「らき☆すた」第8話を見た。
こんにちは、だんちです。TVKにて「らき☆すた」第8話を見ましたので、感想を書きたいと思います。
今回も、大変楽しく視聴いたしました。
やっぱり、可愛い女の子はいいっすね!
可愛らしさに悶えたり、可笑しさに笑ったり。
いつもながらの楽しい30分でございました。
さてさて。
今回から、いよいよこなたパパが本格的に登場してきましたね。
ここまで、その存在がちらちらしつつも、どんな人物なのかは明確ではなかったこなたパパ。
どうも。
女の子が大好きな人物のようで。
カメラもすげぇのをお持ちのようで。
娘がいることを利用して、そういった写真を撮りまくっていらっしゃるようで。
これまでの情報を総合しても、娘同様、オタク要素を持ちつつ、自身の萌えに対して忠実に行動する人物のようですね(僕は一応、原作第一巻は読みましたが、そこで出てきている情報についてはここでは触れず、アニメシリーズで見てきた情報のみに限ります)。
そのこなたパパの様子はコミカルでとても面白いわけですが。
その面白さを引き立てているのが、柊家のお父さんということになるでしょうね。
シリーズが始まってから、ちょこちょこと登場していた柊パパ。
彼がごく常識的なお父さん像に則った言動をしている様子が、要所要所で描かれてきたことで、今回から本格的に登場したこなたパパの様子が、この作品の中でも「常識の範疇外」であることが伝わってきます。
柊家の様子をこつこつ描いてきていることで、泉家の様子というものが、「ちょっと違う家庭」であることが見ていて自然に受け取れる構成になっているな、と感じます。
そういったところにも、「連続シリーズもの」らしい構成を見ることができるように思うんですね。
そして、ある種奔放な振る舞いを見せてくれたこなたパパ。
彼について、僕はここまで視聴してくる中で様々な情報を得てきていました。
目玉焼きは半熟が好きだとか、鶏肉が好きだとか。娘の前でギャルゲーを平気でプレーするとか。
でも。
やはり、一番大きな情報としては、彼が奥さんを亡くしている、という事実でしょう。
今回、彼の登場を見て、彼のユニークな言動を楽しみ、笑った後、しばらくしてから、その事実を思い出しました。
亡くなっている人物は、一人(現時点では)なわけですが。
その事実が与える印象は人によって違うものでしょう。
こなたは小さい頃に亡くした、という。
おそらくは物心つく前だったのではないでしょうか。だから、哀しい記憶というよりは、「欠落」そのものであるように感じます。
彼女にとって、その欠落を乗り越えるのは、周囲の人たちの愛情や優しさがあって成し遂げられることでしょう。
ところが、こなたパパにとって、奥さんの死は、直面した重大な悲しみそのものであると思えます。
思い出も、温もりも、心身に刻まれている奥さんの死。
その事実を過去に体験している男の姿なんだ、と思うと、こなたを男手で育てあげ(周囲の協力を得ながらでしょうけど)、幸せそうにしている様子に逞しさ、力強さを感じます。
しかし同時に切なさも感じるわけです。
彼が、制服少女や体操着少女に萌えるのは、元々の好みなのかもしれませんが、奥さんの死に思いを馳せてみると、その彼の熱心な興味の発露は、奥さんが学生だった頃の思い出に遡ろうとする行為そのものなのかもしれない、と感じるんですね。
そうやって思ってみると。
彼が「少女の写真を撮っている」ということに、猛烈な切なさを感じるんです。
だって、写真の中の少女は、永遠に少女なわけじゃないですか。
その写真の中の時間は、ずっと止まったままなわけじゃないですか。
オープニングの彼の様子を見ても、彼は少女を見ているだけ。直接どうこうしようってことじゃないのでしょう(まぁ、現時点に限った話ですが)。
そして、少女を永遠に少女のままに写真の中に写しこむ。
失われることのない少女。
その存在を追い求めること。
それは、大きな存在を失ってしまったことによって開いた大きな心の穴をなんとか埋めようとしていることなのかもしれません。
だからなのか、彼は娘の写真は撮っていないようでした(少なくとも今回は)。
こなたは、これからもずっと成長していく存在なのでしょう。だから、写真という彼にとっての「擬似的な過去の思い出」に封じ込める対象ではないのかもしれませんね。
前回の感想で、「変化と不変」ということを書いたわけですが、それは彼にとってもあることなのかもしれません。
時間は確実に流れていき、変化もあるけど、受け入れがたい変化もあって。変わらないもの、変わらない存在を求める衝動がある。
それが、彼のあの姿なのかもしれないなぁということを思ってみました。
今後描かれていくであろう彼の様子から、彼の奥さんの在りし日の姿や、彼と奥さんの関係などに、思いを馳せることもできるのかもしれませんね。
また、こなたに対する想いというものも、感じていくことができるのかもしれません。
そしてまた。
肝心の少女達も、変化の中にいるわけですね。
体育祭があったかと思うと、すぐ普段の日々がやってくる。
それは、Aパートが終わってBパートではすぐ日常が始まるように、実際あっという間の変化なのかもしれません。
「連続シリーズもの」として見てくる中で、ここまではこなたとかがみの関係が中心に描かれていました。
第6話、第7話を経て、二人の関係の不変性というものが見えてきたところで、今回、つかさとみゆきが目立っていたように思います。
つかさはつかさで、やはり自分の欠点にコンプレックスを持っていて、変化していきたいと望んでいるようですね。
かがみに教えてもらったりアドバイスをもらったりしながら一生懸命笛の練習をするところは、変わっていこうとする姿そのもので、とても健気で爽やかです(見ていてどうにもならないくらいエッチな衝動にかられたのは内緒です)。
運が無いのは、彼女にとって「不変」かもしれないけど、でも、姉の愛情やこなた達の友情も、不変のものでしょう。
不変の情に包まれながら、成長という変化が彼女にもいつか訪れるといいなぁと思います。
みゆきですが。
体育祭のリレーの様子を見ていると、彼女は集中すると力を発揮するようですね。ドジっ娘なのは、集中しすぎて回りが見えなくなるからなのかな?視野が狭い?
そんなみゆきは、学食の列を間違えるわけですが。
それは、こなた、かがみ、つかさ、という友人達とのおしゃべりに集中してしまったからに思えます。
彼女にとって、数少ない友人達と一緒にいることは熱中してしまうくらい楽しいことなのでしょう。
でも、こなたのことを「泉さん」などと他人行儀に呼ぶ。
メガネを壊してしまった時は、つかさ、こなた以外のクラスメートからはノートを借りず、かがみにノートを借りたりしておりましたが。そもそも同じクラスの学力が近い友人から借りれば良かったんじゃないでしょうか。クラスから浮いていて、友人が非常に少ないということを自覚しているような気がしてなりません。
そんなことを思ってみると。
こなたのオヤジなツッコミによって障害物競走からチームプレーのリレーに出場種目が変わったのは、彼女がクラスに溶け込むためには非常にいいことのように思います。
まぁ、こなたがそんなことを考えていたわけはないでしょうけれども。
でも、こなたがみゆきのことを「仲の良い友達」として認識しているからこその、遠慮の無いツッコミでしょうから、やはり、非常にいいエピソードであったように思えます。
クラスのために全力を尽くしたみゆきの頑張りもまた、とても溌剌としていて良かったですね。彼女が本来したかったことに対する思いが込められていた全力疾走だったのかもしれませんね。
体育祭では、そうやってこなたにキッカケを与えられたみゆきですが。
彼女は彼女で、自分の臆病や弱さのために「変化」していくことができないように感じます。
だけど、眼科の前まで行ったりするくらいですから、実際は変化したいという願いも持っているのでしょう。
彼女も、変わることがない友情を持った友人達に囲まれながら、望ましい変化を得られるといいなぁと思います。
勿論、こういった作品でキャラクターに大きな変化が訪れることは無いかもしれません。
でも、彼女達が、自分のコンプレックスに対して何とかしたい、と思って行動している様子が、見ていてとても心地良いんですよね。
シリーズ作品として提出する上で、人物設計を非常に丁寧に設定しているように思えます。
この人はなんでこう行動するんだろう。なんでこう言うんだろう。というところに思いを馳せることができる、そういった奥行きが感じられるんですね。
その人物設計から、エピソードの順番や膨らませ方、見せ方が決まってくるのかもしれませんね。
その奥行きの中身を見せてくることは無いのかもしれませんが、そういう人物設計の丁寧さと見せ方は、物語を作る人間にとって非常に勉強になります。
そしてまた、彼女達の様子から、その奥行きを感じられることがとても楽しく思えます。
女の子のことを、毎週少しずつ知っていく、ということが、すごく魅力的で、楽しいことに感じるんですね。ある意味、とてもエッチな気持ちになるというかなんというか。
心を持ったキャラクターとして描かれている彼女達の、その心がちょっとずつ裸になっていってそれを知るような感じ、といいますか。
大きなドラマが無いわけだから、確かにそういうところをしっかり見せていかないと成り立たないわけですね。
積み重ねられるエピソード。会話。
これは、回を重ねるごとにどんどん面白さや奥行きが増していくことでしょうね。
次回は、誰のどんなところを知ることができるのか。どんな奥行きを覗くことができるのか。好奇心を刺激されてしまいます。
続きもとても楽しみにしつつ、今回はこの辺で感想を終わりたいと思います。
ではでは、またです!
参照:「映像言語」と「漫画言語」の具体的な違いの例。
: 「なぜアニメの感想を書くのか。どういったスタンスで書くのか。」
:「物語り人(ものがたりびと)」であること。…学習機会レポート2
:「物語作りの基礎。普遍的土台と誇張表現の調和により生まれる適度な感情移入…学習機会レポート」
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
なるほど。
そうきましたか。
確かに。そうじろうの奥さんの時間は止まったままで、彼はそれを追い求め続ける。
そう捉えた場合、高校生活という、人生で一番変化の多い(?)時期を過ごしているこなた達の変化がますます感じられるような気がします。
うーん。
やはりこのアニメは、シリーズものなんですよね。
自分がこのアニメについて感じていることなのですが、学生生活を真っ直ぐに描いている作品だな、と思うわけです。
普通は、物語上の都合や、非日常をメインにした作品のギャップ作りに使われる舞台なのですが、この作品の場合はちょっと違う。
これはきっと、一種のタイムマシンのようなもので。
放送中の30分間だけ、過去の世界に浸らせるような作品なのかもしれません。
もちろん、ただの現実逃避となるのではなく、明日への力と変えていく。そのために、らっきーちゃんねるがあるのかも(目覚まし的な)。
そんなことを思った、今日この頃です。
P.S だんちさん、今更ですが、各話ごとに長い感想を読ませてもらって、楽しんでいます。で、自分がそれによって受ける影響も物凄いもので(ついブログなんて作っちゃいましたが)、やはり言葉のパワーというのは半端ないものですね。自分も、だんちさんの感想書きの意欲の一因となるために、頑張ってみますね!
投稿: すまいらー | 2007年5月31日 (木) 22:46
すまいらーさん、こんにちは^^
今回も読んで下さって、コメントをありがとうございます!
こんな感じで書いてみました^^
人それぞれの捉え方があると思うのですが、僕には「シリーズもの」として連続したエピソードの見せ方を感じています。
その上で、こなたパパがああやって少女の写真を撮って「止まったままの時間」を求めることは、彼の境遇を思うと非常に自然な感じがします。
「少女」というある種の偶像を、様々な形で求める「普遍」性というものも、そこには感じられるのかもしれませんね。
少女という存在によって、自身の時間も止められる。
そういう機能があるのかもしれません。
それは、すまいらーさんが「一種のタイムマシンのようなもの」と仰っていることと同義かもしれませんね。
>自分がこのアニメについて感じていることなのですが、学生生活を真っ直ぐに描いている作品だな、と思うわけです。
そうですね。あれだけ漫画っぽさを前面に出しながら、かなりリアリティや奥行きを感じることができますよね。
その作品世界が、僕ら大人には、タイムマシン的な楽しみを与えてくれるのかもしれませんね。
それは僕には、過去に浸ることではなく、成長していくこと、変化していくことと不変のもの、ということに改めて直面させてくれるものに思えます。
柔らかく、優しく、そして浸り切ることを許さない厳しさも持って。
仰る通りで現実との直接的な繋がりを持つらっきー☆ちゃんねるの存在はさり気に大きいものですよね。
それにしても、「P.S」をありがとうございます^^
楽しんでいただけているとのこと、とても嬉しいです!
僕もすまいらーさんのブログを読ませていただいて、楽しんでおります。
すまいらーさんの記事を読んで興味を持って「瀬戸の花嫁」を見るようになりましたし^^
僕の書くものが、すまいらーさんに何かポジティブな影響を与えているのだとしたら、それはもう本当に嬉しいことです。
同時に、「言葉のパワーというのは半端ないもの」ということについても仰っていただいて、改めて気が引き締まる思いがします。メディアを使って何事かを発信する時、その影響というものは常に頭に置いておかなければいけないことですね。
改めて気づかせて下さって、ありがとうございます!
これからも、すまいらーさんの記事を楽しみにしておりますし、お互い高めあっていけるよう、僕も頑張っていきますね!
共々に楽しく記事書いていきましょうね!
ではでは、またです^^
投稿: だんち | 2007年6月 2日 (土) 16:13