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2007年7月17日 (火)

「らき☆すた」第14話を見た。

 こんばんは、だんちです。TVKにて「らき☆すた」第14話を見ましたので、感想を書きたいと思います。

 前回の感想で、「生活の中で番組が定番化してきたことで、見ていて頭がポジティブにリセットされる」ということを書いたわけですが、その作用からするならば、正直もう感想として書くことはほとんど無く。ただ「定番」をいつものように楽しんで、頭の中を空っぽにして、また次の一週間を過ごすだけ、ということになります。
 実際、そういう感じで見てからのここ数日間を過ごしてきたように思います。

 リセットが、どうポジティブな作用をもたらすのか、とか。リセットが必要な状況とは何なのか、とかいろいろ見てから考えようかな、とも思ったのですが、考えてから書くのではなく、書きながら考える人間なので、あまり後先考えず、とりあえず何か書いてみようと思います。

 まず、印象をいくつか。
 新学年を前に、新キャラ登場ですね!
 ゆたかちゃんとみなみちゃん。
 やーね、中学の制服ちょー可愛い!!

 さて、とても可愛いゆーちゃんですが。
 彼女の登場で、感じたことがあって。
 絵的にはすごく可愛く、ロリで小さく萌えな感じもあるゆーちゃんだけれども、長谷川静香さんの声と演技がつくと、ちょっと「うざい」感じになるところが、なるほどな、と感じました。

 本人が「人を好きになったり好かれたりなんてない」と凹みながら言うように、見ていると確かにそうだろう、と思えるんですね。
 そして、これは演技プランなんだろうな、と感じます。
 可愛い女の子なんだけど、それは漫画、アニメ的な相対としての画があってのもので、本人は自分に自信が無かったり、可愛さを自覚していなかったり、マイナスを強く持っていることにコンプレックスを持っていたり。
 でも、普通そういうもんだろうな、と思ったりするんですね。

 可愛さなんてのは、人が評価するもので、自分でどうにかなるものじゃない。
 だからこそ、こなたが言う「相手を選ばなければ充分需要がある」って話になるわけですね。

 そこを改めて感じてみると。
 これまでのレギュラーにしても、「どう?あたし可愛いでしょ?」という萌え的演技プランでキャラクターを組み立てていないんですよね。
 むしろ、表面的な可愛さを排除するようなプランがあるように感じます。
 一人一人の女の子にマイナス要素やコンプレックスなどがあり、そこを強調するように見せてくる。
 そういったところが、「素の女の子を見ている」感覚を持たせてもらえる部分なんでしょうし、また同時に「だからこそ可愛い」と思えるところなんでしょう。
 それは、そもそもの原作者が女性だったり、シリーズ構成も女性で、脚本や演出に女性が入ることが多いことによって可能になっているところなのかもしれませんね。

 そして、もう一つ印象的だったのは、キャラクターが増えたことで、視点の切り替えが増えたことです。
 こなた視点、ゆたか視点、そうじろう視点、かがみ視点、みゆき視点、つかさ視点…。
 それらの視点がパッパッと切り替わる。
 まったりアニメといいつつ、実はものすごく忙しい視点切り替えがあって、目まぐるしさがあります。
 これは、通常の主人公を置いて物語を進める作品ではありえないし、タブーでもありますよね。

 視点がコロコロ切り替わるのは、視聴する側の感情移入を前提にしていないからこそ、ということに、やはりなるのだと思います。
 視聴者はあくまでも、客観的な視点しか与えられない。
 やはり、そういう作品なんだな、と改めて感じます。

 で。
 感情移入するための、ある程度固定した視点を与えられるのではなく、コロコロと忙しく切り替わる視点を客観的な立場で30分間見ていると、それによって頭が空っぽになってリセットされるのかな、という機能的なことについても思ってみました。
 それは、電車の車窓から外を眺めていて、変わっていく風景をぼんやり眺めているような、そんな感覚に似ているかな、と感じます。

 そう思ってみると、精緻というよりはある程度情報量を飛ばした状態の背景美術の色彩の見事さなんかも、毎回見惚れていることを改めて思い出します。
 可愛く安定して描かれているキャラクター。綺麗で色彩豊かな背景。
 心地良いBGM、効果音。
 なるほど。それは環境アニメといえるものなのかもしれません。
 僕は自宅仕事なので、仕事しながら録画した「らき☆すた」をずっと流していることがありますが、それでこっちの集中力やイメージが阻害されることが無いんですよね。

 そして。
 この作品は、「遊ぶ」ことを求めてくる。

 感情移入をさせず、可愛くも欠点を持った女の子達と。
 頭の中を空っぽにしながら。

 やはり、遊ぶということの機能は、遊んでいる時はその意味や意義について考えるものではないのでしょうね。
 どうしたって、頭は空っぽのままでございます。
 「とりあえず、エロいかがみでも描こう」という思考しか浮かんでこない。

 遊んで、笑って、楽しんで。
 何も考えないで。

 そうやって遊んでいて、気がつくと。

 夕暮れになっていたりするんですよね。

 夕暮れが過ぎて、遊び終わった時。
 この遊びの意味が、遊んだ人達それぞれに噛み締められるのかもしれませんね。

 少なくとも今思うのは。
 「遊び」はコミュニケートなくして成り立たないだろうな、ということでしょうか。
 作中の彼女達がずっと会話をしているように、遊びは会話やコミュニケートが中心になるものですよね。
 「遊ぶことを取り戻す」ということを以前の感想で書いたわけですが、それは「コミュニケートすることで遊べる」ということを思い出したり再認識したり、または改めて覚えたり、ということなのかもしれません。

 さて。では作品とどうコミュニケートしていくのか。
 僕にとっては、やっぱりこうやって感想を書くことがそうなのかな。
 あとは、かがみのエロい絵を描くことか…。
 ならば描くしかないでしょー。
 というか、頭の中を空っぽにして楽しく見るっていう、結局はそれなのかな。

 あ、でもそうか。
 ハルヒ二期が決まった今、やはり以前書いたような「ハルヒ二期を前提にしている」ということでの「遊び」という見方がいよいよできるのでしょうね。
 「テレビアニメ」という「風俗」が成し遂げる、一時の現実逃避を遊びとして再認識させる働き。
 アニメを見て、「あー見た楽しんだ」と思ってリフレッシュして現実に戻ること。
 それは、どうも僕にとっては充分機能しているように感じます。
 そうなってくると、やはりもう、語りつくしている感じはしますね。

 いよいよ語ることが無くなってくるかも…って、あれ!?もうこんなに書いてる…。
 結局、口数多いのはいつものことですな。

 次回以降、「夕暮れがもたらす遊びの終わりの予感」という観点での感想になっていきそうかな、と自分では思っております。
 頭の中を空っぽにして、その状態を楽しんで。
 その上で、またあれこれ語れたらいいなぁと思っております。

 そんなわけで、まとまりませんが14話の感想を終わります。
 またです!

 参照:「映像言語」と「漫画言語」の具体的な違いの例。
    : 「なぜアニメの感想を書くのか。どういったスタンスで書くのか。」
    :「物語り人(ものがたりびと)」であること。…学習機会レポート2
    :「物語作りの基礎。普遍的土台と誇張表現の調和により生まれる適度な感情移入…学習機会レポート」

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