で、固定画面を多用する。
そういった描写の仕方から、「漫画のコマのキャラクターが動いてしゃべっている」という印象になっていくのだろうな、と思います。
その印象から、視聴者にどのような楽しみを提供していこうとしているのか、のところを感じ取ることもできるのかもしれませんね。
「映像」という独特の制約がある媒体で、「漫画」という別の制約がある媒体のイメージを再現しようとすること。
それは、こちらが思っている以上に大変な作業であるのでしょうね。
その上で、何をどう描写して、視聴者をどのように楽しませようとするのか。
そのことで、映像制作者としてどのようなスキルを得るのか。
アニメーションという映像媒体が、漫画のスキルも取り込みつつ更なる発展をしていくことを一視聴者として念願しつつ、これからも様々な作品を楽しんでいきたいものです。
今日、起きてからなんとなく思い立って、どどっと書いてみましたが、まとまらない話になっちまいましたね。
何はともあれ、「映像言語」と「漫画言語」の違いについて、これからも考えていきたいなぁと思っております。
佐山聖子さんは、「ロミオ×ジュリエット」の演出されるのかな。佐山さんが作られる映像も、楽しみです!
ではでは、またです!
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コメント
どうも、てりぃでございます。ご挨拶が遅れましたが、このたびらき☆すたレビューでご一緒できますことを、心待ちにしておりました(笑)。今回もどうぞよろしくお願い致しますね。
さて、この記事に大いに感銘を受けまして、かなり暴走気味の記事を一本起こし、TBをお送りさせて頂きました。お目汚しですが、どうかご容赦下さい。
残念ながら時間があまりないので、今日は簡単なコメのみで失礼致します。でも、そのうちイヤというほどやりあいましょう(笑)。ではまた。
投稿: てりぃ | 2007年4月14日 (土) 20:25
てりぃさん、こんにちは^^
コメントとTBをありがとうございました!
こちらこそご挨拶しておりませんでしたが、「らき☆すた」ではまたもや感想を語り合えること、とても楽しみにしておりました^^
こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします!
感銘を受けた、と仰っていただけて、恐悦至極でございます^^
元々は、佐山聖子さんの記事をご紹介したいなぁということだったのですが、それだけだとなぁと思って蛇足に蛇足を重ねてしまいまして。でも、読んでいただけて、更にてりぃさんのところでご紹介もいただきまして、とても嬉しいです!^^
指揮者経験から、作品を「理解・分解・再構築」していく作業の意義深さ、そこにある情熱や姿勢について書かれた記事、楽しく読ませていただきました。
なるほどなぁ、と頷きつつ、非常に勉強になることを読ませていただいて感謝しております。
お忙しいようですので、勝手ながらここで思ったことを書いてしまいますが。
作品を見て、そこから感じたことを論評する、ということは難しいものですよね。
キーボードを叩いて作品の評論をする、ということ自体、歴史も浅いですし、そもそもアニメーションを「映像作品」として論評する、なんていうことも、割と最近のことなんだろうな、とも思います。
そういったことは、映画であったり書籍であったり、またはスポーツであったりでも五十歩百歩かな、と思ったりもします。
僕の好きなサッカーの論評でも、プロの文章家やジャーナリストのものであっても「なんだこりゃ」というものによく出会います。
そんな中で、「この人の論評はすごい!」というものに出会って、かなり影響を受けたりして、僕のアニメ感想にはその方の影響がかなり濃厚に出ているように自覚もしています。
それはつまり、「そうか。こういう視点の持ち方があるんだ」「こういう書き方があるんだ」ということを教えられる、ということで。
そうやって教わって、真似て、実践して、の繰り返しが積み重なって歴史になっていくんだろうな、と思います。
だから、てりぃさんのレビューを見て多くの方が「そうか、こういう風に書けばいいんだ」と学んでいくこともまた、積み重なっていくことだと思います。
ロシアでは、表現が自由化した途端、安易な批判ばかりが横行する風潮があったりもしたそうです。
アニメーションを映像作品として論評する、という歴史もまた、まだまだ始まったばかりなのだと思いますし、その意味では、実は僕らが今後積み重なっていくであろう歴史の礎の欠片となっているのかもしれませんね。
その積み重ねはつまり、一人から一人へと伝わっていくことの積み重ねなのだと思いますから、だからこそ、こうやっててりぃさんと作品への思いを共有し合ったり共感し合ったりできることは、とても有意義なのだと思えます。
Akihiro Inda.さんも共感して下さって記事を書いて下さって^^
お蔭様で、この有意義な行為が僕には楽しくて仕方ありません。
この楽しさを、てりぃさんやAkihiro Inda.さん達と、そしてまた友人達と今後も積み重ねていけること、そしておそらくはその輪が広がっていくであろうことが、本当に嬉しく思います。
と、ちょっと大袈裟な話になってしまいましたが。
そんなわけで、これからもお互い感想を書き合って、「イヤというほどやりあい」ましょうね^^
ではでは、またです!
投稿: だんち | 2007年4月16日 (月) 04:34