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2007年5月 4日 (金)

「らき☆すた」第4話を見た。

 こんにちは、だんちです。TVKにて「らき☆すた」第4話を見ましたので感想を書きたいと思います。
 (またもや長文になってしまいました…お暇な時にでも読んでいただけると嬉しいです)

・「股を開く」生身感

 僕はこの第4話、非常に入り込んで楽しく視聴しました。

 「美水かがみ劇場」という、「舞台」であることを明確にして始まるこの作品。
 ある種、小劇場のような雰囲気もありますよね。突然ハイテンションのダンスから始まるところとか。無作為なエピソードの並べ方とか。
 僕はこの作品を「風俗」であると感じているわけですが、演劇もやはりそういうものであるように感じられます。
 演劇界でよく言われる「女優というのは、舞台の上で股を開く仕事なんだ」ということなんて、まさにそういうことに繋がっていくように思えます。

 その意味では…。

 女子高生の出演者。
 そして、若い声優さん達。

 …いかん。
 変な方向に行きそうだ。

 でも、変な方向で見ていくことが正しいんだろうな、とも感じます。
 可愛い女の子達の他愛のない会話や、日常の風景を、「作り物」というフィルターを通して見せてもらえる。
 その辺り、こなたのTシャツから覗くおへそを作為的に見せられながらも、「あ、見えちゃってるよ」とちょっとドキドキしちゃうところに、象徴されるのかもしれませんね。
 そういう意味では、彼女達はしっかり舞台の上で「股を開いて」くれていると思うし、それは声を当てている声優さんも一緒だと思います。

 それは、単にエロいところを見せるっていうことではなく、「生身感」を感じさせる、ということにおいて、ということです。
 「舞台の上で股を開く」ということは、つまりは舞台の上の人物が、本当に生きている人物であるように心の中も全てさらけ出すようにして見せる、ということだと思うんですね。

 物語は作り物で、演者は絵。

 だけど、そこに夢を見るならば、その夢を見ている時間は、その見ている光景は現実のように生身感を持って迫ってこなければ「演劇」という「風俗」にはなりえない。

 それを成しえるための技術として、実は「漫画言語」というものが有効なのだと僕は思っています。
 「映像言語」を受け取って、そこに生身感を感じるために「読解」することよりも、「漫画言語」を読解することの方が、深夜にテレビをつけてアニメーションを見る者にとっては馴染みがあり、すぐに入り込めるものだと思います。
 そして、それは「アニメファン」というものに限らず、たまたま夜テレビをつける人にとってもそうであるように思っています。「お。なんか、漫画やってるぞ」と思える。そういう入り方ができると思うんですね。
 つまり、「漫画言語」も「股の開き方」の一つ、ということになると感じています。

・どこに夢を見たか

 そして、僕はこの第4話を、非常に入り込んで見てしまいました。

 基本的にネタ満載で、そういったネタを取っ掛かりにして会話を楽しむように、可愛い女の子達を近くに感じさせてくれる作品だと思うわけですが、前回くらいから、「こなたとかがみ」という二人の関係性をしっかり見せてきているように感じます。
 特に今回は、二人の近さ、仲の良さが相当に感じられて、そこに生身感を伴うドラマを見ることができたように思います。

 それは、こなたが母親を亡くしていることや、かがみの言うことを聞いて自宅で勉強しようとしていたところや、かがみが親しげにこなたに電話を掛けてきていたりするところで感じられました。

 そうなってくると、これまでのことが一気に繋がって見えてくるところがあって。
 こなたは、ものすごくかがみに甘えているんですよね。誕生会の日に暑くて動けない、と電話するところなんて、無茶苦茶甘えていましたよね。こなたの背後に仏壇らしきものが見えたのも象徴的だったし。
 母親的な優しさに触れることの無かった(あるいは少なかった?その辺り、原作未読なので分かりませんが)こなたにとって、いろいろと気に掛けて注意してくれたりするかがみは、ものすごく甘えられる存在なのでしょうね。

 逆に、かがみは、どうも自分がつかさのような可愛らしさを持っていないことにコンプレックスを持っている様子。だけど、ダイエットのことを気にしたり、非常に女の子らしさを持っている。
 そんな彼女が、こなたのような、男手で育てられ、女の子というよりはどことなく男子っぽさを感じさせる子と仲良くなるのも、分かる気がします。こなたといる時は、コンプレックスを感じないで、自然と女の子らしくいられるのかもしれませんね。
 それで、ついついいろいろ気にして注意してみたり、自分の方から親しく電話を掛けてみたり。
 ある意味、こなたのことが「擬似ボーイフレンド」になっているような。そんな感じがあるようにも見えたりします。

 こなたがかがみに甘えるように、かがみも「体重が増えたー!」となってこなた相手に甘えてみたり。
 で、「これだから女ってやつぁ」なんて言われてみたり。
 こなたが、かがみを女の子らしい子として見ている、というところが感じられますよね。

 やっぱりこいつら、付き合ってんのかよ!?

 と、思わずにはいられない程の距離感。
 二人の関係性の生身感というものに引き込まれて見てしまい、見ている間、僕は確実に時間の感覚を無くしていました。

 で、アイキャッチが入って、突然のように「らっきー☆ちゃんねる」が始まって。
 その瞬間、びくっ!とするくらい、驚いてしまいました。
 うわっ、あ。そうか、もうそんな時間か。っていう感じで。 

 前回の感想で、自分で「夢を見せながら夢から帰す方法論」とか書きながら、まさに自分がその手法にしてやられた感じです。「そうか!これか!」みたいに、改めて体験することになりましたよ。

・「導線」が無い効果

 それにしても、改めてなるほど、と思います。
 漫画言語を使いながら、非常に演劇的なんですね。

 コメントのお返事なんかでも書いたことなんですが、この作品は登場人物の説明を一切せずにいきなり始まったことで、いわゆる「導線」の無い作品だと言えます。
 「いつ」「どこに」「誰がいて」「どうするのか」
 という、説明を全くしないで物語をいきなり初めてくる。
 それは、演劇なんかではよくある手法だと感じます。

 幕が開いて、いきなり登場人物全員でダンスをして、パッと人がはけたかと思うと、いきなり物語が始まっている。
 「え?何が起こっているの?誰がどういうことになっているの?」ということを観客が把握する間も無く不条理に無作為にギャグを連発していきながら物語がどんどん進んでいく。
 そしてある時点から、解きほぐしが始まり、登場人物の関係性などが見えてきて、それまでのことが一気に腑に落ちる。
 そこからは、さらにエピソードを積み重ねていき物語は厚みを持って進んでいく。

 という手法を、よく小劇場の舞台なんかで何度も見たことがあります。

 「らき☆すた」は、やたらとテンションの高い小劇場とは雰囲気や作風はだいぶ離れますが、「導線が無い」というところや「舞台構成」は似ているように感じられます。
 こういった「導線が無い」手法は、アニメ界では富野由悠季監督がよく使うように思います。
 特に、演劇的にダンスから始まり、導線無く物語を進めていった作品として、今僕の頭の中で思い浮かぶのは「キングゲイナー」ですね。

 「導線が無い」形で物語を始める効果として僕が思うのは、説明から入るよりもリアリティを感じさせることができる、というものです。

 最初から、その作品世界が「在るもの」として提示され、理解は後回しになる。
 そうなると、目の前にいる登場人物がどういう人物なのか、今、どこで何をしているのか、見て感じ取らなければならない。
 目の前の「舞台」を、あるがままに見ているうちに、エピソードが進んでいき、感じ取れる部分が増えていく。
 そこで、「解きほぐし」が入ってくることで、「あぁ!!そうだったのか!!」と登場人物のそれまでの言動に意味があり、背景があったことが「感じ取れる」ように体験的に、感情まで伴って「理解」できる。
 それまでの台詞の意味合いなんかも、突然厚みを持って迫ってきたりするわけですね。

 そうなってくると、いきなり目の前の登場人物が、生身感やリアリティを持ってこちらの心に入って来るわけです。

 そして。
 それを成しえるために必要な要素の一つが、「舞台の上で股を開く」かのような、生身感を伴った演技、ということになるのだと思います。

 今回、そのことを感じたのが、こなたが母親を亡くしている。ということでした。
 実際、ここまで見てくるなかで、こなたはお父さんの話はしても、お母さんの話はしていなくって、しかも、見ていてなんとなく「父子家庭なのかな?」と感じさせられるものがあったんですよね。
 それを感じたのは、第1話でお父さんが半熟の目玉焼きをチューチュー吸うのが好き、というところの演技。
 あそこのシーンを見た時点では、こなたがどんな子であるのかなんてさっぱり分からないわけですが、でも、あのエピソードとあの演技の感じで、「ん?お母さんはいないのかな?」と伝わってくる何かがありました。
 そして、何度かお父さんのことを話題にする度に、何か、「あれ?」と思わされる。「もしかして?」と、思える演技になっていたように思います。

 だからこそ、今回「お母さんは小さい頃に死んじゃった」というのを聞かされて、「あぁ、やっぱりそうだったんだ」と感じられて、かがみにあそこまで甘えている様子と合わせて、一気に「こなた」という女の子のリアリティがこちらの心に迫って入ってきたんですね。

 どうも、仏壇らしきところにあった写真は遺影なのか。そこに写っているらしき女性はコスプレしていたようにも見えましたが。
 こなたがオタクであることにも、そういった「欠けてしまった重大な存在」ということが関係しているように思えてきます。ただ単にオタクネタを飛ばしているだけの子じゃなくって、彼女には、それを好きになっていくだけの理由があるんだな。って。

 いや、これはすごい演技だと改めて感じます。
 最初から、本当にしっかりと「股を開いて」見せてくれていたんだな、って。
 「導線」が無いからこそ、そこは演者にとって(こなた、平野綾さん共に)勝負するポイントだったのでしょうね。

・コミュニケーションドラマ

 その生身感を感じると、自分のことにも思いを馳せる部分があって。
 自分が漫画やアニメを好きなのは、何も消去法で「よし、これを好きになってみよう」と選んだりしたわけではなく、「それしかない」ものが、あったんですよね。
 それを好きになる理由、それを好きでいる必然。
 そういったものがあるからこそ、好きなものを否定されるのは、とても辛い。
 見ている人にとっては、オタクであろうとなかろうと、そのこと自体は一緒なんだと感じます。

 そして、こなたにはかがみのような友達がいて、受け入れてくれている。
 逆に、こなたもかがみの言葉をちゃんと聞いている。

 これは、僕にはとてもドラマチックに感じられます。
 そして、リアリティも感じます。
 ものすごく、感情移入させられます。

 そこで、ぶつっと物語世界が途切れる。
 「らっきー☆ちゃんねる」が始まることで、現実世界に強制送還されるわけですね。
 しかも、あきらさん。「見えそう」な脚の組み方をしてくれたりして、ある意味この方も「股を開いて」くれているわけですね。視聴者を夢世界から帰す…帰すどころか「叩き出す」くらいの感じで。汚れ役ですね。

 こちらでは、あきらと白石が分かり合うことなく、視聴者のハガキにもケチをつけて。コミュニケーションを拒絶しつつ、「フツオタも待ってまーす」と仰られる。
 本編が会話劇によるコミュニケーションドラマであるところで、「らっきー☆ちゃんねる」でコミュニケーションの断絶を演出して、真逆感を際立たせていますね。
 そうなってくると、本編のこなたとかがみのような、拒絶しないで受け入れ合う関係はとても麗しく、夢から醒めてみれば、それはやっぱり夢の世界のことではあるけれども、とても教えられるものがあるように感じます。

 前回、「夢から醒める時に折り詰めを持って帰れる」と書いたわけですが、僕にとっての今回の折り詰めはこれですね。

 人のことを拒絶しない。
 趣味や感覚が違っていても、受け入れていく。

 それはやっぱり、いいものだし、大切ですよね。

 そういう、「コミュニケーションドラマ」という観点で見てみると。エンディングのカラオケなんて、四人が分かり合おう、受け入れ合おうとしているものにも感じられます。最後は全員で知っている歌を歌ったりするのかな。
 意外と…なかなかの青春群像を見せてくれたりするのかもしれませんね。

 思えば、この作品を見て「風俗だ」と感じたのは、彼女達が傍にいてくれて、お話をしてくれるような作品だと思ったからでした。
 最初から、「コミュニケーション」というテーマがあったわけですね。
 登場人物達同士もコミュニケーションを取るし、視聴者ともコミュニケーションを取る。

 「演劇」という観点に立ち返ると、演劇は生で演じるから、舞台と客席とがコミュニケーションを取るように一緒になっていって成り立っていくわけですね。
 この作品においても、一方的でなく客席を意識した舞台のようにコミュニケートしてくることによって、初めてお客さんに対して「どうぞ、気をつけてお帰り下さい」と言えるのでしょう。
 客としての視聴者も、「幕が上がって、舞台とコミュニケートして、幕が降りたら客席を立つ」という見方を心得ていくことができるようになっていくでしょうね。

 そして、舞台と客席とが、拒絶しないで、受け入れ合っていく。
 それによって成り立っていく関係は、やはりとても麗しいものかもしれませんね。
 こなたやかがみの関係のように。

・ショー・マスト・ゴー・オン

 リアルタイムの舞台ではないアニメーションで、それを成り立たせるためには、漫画言語という股の開き方(初速のものすごく速い分かりやすさ、伝わりやすさですね)、細かいキャラクターの演技、そして声優さんの演技が必要なのでしょうね。
 演じる側にそれだけ「股を開かせる」ためにも、「導線」を欠落させる必然があったようにも感じます。
 ハードルを思い切り上げたわけですね。

 キャラクターも、声優さん達も、非常にいい演技をしていますよね。
 こうやって何話も通して見てくると、ちゃんと演技に連続性を感じるし。
 いや、この作品で「演技」というところに着目することになるとは思ってもいませんでした。ちくしょー甘く見てたなぁ。次回以降はもっと注目してみなければ。

 さてさて。
 そんな感じで、意外な程連続性を持って作られ、ドラマ性や生身感までをも感じさせてくれるようになってきたこの作品ですが。
 様々な形での「コミュニケーション」というドラマを用意して作品の方向性を作り上げたであろう山本寛監督が降板してしまいましたね。
 次からは急遽武本康弘監督がこの作品を受け継いで表現していくことになるわけですが。
 シリーズの幕は上がってしまっていますからね。
 まさに、「ショー・マスト・ゴー・オン」。
 何が起ころうとも、一度幕を上げた舞台は、必ず最後までやらなければならない。
 舞台裏で何があってどんな事態になっていようとも、客席のこちらには、舞台を見せていかなければいけません。
 エンターテインメントをやる彼らの、真骨頂はここから、というところでしょうね。

 僕が見たいのは、舞台裏なんかではなく、目の前の舞台。

 作品を作って「舞台」を見せてくれている彼らを、僕は応援していますし期待しています。
 その応援を言葉にするならば、

 「監督が変わった?あ、そう。ショー・マスト・ゴー・オン。関係ねぇ。続けろよ」

 って、ことになりますね。
 地獄を見ながら、夢舞台を見せる。
 まさに、エンターテイナーのやることですよ。

 なんか、変なサディスト気質がむくむく頭をもたげてきますね。
 いいじゃない。逆境。
 苦しめ、もがけ。
 泣いて喚いて、それでも、舞台を続ける。
 いいよ、最高の経験だよ。
 舞台裏でたっぷり苦しんで欲しいなぁ。
 そして、いい作品を作っちゃう。
 痛快ですよ。

 なんだか、こうやって書いていると、とてもわくわくしてきます。
 面白れぇことになったなぁ。って。

 舞台裏ではすっげぇ苦しいことになってても、何食わない顔して面白い作品を見せちゃうんだよ。

 エンターテイナーなら、それができるし、彼らはやっちゃうんでしょうね。きっと。
 だからこそ、すごく楽しみです。
 本物のエンターテイナーらしさを見せてくれるんじゃないかなって。

 せっかくの機会なので、是非、無茶苦茶苦しんで、その上で楽しいものを作って見せてもらえたらなぁと思います。

 そういった意味でも、次回以降、ますます楽しみです!!

 コミュニケーションは、まだまだ始まったばかり。
 これからも、いっぱいこの作品とのコミュニケーションを楽しんでいきたいと思います。

 今回もとても楽しかったです!
 
 
 
 
 …どうも、まだまだ「COMIC1」の疲れがあるようで、気がつくとえらく長く書いてしまっておりますね。
 すいません、毎度毎度長文で。
 最後に1点。トラックバックについてですが。
 ココログのトラックバックと相性の悪いブログがあるようです。
 もし、「トラックバックを送ったのに弾かれる。反映されない」ということがありましたら、コメントかメールで記事のURLをお申し出下さい。
 この記事の最後にリンクを張らせていただきます。

 それでは、乱文乱筆失礼いたしました。

 またです!!

 参照:「映像言語」と「漫画言語」の具体的な違いの例。
    : 「なぜアニメの感想を書くのか。どういったスタンスで書くのか。」
    :「物語り人(ものがたりびと)」であること。…学習機会レポート2
    :「物語作りの基礎。普遍的土台と誇張表現の調和により生まれる適度な感情移入…学習機会レポート」

 TB先:らき☆すた 第4話 「やる気の問題」(たこーすけの、ちょろっと感想)

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コメント

はじめまして。

ごく最近こちらを知ったもので一気に記事や絵倉庫を拝見させて
頂いたのですが、絵倉庫の方、たまにリンク切れがあるようですね。
(「Sweet」14話など)連載ものの途中が読めないとすごい気になる…!笑

らぶい展開も、18禁方面も非常に楽しみにしています。
頑張ってください~

投稿: うら | 2007年5月 4日 (金) 11:41

確かにこなたとかがみの距離は異常に近いですよねー。
……ってか、4話の時点でここまでの考察ができるとは。恐るべし。

ところで、この考察を読んで気づいたことなのですが、こなたにとってのつかさは「かわいい」、みゆきは「萌え」のイメージで括られているのに対して、かがみに対しては色々なことを言いますよね。寝顔がかわいいだとか、誕生日だけはかいがいしく働くかがみんであった、とか。
OPのけつろおおおおん、のところでもそうですが、手前からこなた、かがみ、つかさ、みゆき……となっているんですね。それを考えると、やはりかがみが一番こなたに近い存在で、そこから順番に遠くなってゆく、という差別を、製作者側が図った……とも捉えることが出来るわけです。

で、(自分は何故かみゆきに拘ってしまうのですが)、こなたから(4人の中では)一番遠いみゆきという存在は作品内で一体どういう意味を持つのか? という疑問がわいてきたわけです。
そこで、こなた=視聴者、という図式が成り立つと仮定して作品を見ていると、中々面白いことに気づきました。
オタから見た萌えキャラっていうのは、非オタから見たアイドルと結構、いや、相当近いところがあるんじゃないだろうか、という単純なことです。ですが、自分はそれがこの作品を読み解く上で重要なキーワードになるんじゃないかな、と思っていたりします。
こなた→みゆき、は、この場合言い換えると一般人→アイドルの関係になる……つまり、近くない、触れないし声もかけられない、その代わりにイメージが崩れることは決してない、という感じだな、と。

そこから考えると、それを意図的に崩したのがらっきーちゃんねるで、スーパーアイドルのあきら様が地を出すことにより、あきら様はアイドルではなく、ただの女の子に戻る。そしてその隣には白石という、こなたとクラスメイトの存在がいる。このことの意味も見つかるのではないでしょうか。

まとめると、こなた=視聴者、と仮定して考えた場合、みゆきさんのような存在も、らっきーちゃんねるのあきら様が示すように意外と身近な存在で、だからOPの(こなた、かがみ、つかさ、みゆき)順番での距離感を考えると、みゆきのように遠く思えていた存在でも意外と近いんだから、こなたの隣のかがみの位置はもしかすると、こなたが思っている以上に近い。言い換えると、自分の身近な存在は、自分が思っている以上に近い存在なんだよ、という意味があるのかもしれませんね。


……最後のは流石に妄想が暴走気味になりましたが、自分の思ったことを書き連ねたら結構抑えられないものですね(笑)

P.S ブログを始めてみました。よろしければ覗いてやってください(とはいえまだほとんど書いてませんが……)

投稿: すまいらー | 2007年5月 5日 (土) 00:46

うらさん、こんにちは初めまして^^
見て下さって、コメントをありがとうございます!
「絵もの画像」の方でリンク切れがあるとのことで、確認しましたが、全部の画像がちゃんと見れました。
うらさんが閲覧されていた時に、ブログサーバの方で問題があったのかもしれませんね。また見てみて下さい。
気になるところも是非^^

>らぶい展開も、18禁方面も非常に楽しみにしています。
>頑張ってください~

ありがとうございます^^
頑張って今後もいろいろ描いていきますので、また見てやって下さいね!
ではでは、またです^^

投稿: だんち | 2007年5月 5日 (土) 17:31

すまいさーさん、こんにちは。
今回も相当の長文になってしまったものを読んで下さって、コメントをありがとうございます^^

こなたとかがみって、OPでもかなりペアで描かれているんですよね。相当の仲良しさんなんだなぁって、そこでも印象に残る感じがあります。

考察というか、いつも「感想」というつもりで書いてはいるのですが。
漫画言語であったり、演劇っぽさであったり、自分が親しんできたものにすごく近い感じがあって、それで何か「ぴん」と来るものがあるように思います。

声優さん達って、昔は「身体を使った演技ができない役者なんて」ってすごくバカにされていた時期があったりしましたが。最近は舞台を踏んでいる声優さん達も多いですし、そういう訓練を受けていますもんね。
上っ面だけでない、生身感のあるいい演技を見させてもらっているんだなぁと感じますし、昔の「声優」の評価を思うと溜飲が下がる思いでございます^^

その意味では、今回すまいらーさんが書いて下さったことも、そういったキャストの声優さん達のいい演技があってこそ思い浮かんでくることなのかもしれませんよね。

あの四人組の中で、こなたにとってみゆきが一番距離が遠いというのは確かにそうですね。
宿題を見せてもらうのも別のクラスのかがみだし。

みゆきがちょっと外れている感じって、どうしてもしますよね。
そこを思うと、エンディングのカラオケなんかは、彼女達の距離が縮まるためには非常にいい機会なんだろうなぁ、なんてなことも思ったりします。

こなたにとってみゆきが、どこか生身感を伴わないアイドル的な存在というのは、確かに仰る通りかもしれません。
そしてそれが、今回すまいらーさんが提示された「こなた=視聴者」という図式で見た時に、そこにある距離感は確かに僕らにとってもリアリティのあるものかもしれないですね。

だけど、「らっきー☆ちゃんねる」のあきらのように、実際は生身感のある女の子、というところで、そこの距離はただ単純に心にある距離っていうだけなのかもしれませんね。

ということは。
話が進んでいくうちに、こなたとみゆきの距離も近くなっていって、そしてあきらと白石稔の距離も近くなっていったりして。
そうなると、ますます「コミュニケーションドラマ」らしい感じになりますね^^

>自分の身近な存在は、自分が思っている以上に近い存在なんだよ、という意味があるのかもしれませんね。

あぁ。いいですねそれ。
視聴者を一定の距離以上は近づけない作品でありながら、作中のキャラクターの距離感はすごく近かったり、どんどん近くなっていったり。
それはまた、非常に心地良いものに感じられますよね。
言ってみれば、アニメや漫画との距離を縮めるよりも、もっと身近な人を見てごらんなさいな。というような、そんな折り詰めを手にする感じかもしれませんね^^

思ったことは、お互い、ばんばん言葉にしていきましょー。視聴者は視聴者同士で距離を縮めていくということで^^

ブログも頑張って下さいね!楽しみにしております!
ではでは、またです^^

投稿: だんち | 2007年5月 8日 (火) 18:41

だんちさん、こんばんは!
TBをありがとうございました!たこーすけです。
こちらからは、また…ダメでした…

らき☆すた 第4話 「やる気の問題」(たこーすけの、ちょろっと感想)
http://blog.goo.ne.jp/takosukena/e/f1ac3fd07cd82a5e93735df8974d4c7c

です。よろしくお願いします。

やー。今回は書きすぎました(苦笑)
書き終わった後、ぐったりしました…
「ライブアライブ」の時を思い出しましたよ(笑)

さて、だんちさんの、

>こなたがオタクであることにも、そういった「欠けてしまった重大な存在」
>ということが関係しているように思えてきます。
>ただ単にオタクネタを飛ばしているだけの子じゃなくって、
>彼女には、それを好きになっていくだけの理由があるんだな。って。

に、ハッとしました。これは思い至らなかったです!
ぼくも、ちょっとこの視点も持って、今後観ていってみたいと思いました。

そして、第3話の「いない人の悪口を言わない」もそうでしたが、

>そして、こなたにはかがみのような友達がいて、受け入れてくれている。
>逆に、こなたもかがみの言葉をちゃんと聞いている。

が「らき☆すた」のとてもいいところですよね。
なんというか、「優しい」ところがあるんですよね。
ぼくも、そのうち(もしかしたら第5話感想で)この辺りの点について書こうと思っています。

いやしかし。
そこを、あきらさんと白石くんとのコミュニケーションの断絶につなげてくるとは思わなかった!
そうか、たしかに!これは、「真逆感」が際立っていますね。
うーーー。これはヤラレタ!

あと、漫画言語の「初速のものすごく速い分かりやすさ、伝わりやすさ」というのは、すごく納得できました。
なるほど!です。
してみると、「漫画言語」と「映像言語」。
ちょっと違うかもしれませんが、ぼくは自分が感想記事を書くときのことを思ってしまいました。
なんというか、「漫画言語」は「箇条書き」みたいなところがあるのかなと。
あるいは、「要約」というか。
「漫画言語」というより、その中の1つの「4コマ漫画言語」となるのかもしれませんが、
乱暴に言ってしまうと、「絶対に必要なもの以外は、削ぎ落とせる」という感じでしょうか。

必要最小限の情報(台詞、描写、つながり)で、成り立たせることが出来る。
何と言いますか、いわゆる「行間」を読んでもらうことで、成り立たせることが出来る。

それに対して「映像言語」を使う際には、話の流れやつながり、描写をきっちりとしないと、視聴者に誤解や混乱を与えてしまう。のかなと。
「漫画言語」でいく限り、結構すっ飛ばしても、視聴者はついていけるのかな、と。

その、削ぎ落としきった「要約」感と、流れをちゃんと作って「きっちり書き込む」感は、
ぼくにとっては、感想記事の「3つの項目タイトル」と「本文」に相当するなーと感じました。

や。ぼくのことはどうあれ。
その辺りのことが、この「らき☆すた」のモブに表れているのかなと。
「削ぎ落とした」からこそ、この「らき☆すた」ではモブがあんな感じなのかなーと思います。
そして、それで問題ないし、もしかしたら「漫画言語」的には、むしろそうした方がわかりやすいのかも?

「らき☆すた」のモブは、「ハルヒ」のモブと、あまりにも違いますよね。
「ハルヒ」では、クラスメート全員の設定があったわけですし。誰が誰を好きだとかまで。
「実写的」を指向した「ハルヒ」では、そうすることが必然だったのかもしれません。
そして、
「漫画言語」的である「らき☆すた」では、こうするのが必然なのかもしれません。
そのように思いました。

うわ!ここでも書きすぎた!
すみません。
てか、第5話レビューがアップされてる!

うーん。ぼくは…まだかな…

それでは!

投稿: たこーすけ | 2007年5月 9日 (水) 02:08

たこーすけさん、こんばんは^^
TBとコメントをありがとうございます!!
TBが通らないのは、なんだかもう仕方ないですね。次回からはこちらからTBを送らせていただいたら、その時点で記事の最後にURLを記載させていただきます。
こちらでは禁止関係は一切やっていないんですけれども。何が原因なんだろう?

たこーすけさんの今回の感想、確かにアツかったですね^^
ぐったりする程書きたくなる時って、ありますよね。
第5話は、まんま「フルメタ」はなかったけど、かなり「フルメタ」ネタは多かったですね。機会があったら是非原作も読んでみて下さい^^

>に、ハッとしました。これは思い至らなかったです!
>ぼくも、ちょっとこの視点も持って、今後観ていってみたいと思いました。

おー^^
僕の感想で何か新たな視点を示すことができたのでしたら、書いた甲斐があったというものです!
結果に対して必ず原因があることだというのは、道理なわけですが、「オタク」という存在をどこかアンバランスな状態として見ると、その原因もまた必ずあるものなんだろうな、と感じます。
ただ単に「オタクのキャラクター」としてこなたを記号的に扱うこともできるでしょうけど、そんな風にはせず、意味を持って提示してくれているように感じます。
だからこそ、たこーすけさんが指摘される「らき☆すた」のとてもいいところ、

>なんというか、「優しい」ところがあるんですよね。

というところに、すごくほっとできるところがあります。彼女達の間に変な壁が全然なくって、受け入れ合っているところが、見ていて本当に安心できます。

>ぼくも、そのうち(もしかしたら第5話感想で)この辺りの点について書こうと思っています。

是非是非!!更新、待ってますよー^^
楽しみにしていますね!

「らっきー☆ちゃんねる」の本編とのリンクは毎回面白いですよね。
今回は本編とは真逆なコミュニケーションの断絶を見せてくれたことで、より本編の印象が強くなったように感じました。
だから、本編の印象を「らっきー☆ちゃんねる」につなげた、というよりは「らっきー☆ちゃんねる」の印象から本編の印象が深まった、という感じだったかもしれません。

「漫画言語」は、仰る通りで、必要な情報以外は削ぎ落とせるものですよね。
そして、そうすることで情報の提示の仕方がコントロールされて、より伝わりやすいものになります。
削ぎ落とすことにも意味があって、例えばご指摘の「モブ」のことで言うと、「この画面ではモブは情報としてこの程度見えていればいいんです」「人がいる教室だと分かればいいんです」ということで、見るべき箇所は「そこじゃないんですよ」ということになりますね。
そして、必要な情報は入れていかなくてはいけないわけですが、そこで漫画言語的な情報の圧縮手段というものが、重要になるんですね。
それが、例えば、「汗マーク」の描写だったり、顔に出る縦線や青い顔色、頭の上に出るびっくりマークだったりします。ほっぺたが赤くなるのもそうですし、目が文字通り点になってみたり、線で表現したり。
そういう、圧縮の仕方で瞬間的にキャラクターの心情を伝えていくんですね。
で、日頃漫画に親しんでいる僕らは、その圧縮情報を受け取った瞬間に解凍して読み取ることができる。
「映像言語」の場合「思わずあせってしまった」という心情を表現するために、画面の流れやつなぎに意味を持たせて台詞ワークや身体の動きを含めた演技で伝えていかなければならないと思うんですね。その映像言語は、組み立てに独特の技術が必要で、上手く映像化していかないと伝わりにくくなってしまうのだろうな、と感じます(今、ぱっと思い浮かぶところでは「刑事コロンボ」シリーズとか、映像言語として非常に優れた構成がなされているように思います)。だからこそ、最近は逆に映像の世界で(実写含めて)漫画的な表現を多く取り込んでいるんだろうなと感じます。

僕らがこうやって書いているテキストに「漫画言語」「映像言語」を当てはめるなら、顔文字や「www」「orz」などの記号表現が漫画言語的と言えるのでしょうね。
言葉だけでも伝わることでも、漫画言語的な記号を織り交ぜることで、伝わり方の初速は格段に上がるように思います。
その観点から言うと、たこーすけさんの記事は基本的に映像言語的であるかもしれませんね。全体を通して読んでいくとつながりが生まれて、記事作成者の感情が伝わってくるところとか。サブタイトルも視覚表現としての効果を持っていると思いますし。

「ハルヒ」では、汗マークなどの漫画表現はなるべく抑える方向で作られていましたが、音の面でもそうでしたね。本来鳴らない音は鳴らないように作られていたように思います。
それに対して「らき☆すた」では、まばたきにも「ぴこっ」と効果音がついていることがあります。キャラクターのバックで時折鳴らされる「どよどよどよ」というような効果音もそうですが、それらは「削ぎ落とされた情報」とは別に「圧縮された情報」ということになると思います。
削ぎ落とされた分、圧縮されて別に提示されている情報がある、ということでしょうか。
そういった情報に注目していくのも、面白いかもしれませんね^^
そこには、たこーすけさんが仰るように、やはり「必然」があってのことだと思いますから。

書きすぎは、いつもお互い様なので、気になさらず(笑)
ここは、たこーすけさんの故郷にして別宅なんですよ。なので、くつろいで、口数多く、語り合いましょうー^^

お忙しいようですが、無理なさらず記事書いて下さいね。
第5話の感想楽しみにしております^^

ではでは、またです!

投稿: だんち | 2007年5月13日 (日) 03:21

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» らき☆すた 第4話「やる気の問題」 [Old Dancer's BLOG]
 う〜。ううううう〜〜。  …お腹イタイ。  どうしたってんだ。変なモン食ったか。仮眠中にお腹冷やしたか。それともウィルスに感染したか。あ〜う〜、どれも微妙に心当たりがあって、逆にどれも決定打に欠... [続きを読む]

受信: 2007年5月 4日 (金) 11:22

» ゆめのとちゅう(せーらーふくと(ry らき☆すた4話(5/2追記有) [【非公式】世界日本ハムの哀れblog@非公式]
 「セーラー服と機関銃」も「時をかける少女」も角川映画以外の何モノでもない訳ですが、歌の方はピーちゃんでも長澤某でもなく、来生たかおのセルフカバーVer.以外の何モノでもない訳ですよ、ええ。  どうして「セー... [続きを読む]

受信: 2007年5月 4日 (金) 11:48

» (TVA)(らき☆すた) 第04話 『やる気の問題』 [もらかなです。]
 ある意味 一寸先は闇 笑)  まぁ 散々話題になってるので 今更 言うのも何ですが 山本寛さんの監督降板劇が 各地で話題になってますね 笑) マジ なのか ネタ なのか 『ぶっちゃけ あたしゃ わかりません 笑)』  放送内容的には 監督を降りる理由なんて 別にありません... [続きを読む]

受信: 2007年5月 4日 (金) 16:38

» らき☆すた 4話 「やる気の問題」と、「やる気ではどうしようも出来ない問題」 [りとまて!]
なぜか一瞬だけ写った「らき☆すた」らしくない『絵』。何処となくリアルチックなこの絵が、なぜここに挿入されたのか。その辺を軸にです。 今回の話、『やる気の問題』。 タイトルどおり、『やる気の問題』な話題... [続きを読む]

受信: 2007年5月 5日 (土) 02:28

» レビュー・評価:らき☆すた/第4話 やる気の問題 [ANIMA-LIGHT:アニメ・マンガ・ライトノベルのレビュー検索エンジン]
品質評価 33 / 萌え評価 46 / 燃え評価 3 / ギャグ評価 41 / シリアス評価 11 / お色気評価 11 / 総合評価 24レビュー数 333 件 学校の教科書は量が多く重たくて、いちいち自宅まで持って帰るのは面倒くさい。「泉こなた」も、いわゆる「置き勉」派だ。宿題も「柊かがみ」に見せてもらったり。試験勉強の前にはさすがに持って帰るもいつもの一夜漬け。 ... [続きを読む]

受信: 2007年9月25日 (火) 04:23

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