「らき☆すた」第15話を見た。
こんばんは、だんちです。TVKにて「らき☆すた」第15話を見ましたので、感想を書きたいと思います。
前回の感想で、今後は「夕暮れがもたらす遊びの終わりの予感」という観点での感想になっていくかも、と書いたのですが、例によって違う話になりそうかも。
何はともあれ、後先考えずに感想を書いてみたいと思います。
今回、印象的だったのは、すごく個人的なことで。
一回、自分独りでリアルタイムに見て、その時は寝ていた配偶者と一緒に後で二人でビデオで見たんですね。
僕は一回見ているから、あまり大きな反応をすることなく、ニヤニヤしつつ楽しんでいたのですが、配偶者はクスクス笑って反応するわけです。
それが、なんだかとても楽しいんですね。
物語を楽しむのではなく、「遊び」そのものの作品を、遊ぶことそのままにリラックスして見る。
それは、一人で見るだけでなく、二人で見ると更に遊びとして機能して、より楽しいんだな、と感じました。
で。
そういったことは、見ているこっちだけでなく、作中の彼女達も一緒なんだな、と見ていて思ったんですね。
「涼宮ハルヒの激奏」に、あの四人みんなで見にいって楽しむ。
一番楽しかったのはこなたなのかもしれないけど、四人一緒に見に行って共有した時間の楽しさに優劣をつけることはできないでしょう。
そういえば、コミケの時も柊姉妹を連れて行っていたし。
あの時こなたが言っていた
「独りじゃつまんないんだもん」
という言葉に、「遊び」の真実があると言えるのかもしれませんね。
花見に連れ出したのはかがみですかね。夏祭りもみんなで楽しんで、春休みには高良家訪問も実現したのかな。
みんなで遊ぶ。
そして楽しむ。
そういう姿を見せてくれているんだな、ということを改めて感じました。
連続ものとして見てきていて感じるのは、彼女達の遊びの共有は、少しずつ発展していっているのではないかな、ということです。
海水浴や夏祭り、花見なんかは普通に友達同士でも行くかもしれませんが、基本、こなただけが興味を持っているオタク的な遊びに他の四人も乗って一緒に遊ぶようになっているところに、それを感じます。
それに興味があるとかどうとかではなく、一緒に過ごすことにまず意味がある、といいますか。その上で一緒に楽しむ。
そして、そうなっていくことには、四人の仲が発展してきていることと同時に、「こうして皆さんと一緒に過ごすのもあと一年」みゆきが言うように、学校生活が終わりを迎えつつあるということも、関係しているのでしょうね。
高校時代が終わりつつある、という「夕暮れ」の到来が、遊びの終わりを予感させてくるわけですね。
それは、とても切ない思いにもさせられるものなんだけど、でも、ゆたかとみなみのように、これから「遊び」始め、発展させていく関係も生まれていくわけですね。
終わりは確実に近づくけど、始まりもある。
あと、それだけでなく。
柊家が家族全員でテレビを見て楽しんでいたり、泉家で娘と父親とで楽しく会話をしていたり。
家族でも遊ぶし楽しむ、そんな姿を見せてくれるわけですね。
家では家族と楽しい一時を過ごし、外では友達と楽しく遊ぶ。
それは、当たり前の姿なのかもしれないけど、もしかすると、多くの人にとって、「夢の世界」の話なのかもしれない。
そんな「当たり前」を手にしている人は、もしかすると「らっきー」なのかもしれない。
「遊び」を楽しむ、その環境や関係。
それは、失われたり獲得し損なったり、様々な形で多くの人が得られていない「らっきー」なのかもしれませんね。
でも、その「らっきー」を手に入れるヒントも、あるのでしょう。
それは、夢世界風俗から持ち帰る手土産、折り詰め。
「優しさ」だったり「人の話を聞くこと」だったり、「コミュニケーション」だったり、「距離を厭わず駆けつけること」だったり。
結局、それもまた「当たり前」のことなのかもしれません。
「らっきー」は、決して得するようなことではなく、「当たり前」の中にしかない「当たり前のもの」なのかもしれませんね。
だから。
僕達は。
遊ばないと、いけないのでしょう。
友達と、家族と。
当たり前のように。
多くの人と一緒に、「当たり前のらっきー」に気づいてこの作品を楽しんでいけたら、本当に「らっきー」なことだよな、と思いつつ。
今回はこんな感じで終わりたいと思います。
ではでは、またです!
参照:「映像言語」と「漫画言語」の具体的な違いの例。
: 「なぜアニメの感想を書くのか。どういったスタンスで書くのか。」
:「物語り人(ものがたりびと)」であること。…学習機会レポート2
:「物語作りの基礎。普遍的土台と誇張表現の調和により生まれる適度な感情移入…学習機会レポート」
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