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2007年6月23日 (土)

「らき☆すた」第11話を見た。

 こんにちは。だんちです。TVKにて「らき☆すた」第11話を見ましたので、感想を書きたいと思います。6月24日1:09ちょこちょこと加筆。

 あぁ…今回も可愛かった…。
 丸く小さいものが大好きです。

 つまるところ。この二行で毎回感想は終わりと言ってしまえば終わりなのですが。
 いつものように、あれこれ書いてみようかなと思います。
 見ている時は、ただ普通に見て楽しんでいるわけですが。
 一応は創作者の側にいるので、どうしてもこう、癖というかなんというか、あれこれ考えてしまうわけです。自分が「楽しい」と感じることから学ぶことができたら、と思っているのです。

 で。
 適当にキーボードを打ち始めたら、例によって例の如く、えらく長文になってしまいましたので…。
 11話の感想自体は先にさくっとまとめておきます。

 まず、こなたが前回のエピソードの話題をみゆきに振っていたところが、「連続もの」であることを強調するものだったように思います。
 それは、「過去」のことについての話題だったわけですが、会話があれこれと進んでくる中で、クリスマスをどう過ごすという話や正月の話題なんかも出てくるわけですね。
 で、実際クリスマスの様子が描かれて、次回は正月のお話になる。それは、「現在」と「未来」ということですね。

 その「連続性」が僕には印象的でした。
 12月のエピソードだから、一年の終わりなわけですね。そのタイミングだからこそ、過去のこと、現在のこと、未来のことが混在して語られるところが特徴的だなぁと感じました。
 そういった「連続性」と、変わらない彼女達の様子とが、「日常」を強調するものに感じられます。

 その変わらない日常の中で、今回、みゆきが都内の人でこなた達とはちょっと距離があるところに住んでいる、ということが分かりました。
 具体的に距離が離れていることで、ちょっとみゆきが浮いている感じになっているんでしょうね。
 でも、こなた達はみゆきとの距離をもっと縮めたいことでしょうから、ちょっと離れた距離を乗り越えて、みゆき宅に遊びに行ったりしそうですよね。
 …む?そう考えると。
 みゆきはかがみが風邪引いた時、電車に乗って都内から時間掛けて柊家に見舞いに行ったんですね。いい子だ…。
 やー。これは、是非高良宅訪問も実現して欲しいものです。

 あと。何かと泉家にやってくるゆい姉さん。
 これといった用事がなくとも、ちょくちょくこなたのところに顔を出す彼女は、旦那が単身赴任ということで暇なだけなのかもしれないけど、なんとなく思うのは、お母さんがいないこなたに寂しい思いをさせないために通っているようにも感じるんですよね。
 ただ、そばにいてあげるだけで、絶対に寂しくないと思うし。
 ゆい姉さんは、すごく優しい人な気がする。でも、そうだとして。それを当たり前のように描いているところがいいなぁと思うんですね。
 で、自分が寂しい思いをしても酔って泉家にやってきたりして、こなたに甘えてくるわけですね。
 一方的に優しさを押し付けるのではなく、互いに身内として甘えあう、親族としての麗しい姿が描かれているように思います。
 そういうのを見ていると、自分も家族や親戚に優しくしたいし、甘えたりしたいなぁと思ったりもします。
 そういうことが、当たり前のようにできるといいんでしょうね。

 「甘える」ということでいうと、学校ではじっと黙って歩き去った黒井先生が、ネットゲームの世界ではプレーヤー仲間としてのこなたに甘えてくるところが、とても可愛かったですね。
 で、朝まで遊んだ後にケーキを買って、少し前向きになる、と。
 遊ぶということ、人と一緒に遊んで過ごすということには、人を前向きにする力があるのかもしれせんね。
 それは、ゆい姉さんがこなたにしてあげていたことかもしれないし、その同じようなことをこなたが黒井先生にしてあげているところを見ると、ゆい姉さんの優しさはちゃんとこなたに影響を与えているのかもしれませんね。

 やはり、寂しい思いをしている人に優しくしてあげる、ということ、寂しい時には人に甘えるということは、自然なことだし、日常の中で大切な変わらない情のあり方なのかもしれないなぁと、思ったりします。
 優しさや情というものは、いいものですね。

 と、いったところが11話そのものの感想でございます。
 
 そんなわけで、こっからが長文です。
 僕は左利きで右脳の人なので、考えずに感覚で適当に言葉を使ってしまうのですが、それで語りすぎになっちまうんですね。
 まぁ、これも作品の楽しみ方の一つということで、どうかご容赦を…。

 
 さてさて。
 「らっきー☆ちゃんねる」がラジオや雑誌との連動などで「メディアミックスで遊ぶ」ということを明確にこちらに提示してきてくれているわけですが。その元となる素材である「本編」が、「日常もの」というところが非常に面白いと感じます。
 「遊ぶ」ということと「日常」ということ。
 その辺り、キーワードとして捉えていくといろいろ面白い見方ができるんではないかな、と思うんですね。

 「メディアミックスで遊ぶ」のであれば、テーマとしてもっと浮世離れしたファンタジックなものを選んだっていいわけですが、そうはしない。
 そこは、差別化という部分もあるのかもしれませんね。
 作中でこなたがプレイしているネットゲームのように、まったく別の世界のまったく別のキャラクターになって遊ぶものが既にあるわけですから。

 「らき☆すた」は、可愛い女の子達の日常をオープンに視聴者に見せつつ、視聴者が彼女達と会話をするように受け取って、ラジオや雑誌など様々なメディアを通じて、彼女達との「遊び」を、自分の日常の中にいながら発展させていく、そういうものかもしれませんね。

 彼女達と「遊ぶ」時、こちらは自分以外の何者かになるのではなく、普段通りの「視聴者のまま」でいいし、そうでなくてはならないのでしょう。
 その辺りが、以前から感想で書いている「風俗店に行って女の子とお話している感じ」なんだろうな、と思います。
 「ヤクザ映画を見た後に観客がみんな肩で風を切って歩く」というような、「なりきる」ような感情移入をするものではないわけですね。
 見ている最中も、見た後も、自分はずっと「視聴者」のまま。
 それは、作品と遊びはしても、入り込むものとは違った楽しみ方をするもの、ということなのでしょうね。

 自分が自分のまま作品を見るから、女の子達の会話も気になるわけですよ。
 「くさいよねー」「困るよねー」などと言われていると、それが何の匂いについて語っているのかは分からなくとも、「俺、くさくねぇよな?…風呂にちゃんと入って体もちゃんと洗わないとな(や、いつも入ってますよ)」と気になったりするわけです。
 「入り込む」場合は、自分が臭がる立場になるんだけど、「視聴者のまま」だと、彼女達の話題の対象になりうる、ということですね。
 今回の電車の座席で眠る話なんかもそうですし。

 自分は自分の日常に居て、客観的な立場で「日常もの」作品を見て、その作品と遊ぶ。

 それは、言葉にすると、実に地味なものに思います。
 でも、その地味なものが、今とても楽しいんですよね。
 現実逃避の装置であるエンターテインメントを使って、日常の中で遊ぶことをテーマにする。
 それは、現実逃避から現実に戻すことを志向しているようにも感じますし、同時に、「遊ぶ」ということそのものを、作品を作る側と受け取る側とで一緒になって取り戻そうとすることでもあるようにも思います。

 どうやって遊ぶのか。何で遊ぶのか。遊びのルールはどうするのか。その遊びをどう楽しむのか。

 それはとても創造性があって自由で、なおかつ倫理観が求められて社会性があるもので。
 「遊び」というのは、生きていく上で様々なことを身につけることができる要素を多く含んでいるもので、現実逃避とは違った価値観を持った行為なのかもしれませんね。
 そして、それは本来子供の頃に集中的に体験して身につけていくべきものなのでしょう。
 だけど、その「遊び」が、様々な形で奪われている、という現実があるのかもしれない。

 その辺りは、この国の戦後の成り立ちなんかを体験的に追い掛けてみると、見えてくるところもあるんでしょうね。
 高度経済成長だったり、偏差値教育だったり、学歴主義だったり。
 バブル景気だったり、バブル崩壊だったり。

 最近の社会のあれやこれやを見ていると、「悪い夢でも見ているんじゃないのか?」と思わされることが多いように感じます。

 年金問題、肉の偽装、爆発事故、淫行事件。

 ちょっと考えれば「それじゃいかん」「これじゃダメだ」と分かりそうなものなんだけど、当事者にはそれが分からない。結果が出てから右往左往。
 実際、夢を見ちゃっているんだろうな、と感じますよ。当事者達が、
 「これでいけるんじゃないか」「これで上手くいくんじゃないか」
 と。

 バブルの頃。
 根拠のない浮ついた価値観がはびこって、うんざりするような時代の空気の中、僕なんかは思春期を過ごしてきましたが(まぁ、普遍的に思春期ってのはたいがいのことをうんざり思うものかもしれまんけれども)、その頃の80年代的なアニメや漫画などに、その時代の空気が様々な形で反映されているように思います。

 現実は虚構なのではないか。
 現実の現実は、どこか別のところにあるのではないか。

 というような。
 そういう空気。
 あまりにも地に足が着いていない時代の空気(例えば、ハウスマヌカンが天上人のように偉そうだった意味不明な空気ですね)の中、「これはおかしいんじゃないのか?」という発想が、当時の創作者にはあったように感じます。

 変な夢を見させられていた。
 ってことですよね。
 それは言ってみれば、「現実を奪われていた」状態だとも言えるのかもしれません。

 そのことがはっきりして、現実の中もがいて生きていかなければならないのが現在だと思うわけですが。
 いまだに夢から醒めない方々がどうにもこうにも多い気配がするわけですね。ニュース見ててもそうだし、実際の日常を生きててもそうだし。

 うそはばれる。
 悪いことをすれば報いがある。

 当たり前のことだし、それが現実。
 なんだけど、夢を見ているとそれが分からない。
 エンターテインメントという現実逃避の装置を使う以前に、そもそも現実が喪失させられてしまっている状態なのかもしれませんね。
 そして、それはそう簡単には「よし、じゃあ夢から醒めて切り替えよう」とできるものではないのかもしれません。

 じゃあ、本来あるべき現実はどうやって取り戻せるのか。
 80年代の創作者が「現実の現実はどこかにあるのではないか」と思い描いたその先に、今の創作者達が描くものは何なのか。

 そこに、キーワードとして「日常」「遊び」というものがあるんだろうな、と感じます。

 逆にですよ。
 「魔法」とか「異世界」とかまたは「ロボット」とか、そういったものを作品として扱う時、80年代の創作者と今の創作者とでは苦労するポイントが全く違うだろうな、とも思うんですね。
 それはつまり、現実逃避のさせ方が違う、ということでしょう。
 今、そういったテーマを扱うとなると、かなりデリケートな表現の仕方をしないと、視聴者を「間違わせる」ことがある。そういう、微妙さを伴っているように思うんですよ。
 そもそも、視聴者が「現実」を奪われて失っている状態にあるのであれば、そこから更に非現実に連れ込むことは、はっきり言ってとても怖いことに思います。
 だから、よっぽど考えて、なおかつ頑張って作らないと、「半端な魔法もの」だったり「半端なロボットもの」だったりになってしまうだろうな、と思うんですね。

 そこで。
 今現在は特に、「日常」というもの、「遊び」というものが、現実を取り戻すために必要なものなんだろうな、と感じるわけです。

 まず、「遊び方」を取り戻す。
 遊ぶことを、思い出したり、覚えたり、発展させたり共有したりする。
 それを、遊びをテーマに持った作品で視聴体験していく。

 エンターテインメントがそういう装置として機能することも、当然といえば当然かもしれません。
 娯楽なんていうのは、つまりは「遊び」ということなわけですから。

 「遊び」ということに特化した作品として、新房昭之監督の「ぱにぽにだっしゅ!」なんかは非常に突出していたと思いますが、「らき☆すた」は「遊び」と同時に「日常」をもっとテーマとして押し出して今の視聴者に必要なものを提示してきているように感じます。

 自分が自分という視聴者のまま、日常の中で作品と遊ぶ。

 結局はそれは、娯楽そのもの、ということなのかもしれませんね。
 作品との遊び方は人それぞれで自由。
 声優さん達がアドリブを入れて遊んでいるように、見ているこちらも、様々な形で遊んで楽しむべきなのでしょう。
 そのことによって得るものは、「娯楽を楽しむ日常の現実」というものなのかもしれませんね。

 つまりは。
 こうやって小難しいようなごたくを並べている僕も、ただ好き勝手に遊んでいるというわけです。
 「評論ごっこ」みたいな感じで、ね。

 読んで下さっている方も、「またこんなテキトウなこと言ってるよ」とか思って楽しんでくれてたら、僕にとっては一緒に遊んでいる感じがして、嬉しかったりするのです。

 と、いったところで、長文を終わります。
 また、次回の感想でも読んで下さる方と一緒に遊びたいものでございます。
 ではでは、またです!

 参照:「映像言語」と「漫画言語」の具体的な違いの例。
    : 「なぜアニメの感想を書くのか。どういったスタンスで書くのか。」
    :「物語り人(ものがたりびと)」であること。…学習機会レポート2
    :「物語作りの基礎。普遍的土台と誇張表現の調和により生まれる適度な感情移入…学習機会レポート」

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コメント

非常に共感を覚えたのでコメントさせていただきます。

このアニメの製作者が意図し、私が「メタ 」であると感じた部分は
製作者側の、この時代のコンテンツ提供者に求められている
「良心 」の表れではないかなと感じます。

より良いものを求める消費者性向は人間の欲望そのものであり
とどまるところが無くなっていく。
そういった思考・嗜好の推移を意識して享受している人間であれば良いですが、若い子や気が付くことをしない人はそれに曝され続けます。

社会の発展において、現実逃避の方法を数多く手に入れたと同時に
現実の酷さ(特に人間そのもの)を直視する機会も増えている。
本当に漫画や小説で身を引くような日常があると知る。

少し飛躍しますが、結果的に自分が何かを作る側である(になれる)ということ、本当の意味での「主体性」の弱化、本当に大切なものを取り入れた上での「リテラシー能力」を得る事が難しくなってしまっている。

だんちさんもおっしゃられている「日常のままに遊ぶ」事の楽しさというものを、特にこういった考えが必要なそうに受け入れられやすい記号
を使って、提供しているんだろうと思います。
「アニメは確かにすごい。けれどアニメはどこにあるのか考えて欲しい」といった具合の悲鳴のような良心と、作る側の探究心がミックスされている。非常に丁寧な作りではないかと思います。
(電脳コイルや、トトロ、最近ですとハルヒ等に見られるノスタルジックな面は良い例だと思います )

私もとりとめがなくなってまいりましたがお暇させていただきます。

投稿: ふらふら | 2007年6月25日 (月) 19:18

ふらふらさん、こんにちは。初めまして!
長文記事を読んで下さって、コメントをありがとうございます^^
「共感を覚え」て下さったとのこと、大変嬉しいです!

僕の方でも、ふらふらさんが書いてくださったことに共感を持ちながら読ませていただきました^^
製作者の「良心」というのは、やはりあるように感じますよね。
感じ方は見る人によっていろいろでしょうけども。「志」であったり「優しさ」であったり、「やる気」であったり。
やはり、万単位の不特定多数の人の心に何かを届けていく、というのやりがいがあることだけど、同時に怖いことですよね。
ふらふらさんも仰っている「人間の欲望そのもの」にダイレクトにアクセスすることができますから。

そこで、

>少し飛躍しますが、結果的に自分が何かを作る側である(になれる)ということ、本当の意味での「主体性」の弱化、本当に大切なものを取り入れた上での「リテラシー能力」を得る事が難しくなってしまっている。

というところ。飛躍なんて全然していないと思います。というのも、僕は記事中、えらく長くなるから、と思って仰っていただいたようなところは削ったんです。
それは、「教えられすぎ」ということです。スポーツなんかでは「オーバーコーチング」と言われる現象で、価値観を教えられすぎることで、「言われたことしかできなくなる」、まさに「主体性の」の弱化ということですよね。
その辺りが戦後のこの国の成り立ちの中から出てきている部分なんだろうな、と感じます。

「勉強しろ」「競争しろ」「勝て」「こうじゃないとダメだ」と教えられ、「遊び」を否定されてしまう。
自分から「遊んで」体験的に様々な価値観を身に付けていくことが、奪われてしまっていく状況が、ずっとあったように感じるんですね。
僕なんかの世代のちょっと後…いや、僕らの世代がもうそうだったかもしれませんが、「指示待ち世代」とか「マニュアル世代」とか、そういう言葉が出てきて。それはそういう世代を揶揄する言葉なわけですが、でも、指示が無いと動けない、マニュアルが無いと何もできないようにした「原因」があることなんですよね。
で、今はもうその結果が色濃く出てきてしまっているからこそ、「遊ぶ」ことを様々な形で取り戻さないといけない、と感じて、それを発信する人が様々なところで出てきているんだと思います。

知り合いのお子さんが通っているサッカースクールでは、遊び中心のメニューが組まれたりしていて、子供達はサッカーやっているのにサッカーのルールを知らなかったりするそうですが、そういう思い切った教え方は、今は適切だと感じます。

そして、そういった適切さを「らき☆すた」に感じるわけですが、それは、ふらふらさんが仰っているような

>悲鳴のような良心と、作る側の探究心

があってこそですよね。
それこそ、マニュアル通りだったり、指示を待って作ったりではこういった作品になるわけがありませんし。
それを受けて、我々も存分に「遊び」たいものですね。作品自体が「遊び」を仕掛けてくることで、「正解の見方」が無いものですから、自分で主体的に楽しみ方を見つけていかなければなりませんもんね。
僕は、こんな感じで楽しんでおりますが、よろしければこれからも一緒に楽しんでいきたいなぁと思っております^^
今後とも、よろしくお願いいたします!

「電脳コイル」も楽しいですよね!本編前に紹介される子供が描いた投稿イラストが上手くって毎回驚いております。同時に、楽しく見ているんだなぁと思って嬉しくなります。「楽しい」だから「絵を描いて送る」という主体性が、どんどん伸びていくといいですよね。

ではでは、またです!^^

投稿: だんち | 2007年6月28日 (木) 12:46

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