「らき☆すた」第13話を見た。
おはようございます、だんちです。TVKにて「らき☆すた」第13話を見ましたので、感想を書きたいと思います。
エンディングの印象に全て持って行かれた!!
と、思うくらい。
ナイスエンディングでした。
いや、すげぇ!白石氏は歌上手いですね!!なんつぅか、「SAKUSAKU」みたいな、地方テレビノリでいいっすね。こういうお遊びはすごく楽しい。
これは、いよいよ白石稔氏がアイドルとして覚醒する時が来たかもしれませんな!
ブログでもやってもらって、鼻歌からオリジナルソングを作ってもらって、CD出してオリコンにランクインしてカラオケに配信される感じでやって欲しいっすね!
さてさて。
今回、感想を書くのがかなり遅れてしまったのですが。
個人的な忙しさやら気持ちの余裕の無さなどが大きな原因なのですが、それだけでなく、この第13話を見て、特に言葉が出てこなかった、ということもあります。
楽しく見て、笑って、見終わって。
特に、これといって言葉が出て来ない。
今までは、キーワードになる言葉がいろいろ頭をかすめたりしたんですけれども。「漫画言語」とか「風俗」とか「現実に戻す」、「変化と不変」、「日常と遊び」などなど。
でも、今回は感想を書くとっかかりになるキーワードが何も浮かばず、なので無理やり書くこともできず、間を空けていた、というところがあります。
で、昨日くらいになって少し頭の中に余裕というか考える時間ができたので、ちょっと考えてみました。
なんで、何も言葉が浮かばないんだろう。
でも、ここまで感想書いてきたし、感想書きたいもんなぁ。
今のこの状態って何なんだろう?と思考していって。
そこでやっと出てきたキーワードが「空っぽ」というものでした。
言葉が全然出て来ない。頭の中が「空っぽ」な状態に、僕はなっていて。
でも、それは悪いことではないし、決してつまらなかったというわけではなく。
ただ何も言葉が見つからない状態。
自分のその状態に思い至った時に、「空っぽ」というキーワードが出てきたわけですね。
作品の中では1月、2月で。確実な時間変化が描写されつつ、彼女達の様子はいつも通りで変わらず。
可愛らしく、ちょっと毒があり、ネタやお遊び、アニメ店長やゲスト達も面白く。「らっきー☆ちゃんねる」の二人の掛け合いもより練り上がって気持ち良く。次回予告でも爆笑し。
それは、この13話まできて「定番」として受け取ることができるものになってきたのかもしれない、と感じます。
自分の中で「らき☆すた」が完全に日常のワンシーンになり定着した、といいますか。
日常の中で、食事をしたり歯を磨いたり、仕事をしたり読書したり遊んだり。
そういうことにいちいち特別な感想を持つことは無いわけですが。
それと同じように、「食事したり仕事したり『らき☆すた』見たり」という感じで、日常の中でいつものように当たり前に受け取ってその時間を過ごす。
僕にとって「らき☆すた」がそういう作品になっているのだ、と改めて感じました。
というか。
そういう予感は序盤の頃からあって。
最初に「漫画言語」について書いた時点で、「この作品の感想はこれで終わりで、後は毎週漫画を楽しく見るっていうことになっていくだろうな」と思っていたんですね。
なので、ここまでべらべらと語るようなことになるとは、思ってもいませんでした。
その意味では、やっと予感していた本来の見方に、僕自身がたどり着いた、ということなのかもしれません。
でも、それはそれとして、結局また語っているわけですが。
「空っぽ」というキーワードを見つけたことで、それを文字通り「鍵」にして何か導き出せるかな、と思い、思考実験じゃないですけど、タイプしながらこうやって書いてみて、自分なりの「遊び」をしているんですね。
そうそう。
「らき☆すた」が僕にとって日常の定番化しているということでいうと。
この定番を失うことも含めて、日常、ということなんだろうな、と感じています。
始まったものは終わるわけですから、終わりがあることが前提での定番であり、日常である、ということですね。
日常の生活の一つ一つに特別な感慨を持たなくとも、それを失った時には大きな喪失感を覚える。「らき☆すた」を失う時もまた、心にぽっかりと穴が開くことでしょう。
でも、この定番化した楽しみは、失ってこそ完成するんだろうな、という予感もまたあります。
「遊び」は終わりがあるから「遊び」になると思うんですね。
「また明日!」とそれまで遊んでいた友達と名残を惜しんで別れていく寂しさがあるからこそ、「遊び」を渇望するし、その楽しさに集中できる。
今回僕は、日常の1ページとして、いつものように当たり前のように、普通に「らき☆すた」を楽しみました。
終わることが無いように錯覚してしまうくらい、この作品があることが当たり前であるように。
そういう、自分のある意味油断した受け取り方に気づいてみると、改めて怖いですね。
何が怖いって、こうやって定番化したものを失う時が、です。
日常ものと遊び、ということをこちらに毎週毎週提示してくることで、少なくとも僕に関しては、まんまとこの作品が日常化してしまいました。
この日常が失われることが前提なのに。
やられた。
やられちまいましたね。
「空っぽ」というキーワードから別の方向にも持っていくと。
今回視聴する状況は、僕にとっては頭の中も体もバタバタした状態だったのですが、それでも「空っぽ」になれた、というのは、とてもポジティブな現象なんではないかな、と感じます。
「らき☆すた」を見るという日常の遊びが、僕にとって、自分の心身(主に心ですが)をリセットする機能を果たしている、ということかもしれません。
それは、感情移入しながら見たり、何かを考えさせられたりする作品では難しいのかもしれませんね。
そこは、情報量ということもありますし、最初に感じた「漫画言語」の効用というところもあるのでしょうね。モブや背景ががっちり書き込まれたり、動きが大きく激しかったりするように、映像としての情報量が多くなってしまうと、その作品世界の存在感が強力になって、感情移入や追体験性のある現実逃避遊戯というものになっていくのだと思います。それは、視聴する側に疑似体験を積み重ねさせてくれるもの、ということですね。
「らき☆すた」の志向はそっちではなく、「リセット」という方にあるように感じます。
全体の情報量を減らし、空白感を出し、日常を描き、遊び、笑わせ、それらを定番化することで、見ているこちらの心を空っぽにしてくれる、そういうリセット機能があるのかもしれません。
…「リセット」。結局また、別のキーワードにたどり着いてしまった…。
そろそろ終わろうと思っていたのに…。
「リセット」に関しては、また次回以降に考えてみようと思いますが、考えてみれば、ここまでの感想でも何度も「リセット」の機能について書いていたようなものなんですよね。
夢を見ている状態から現実に戻す、という観点でのことではありましたが。
頭の中が空っぽになるリセット。
これは、夢見ている状態からの復帰とは違うものなのか、同じようなものなのか。
リセットしなければいけない状態とは、どういったものなのか。
リセットがもたらすポジティブな現象はどのようなものなのか。
いろいろと考えるのが楽しそうなテーマですね。
なんてことを言いつつも。
次回も見たら見たで、さくっと頭の中が空っぽになって、何も言葉が出なかったりするかもしれないんですけどね。
でも、それもそれで、楽しいことだろうな、と思います。
あと三ヶ月で失われるこの定番化した遊び。
いつものように、日常の中で、たっぷり楽しんでいきたいものでございます。
ではでは、またです!
参照:「映像言語」と「漫画言語」の具体的な違いの例。
: 「なぜアニメの感想を書くのか。どういったスタンスで書くのか。」
:「物語り人(ものがたりびと)」であること。…学習機会レポート2
:「物語作りの基礎。普遍的土台と誇張表現の調和により生まれる適度な感情移入…学習機会レポート」
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