« 「掲示板」のサービスが終了するそうです。 | トップページ | 「らき☆すた」第17話を見た。 »

2007年7月28日 (土)

「らき☆すた」第16話を見た。

 こんにちは、だんちです。TVKにて「らき☆すた」第16話を見ましたので、感想を書きたいと思います。

 今回も楽しく視聴しました。あの「長門店員」の可愛さはなんだっ!!!!丸い…まんまるだ!!活き活きとバイトしてるこなたがまた可愛くって。客の痛々しさもひっくるめて、自分達の世界で心置きなく楽しんでいる様子は清々しさもあり、見ていて様々な気持ちを喚起させられました。
 エンディングの演歌も相当予想外で、びっくりしつつ、いやすげぇな、なるほど、こんな方向もアリか!と、映像と歌唱を堪能させていただきました。

 さて。
 「導線の無い物語の見せ方」をしてくるところで、演劇的だとも感じられるこの作品。
 僕は、このシリーズの序盤は「いきなり始める」見せ方をして、少し進んで「解きほぐし」てキャラクターや世界観を分からせてくれて、そこから「積み重ね期」を経て、エピソードを積み重ねていく、そういう舞台演劇的な構成になっているように感じています。
 では、後半はどうなっていくのか、というと「畳み掛け」が始まり、積み重なってきた様々なものが「結実」する。そんな感じになっていくのかもしれません。
 そういった観点からすると、今は「畳み掛け」の時期に来ているように感じられます。

 じゃあ、何を畳み掛けてきているのか。

 手短に、印象をざざっと、あんまり考えをきちんと組み立てるのではなく、えいやっと、書いてみようと思います(いつもこれで長くなる)。

 今回見ていて、ここまできてやっと思ったことだったのですが。
 アニメ店長と店員って、要はあれ、制作サイドの代理的立場なんでしょうね。
 今回、アニメ店長と杉田店員が一生懸命客のこなたに対してコミュニケートしようとしていたところと、それがいつものように上手くいかなかったところとを見て、「あ!そうだったか!」とやっと気が付きました。
 なんとかして、自分達のお勧め商品を買ってもらおうとこなたの周りをうろちょろして、コミュニケートしようとするんだけど、毎回毎回上手くいかない。
 客であるこなたは自分の好きなように店を回り、好きなように去っていく。
 本当は、こういう商品を見て欲しい、買って欲しい、とお店側は熱く熱く情熱を傾けているんだけど、その情熱が全然上手く伝わっていかないし、その伝え方がまたちょっと独りよがりになってて上手く伝わらない。

 「らき☆すた」はほぼ会話劇のコミュニケーションドラマだと僕は思っているのですが、アニメメディア関連商品を売っている側と買う側との会話だけは、この作品の中ではっきりぶっつり断絶してるんですね。

 そうやって見てみると、こなたがバイトしているコスプレ喫茶とその客の、あの楽しくもどこか痛々しさを思わせる様子は、果たしてコミュニケートが成立しているのかどうなのか。
 つかさの写真を撮っていたオタクの様子が描かれたりもしたわけですが、あれは「コミュニケート」ではないですよね。
 こなたが言っていたような「仕様」に乗っかることと、売り手と買い手とでコミュニケートすることは、違うものでしょう。長門店員とキョン客の間には、会話が成立しているようでいて、実はお互いの一方通行と見ることができるのかもしれない。
 こなた達のショータイムを見て拍手喝采を送っていた客達は、果たして誰を見ていたのか。こなた達を見ていたのか、それとも扮装を施された仕様としての「自分が見たいもの」だけを見ていたのか。
 こなたの充実の汗と表情は、オーディエンスに何かが伝わった充実感なのか、自分がなりきってやりきったことに対する充実感なのか。

 こなた達と客の間に、コミュニケートは成立していたのか。

 正直、成立しているようには、僕には見えませんでした。
 だから、非常に痛々しく感じられる。
 痛々しさと同時に、「そこは安全地帯だな」ということも感じる。
 コミュニケートではなく、一方通行同士だから。

 つかさやみゆきにとってはクラスメートがバイトで頑張っている姿を見ることだから、こなたとのコミュニケートが成り立っていることで、嬉しそうに手拍子をして楽しめるショーだったでしょうけども。
 かがみは、コミュニケート不全のステージに違和感を感じた様子。
 でも、こなたとパティがダンスの成功を喜び合っている様子を見て、ちょっとホっとするというか、微笑ましさを感じた表情をするわけですね。
 こなたとパティとの間には、確実にコミュニケートがある、という様子が感じられたから、なのでしょう。

 表現としては。
 「激奏」を見て感動を味わったこなたが、バイト先の小さなステージで、彼女なりの「『ライブアライブ』的な、何かしている充実感」を得た、という描写なのでしょうし、その意味ではかがみはキョン的立ち位置で微笑んだ、ということなのでしょうけど(やっぱり百合でございますなっ!)。
 でも、「仕様」で盛り上がるのと、ステージと客席がコミュニケートするのとは、違うものでしょう。
 だから、こなたとパティの様子には微笑ましさを感じても、こなた達とそこに来ている客達との、ある種断絶した様子には、痛々しさが感じられるんだろうな、と思います。

 そこは、安全地帯。
 自分の意思を伝え、相手の意思を汲み取る、コミュニケートからは離れた場所。

 その楽しみ方を否定することは、できるのかもしれません。
 でも、否定も肯定も、安易なことなのかもしれない、と見ていてそう思いました。
 安全地帯は必要があって生まれるものなのでしょうし、その場を守るために、汗だくになって踊る人の存在もまた、尊いものにも思えます。
 それは、「深夜アニメーションという名の風俗」というもののあり方と、重なってくるものなのかもしれませんね。

 夢世界で、安全に、何も損なわれず、いられる。

 年齢や性別、職業やその時抱えている状況。そういったものから離れて、子供のように、その場でただ受け入れられて、安全に過ごせる。
 それは、いいとか悪いとかではなく、「必要」なことなのかもしれない。
 そんな風に、思います。

 ただ。だけど。
 アニメ店長達が、制作者達の代理的立場だとするならば。
 そういう、「仕様の安全地帯」でホっとしている客に対して、モノを作る側は何かを必死に訴えかけようとしている、そういうこともあるのかもしれない。
 売る側と買う側とで、あるいは作り手と受け手とで、もっとコミュニケートしようよ!という。
 だけど、その方法が分からない。見つからない。上手くいかない。

 そうか。
 やっぱり、そうなんだ。

 と、見ていて感じました。
 「遊ぶ」ことをテーマにメディアミックス展開をしていても、商品を買う以外のどんな遊びができるのか。
 そこをずっと考えていたんだけど、こうやって感想書いたりして、ネット上で作品を横からちらっと賑やかすくらいのことしか、僕には思いつかないでいました。
 でも、それは作り手も一緒だったのかもしれないですね。

 「遊ぼうぜ!」と言ってみた。
 だけど、どうしたら遊べるのか。どうしたら視聴者とコミュニケートできるのか。
 そこが、見えてこない。

 それが、アニメ店長達の様子に見て取ることができるのかもしれません。

 それは、「遊び」というテーマに限ったことではなく。
 これを買って欲しい。これを見て欲しい。これで感動して欲しい。これで笑って欲しい。これでちょっとハッピーな気持ちになって欲しい。
 そういう希望があって、それをずっと伝えようとしているんだけど、上手く伝わらない。
 そういうことでもあるんだろうな、と感じます。

 「売る側」と「買う側」という仕様、安全地帯から出て、何かを伝えたい、「お客様の満足のために話しかけたい」
 でも、その方法が分からない、もしくは独りよがりになってしまって上手くいかない。

 それを、作品の「作り手」と「視聴者」に当てはめてみると、「私見る人あなた作る人」という仕様、安全地帯から出て、「こういう作品を見て欲しいんだ!」「この作品を楽しんで欲しいんだ!」「俺達の仕事で満足して欲しいんだ!」というアピールを、制作者側は一生懸命している、そういう自覚がある、ということに見れるのかもしれません。
 そして、それが滑稽なくらい独りよがりになってしまって伝わらない。
 そういう自覚もまた、あるのかもしれない。

 コミュニケーションドラマで畳み掛けられるコミュニケーションズギャップ(communications gap)。

 でも、そこに批判性があるか、というと。そういうものは感じられません。
 逆に安全地帯に対する積極的な肯定も感じない。
 若干の皮肉っぽさ、あるいは自虐性だったりは感じるけれども、決定的な主張が見えてくるか、というと、今のところそういう風には見えてはきません。

 ただ、畳み掛ける。

 それが、ここ最近連続している実写エンディングにも表れているように感じます。
 アニメを視聴する者にとって、「実写」は夢から強制的に覚まされるもので、基本、「余計なもの」だと思います。「アニメ見てる時くらいはアニメを見せてくれよ」という、そういうある種白けてしまうところがあると思うんですね。
 だけど、それをやる。
 何度もやる。
 畳み掛ける。

 アニメーションを見る人間にとって「中の人」は中にいるから中の人であって、リスペクトはあっても、別に中の人そのものを見たいわけではないのだと思います。
 だけど、「僕達が中の人です!」とばかりに出てくる。
 それは、「メディアミックスで遊ぶ」という観点からするならば、ありうることなのでしょうけど、見ている側とのギャップを際立たせるものになっているように思います。

 それこそ、アニメ店長とこなたのように、噛み合わない。

 この畳み掛けがどういう収束を迎えていくのかで、そこにある主張、メッセージが見えてくるのでしょうけど、現時点で僕が感じるのは、「ギャップそのものを浮き彫りにする」ということに意味があるんだろうな、ということです。

 そのギャップに明確に気が付いたのは、僕はこの16話に来てからですが。それが多少遅いのかジャストなのかは分かりませんが、今「畳み掛け期」としてギャップを際立たせる時期に来ているのであれば、今後もっと見えてくるものがあるかもしれませんね。

 コミュニケーションズギャップというものが、あるのであれば。
 制作者がアニメ店長立ち位置で、視聴している僕がこなた立ち位置であるのであれば。
 とりあえず僕は、語りかけてくることに対して、立ち止まって耳を傾けますよ。と、思っております。
 でも、実際立ち止まって耳を傾けたら傾けたで、上手く語ることができなかったりしてね。

 安全地帯からどうやって出たらいいのか。
 出た先には何があるのか。
 結局それがまったく見えない。
 そういうことなのかもしれませんね。
 それは、ますます小劇場の舞台的な、演劇的なテーマにも思えてくるなぁ。

 そういえば、富野監督作品の「キングゲイナー」を思い出しますよ。第1話で動き出したエクソダスで、煌びやかなドームポリスから脱出する人達は、真っ暗で寒い夜のシベリアに飛び出すんですよね。
 自分の足で、自分の意思で、飛び出す先は、真っ暗で寒い、何もないところ。
 安全地帯の外にあるのは、そういうものなのかもしれませんね。
 でも、だからこそ、そこで積み重ねられるコミュニケーションは、かけがえのないものになっていくのかもしれません。

 などと、先走ってみましたが。
 ともかく、僕は最終話まで、じっくり耳を傾けていこうと思います。
 コミュニケーションの基本は、まず相手の話を聞くことでしょうから。

 なんてな決意表明的なものにたどり着いてみたら、どこが手短なんだ、といういつもの有様。
 こんな長文になってしまっても、読んで楽しんでくれている人がいてくれたら嬉しいのですが。これも独りよがりなコミュニケーションズギャップになってしまっていたりして。

 と、オチがついたところで、今回の感想はこの辺で終わりたいと思います。
 毎度長文ですんません。でも、そんな文章をいつも読んで下さってありがとうございます!
 誤字脱字、意味の通らない文脈は改めて読み直して発見次第修正していきます。

 ではでは、またです!

 参照:「映像言語」と「漫画言語」の具体的な違いの例。
    : 「なぜアニメの感想を書くのか。どういったスタンスで書くのか。」
    :「物語り人(ものがたりびと)」であること。…学習機会レポート2
    :「物語作りの基礎。普遍的土台と誇張表現の調和により生まれる適度な感情移入…学習機会レポート」

|

« 「掲示板」のサービスが終了するそうです。 | トップページ | 「らき☆すた」第17話を見た。 »

コメント

ども!お世話になっております、てりぃです。

>「『ライブアライブ』的な、何かしている充実感」を得た、という描写なのでしょうし

「射手座の日」のセリフパロにはみんな気付いているのに何でみんなこっちには気付かないんだ、やっぱ無理してでも自分の記事中に書くべきだったか、と悶絶しまくって数日間を過ごしましたが、さすがだんちさんだ!嬉しくなっていやっほーぃ!とか叫んじゃいましたよ。

断絶とギャップのお話も、興味深く拝見しました。そうなんですよね、華々しい祭りとしての受けの良さと裏腹の部分とか、ここまで来て見切りを付け始めているような人たちの原因となっている部分が、だんちさんの今回触れられている内容に深く関わっている気が私もしています。

ショータイムの客が「自分が見たいもの」だけを見ていたのか云々、なんつー辺りは、自分自身もよく身につまされるところですし、この番組に限らず、多くの人に覚醒して欲しいなぁ、と思っている部分だったりもします。ああ、なんつーか、オブラートに包みすぎて上手くまとまらねぇ(笑)。

「ファン」を自認する以上は、ちょっとやそっとで見切りを付けたりしちゃファンの名折れになるんじゃないかと、わたしゃ常日頃から思っているわけですよ。安い恋愛みたいにひょいひょいくっついたり離れたりするのは本当の合体じゃねぇ!というのとちょっと似ていると言いますか。あ、ヤバそうなので、この辺で去ります(爆)。

次の記事も楽しみに、いい子にして待ってますよ!頑張って下さいね、無理のない程度に!

投稿: てりぃ | 2007年7月28日 (土) 12:32

こんばんは。ミントです。

店長・キョンとこなたの描写で、作り手と視聴者とのギャップ・・
さすが、神懸った感想ですね^^
思い返すと春から夏にかけてこの手のトラブル立て続けに起こってますよね。「天元突破グレンラガン」4話に対するファンからの批判、それに逆ギレし「キモオタども死ね」とmixiに書いた代表取締役が辞任。「ぼくらの」監督のブログで議論が過熱、監督が「僕はこの原作が嫌いだ」とコメント、炎上、更新停止。
今ほとんどのアニメ作品で関連ラジオや製作日記が公開されていますが、こういう試みもおそらくだんちさんが言っているような「遊び」を目的としているのでしょう。なぜそういう場でトラブルが絶えないんでしょうか。グレンラガン4話の場合は作画と脚本がまったく1話~3話から変わってしまったために「物語世界を壊した」とファンが騒いだ。
「ぼくらの」では「原作を改変した」としてファンが騒いだ。
涼宮ハルヒの憂鬱の「世界はおもしろくなってきている。あの世界に俺は戻りたい」というキョンの言おうとするところは「現実にもおもしろいエンターテインメントがある。それで十分だ」という意味だと思います。現実世界にハルヒやらきすたのような作品があって、楽しもうと。
なのにファンはハルヒのファンはハルヒの世界に没入したがる。その作品をネタにチャカしたりすると憤怒する。(「ぼくらの」の監督は「作品で涙を流す場合、感傷か感動か。どちらかである。原作はは感傷(現実に負けてどうしようもないという諦念の物語)。だからぼくはこの作品を感動(現実にむかって立ち上がろうとする作品)に作り変える」と書いていました)。

アニメ系の掲示板を見ても「三次元女は死ね。二次元で十分」とか「アニメに入り込むために働いてる」と、ひたすら虚構世界のための現実、と叫んでます。小説や映画の場合はその作品よりも作家の思想が重要になってくるし、読み手も作品を通して作家とのコミュニケーションを望んでいるように見えます。でもアニメの場合はひたすら作品にのみ入り込み作家が作品をすこしでもずらすとぶち切れる。

それが彼らの作品に対する姿勢だけの問題なら作品によって何とかなるかもしれませんが、彼らの場合はそれが生き方、アイデンティティになっています。事実、彼らが現実でがんばっても「きもちわるい」と言われるだけで何の実りもないかもしれない。どんなにがんばっても幸せにはなれないかもしれない。その場合、どうすれば彼らを現実に戻るように動機付けできるのか・・ふと思いついたのは「三次元への欲求度=二次元への欲求度」という等式なのですが・・(岡田斗司夫の話では萌えオタクでも本当は「現実の女性8:二次元少女2」と言ってましたが本田透などの本を読むと現実が8なら二次元も8、現実が100なら二次元も100と言っているように感じます)。現実への欲求がありそれがかなえられないからアニメに逃避する。それならわかるのですが、オタクが開き直って「現実への欲求捨てる」と言った瞬間、二次元への欲求も枯れるのではないかと思うのです。

メイドカフェに通ってる人の話を聞いたことがあるのですが、簡単に要約するとこんな感じになります。「二次元に没入するために、三次元で恋愛したいという欲求を捨てたら二次元もどうでもよくなった。これはまずいと思って恋愛欲求を取り戻そうとしてもうまくいかない。でもメイドカフェにいくとそこにはかわいいメイドがいて不覚にもときめいてしまう。でもそのメイドにはかっこいい彼氏がいる。家に帰る。ギャルゲーするとかつての萌えを取り戻している。二次元少女の優しさに号泣できる。嫉妬は買ってでも感じろ」と。一応この男は現実へ踏み出してはいるのですがそれもギャルゲーをより楽しむためのツールとしての現実になっている。これもちょっと違うのではないか・・人口の感情ならそのうちそれも飽きるのではないか。本気で現実に踏み出し本気で傷ついてこそアニメを楽しむ事ができるとしたら、そういう風に動機付けできるのではないでしょうか。

グレンラガン11話「シモン手をどけて」は親友の死をきっかけに絶望してた主人公がふたたび現実に踏み出す話ですが(負けるとわかっていても現実にあえて踏み出す)、現実を捨てて虚構にふんぞりかえってるグレンラガンファンも感動したらしく製作者ブログにも絶賛の嵐でした。オタクも本音の部分では現実に帰りたいと望んでいる・・

だとすれば「負けるとわかっていてもあえて本気で現実に向き合え」というメッセージとそれを肉付ける「感動」をトラブル覚悟で訴え続けていけばいいのではないか。というかそれしかないのではないか。

そうやって初めて虚構の中でアニメに没入するよりも現実からアニメを鑑賞したほうが何倍も感動を味わえることを発見する人たちが増えるかもしれない。アニメに依存することとアニメを愛することを区別できて初めてそれをネタにした遊びやコミュニケーションも生まれていくのはないか・・・

と。妄言申し訳ありませんw
またまた長くなってしまいました。歳を取ると説教臭くなるといいますが、20代前半、すでにオッサン化しているようですぐ脳のギアが爆走モードに切り替わってしまします^^;
自分で書いておいて自分は果たしてどうなのかと考えると非常に心痛いのですが・・

p.s.お仕事大変かと思いますが、ガイナックス製作の天元突破グレンラガンは試聴してますか?してないならぜひお勧めします。

投稿: ミント | 2007年7月28日 (土) 21:18

だんちさん、お早うございます。ご無沙汰しております。
そして常連の皆様もお久しぶりです。
涼宮ハルヒが終わってからしばらくはアニメから遠ざかってましたが
久々に面白い作品に出会えたという感じです。第4話から見ています。
さてこれから書くことは、あくまでも今回の放送を見て私が個人的に感じた事なので
異論反論が出て当然だと思っています。

らき☆すたは主役が平野さんということもあって、どうしてもハルヒネタが
出てしまうのはある程度仕方がないのでしょうが、今回の放送分に関しては
「ちょっとやり過ぎでは?」という感じが否めませんでした。
冒頭のこなたのケータイの待ち受けや着メロだけでなく、バイト先のコスプレ喫茶の
シーンなどは、私個人はパロディの域を超えてしまってるような感じがしました。
もちろんあれはこなたのバイト先という設定である事はわかっていますし、
こなたとハルヒが瞬時に入れ替わる平野さんの演技はさすがだったと思います。
ただ、見ている側に居る我々はとても楽しいのですが、原作者である美水かがみさんは
自身の作品をああいう形で扱われることに対してどんな想いでいるのでしょうか。
らき☆すたとハルヒが同じ作者ならば構わないですけど、作者も作品も別でありますし
単に京都アニメーションが双方の作品を手掛けたにすぎないだけなので、
少々やり過ぎとも思える(あくまでも個人的に)パロディは控えるべきではと感じました。

長文失礼しました。

投稿: フレア | 2007年7月29日 (日) 07:20

付け加えますと、
製作者側から「ハルヒネタさえやれば見ている連中は喜ぶだろう」みたいに
舐められているような感じさえしました。
もちろんそのような事はないと思いますが・・・。
私とて決してパロディをやるなと言ってるわけではありません。
それは作品をより楽しくさせるためのスパイスのようなものだと思っています。
あくまでもパロディは、さりげなくちょろっと・・・が一番ですね。

いろいろ否定的なことを書いてしまいましたが、今後も楽しく見たいと思ってます。

投稿: フレア | 2007年7月29日 (日) 07:45

>てりぃさん、こんにちは!いつもお世話になっております^^
コメントをありがとうございます!
お返事が遅くなってしまい申し訳ありません^^;

≫「射手座の日」のセリフパロにはみんな気付いているのに何でみんなこっちには気付かないんだ、

その辺り、見方にもよるんでしょうね。1話完結のコメディとして見ていると、あまり意味を感じない部分でも、連続ものとして見ていくと、ちゃんと前振りがあった上でのシーンとして見れる、という。
本当は、最初この部分書いてなかったんですよ。書きたいテーマが先行してしまっていて。でも書き足したことでてりぃさんに喜んでもらえてよかったです^^

断絶とギャップの話も、読んでいただけて嬉しいです!
作り手は、どうしても受け取り手と直接コミュニケートする機会が少ないですから、「お仕事」に嵌まり込んでしまうことがあるんだと思います。それは、自分のことでもそうなんですが。
でも、それだと、話を作る、世界を作る、キャラクターを作る、ということがすごく困難になっていくんですね。だから、こういう「枠を壊す」ような作品を作らないと、ちょっと深刻な状況になっちゃうような、そういうこともあるんじゃないかなぁと、勝手に憶測しちゃったりしています。

ただ、それは「私見る人あなた作る人」という立ち位置からすると、「自分が見たいもの」とは違ってくることも、やはりあるでしょうね。
だから、あのショータイムのシーンは、複雑なシーンに思えました。

≫この番組に限らず、多くの人に覚醒して欲しいなぁ、と思っている部分だったりもします。

ということでいうと、目を閉じているというか、夢の状態から出ようとしていないというか。
そういう感じが、ありますよね。
でも、仰られているように「身につまされる」ことは僕にもありますし、やはり否定したり肯定したり、つまり「白か黒か」で分けられることでもないんだろうな、とも思うんですね。
「現実で夢を見る」というのが、ある種「グレー」な遊びであるとしたら、この作品はそういう曖昧な「グレー」であることを、目指しているのかもしれませんね。

≫ああ、なんつーか、オブラートに包みすぎて上手くまとまらねぇ(笑)。

あはははは(笑)
是非、オブラート無しのトークがしたいっ!!今度機会を作って、こっそりとやりましょうぜ^^

≫安い恋愛みたいにひょいひょいくっついたり離れたりするのは本当の合体じゃねぇ!というのとちょっと似ていると言いますか。あ、ヤバそうなので、この辺で去ります(爆)。

溜まってますねっ!!!!^^
まぁでも。時には安い恋愛も必要なんですよ。ストレス溜まっていたりすると、我慢が効かなかったりしますし。
だからこそ、こういう作品を何も考えず見て楽しめるといいんでしょうね。

てりぃさんもお忙しいのに、励まして下さってありがとうございます!!
最近、感想書くのが遅くって、すんません^^;
でも、どんなに遅くなってもいつも読んでいただいてTBしていただいて、すごく励みになっています!!
こうして励ましていただいたことを糧にして、これからもてりぃさんと一緒に、楽しく感想書いていきますね!^^

 
>ミントさん、こんにちは!コメントありがとうございます^^
お返事が遅くなってしまいすいません^^;

≫さすが、神懸った感想ですね^^

わーい!ありがとうございます^^
そろそろ書くことなくなるか、と毎回思いつつ、長文を書かせる何かが舞い降りてくるようです。いつも読むの大変だと思いますが、楽しんでいただけたのでしたら嬉しいです!

作り手とファンとの、トラブル、ちょこちょこ起こってますね。

原因は、いろいろあるんでしょうけど、やはり「噛み合っていない」という、そういう問題なんだろうなぁと感じます。
ネットワークでお互いが直接コミュニケートする媒体があったりしても、そこでお互いがどう接していいのか、のところがまだまだ未成熟だったりするのでしょうね。
お互いに、言わんでいいことをぶつけあってしまったり。

そこには「相手の言うことを聞く」という部分が抜け落ちて、「自分の言いたいことだけを言ってしまう」という、コミュニケーションズギャップがあるんだろうな、と感じます。
その、根本的な原因は、「自分の話を誰も聞いてくれない」という切実な虚しさ、ストレスなんではなかろうか、と思ったりもしています。
お返事よりも先に書いてしまいましたが、17話の感想で書いた「傷ついている」という、そういうストレスが、作り手の方にも受け取り手の方にも、ちょっとしたヒステリーを起こさせているのではないかな、と思うんですね。

現実逃避から意識的に帰ろうとせず現実を攻撃する。
創作者であることに高慢な自意識を持って他を見下す防衛本能を働かせる。

両者をそう括ってしまうのは乱暴かもしれませんが、その奥底にあるのは、すごく小っさな、剥き出しの傷つきやすい感受性であるように思います。

≫小説や映画の場合はその作品よりも作家の思想が重要になってくるし、読み手も作品を通して作家とのコミュニケーションを望んでいるように見えます。でもアニメの場合はひたすら作品にのみ入り込み作家が作品をすこしでもずらすとぶち切れる。

アニメーションは、子供の頃から馴染んでいるメディアで、大人が見ても、子供の頃のように自身の夢意識を投影しやすい、そういう機能があるように思います。
「子供意識を活性化することでストレス発散する」というか、そういうリフレッシュあるいはリセット機能ですね。
だから、その機能が行き過ぎて、子供のようにかんしゃくを起こしてしまう、そういうことがあるのかもしれません。

だけど。
現実に子供ではないのに、子供のように不満を爆発させたり、他者を攻撃したり、だだをこねたり道理をわきまえなかったり。
そういったことは、アニメーションを視聴している者に限った話ではなく、多くの人にある現実であるように思います。

以前、サッカー日本代表のオシム監督が選手の戦いぶりを「子供病」と嘆いたことがありました。
社会保険庁で億単位の年金が課長達によって着服されたり不正受給されていたりなんていうのも、「餓鬼の使いじゃねぇんだよ!」って話ですし。他にも警察官の痴漢行為、やっと問題視されるようになってきた飲酒運転、ミートホープ事件などなど。
日本全体が「子供病」なんだと思うんですね。

つまり、非現実への逃避は、そもそも子供の頃から成長していない部分に問題があるのではないか、その「未成熟」は様々な形で「傷ついている」という根本原因があるからなのではないか、という議論になってくるわけですが。
すっかり夜が明けてもう頭が回りません^^;

「いかに現実に戻すのか」の話は、また後日ということで、いったんこのコメントはここまでにさせていただきますね。

あ。「グレンラガン」は物理的精神的に余裕がなく視聴していません。いずれ余裕が出たらDVDを借りるなりして見ようと思っております。
お薦めして下さってありがとうございます。見る時が楽しみです!

 
>フレアさん、こんにちは。お久しぶりです^^
フレアさんは、普段はアニメーションを見られないようですが、「らき☆すた」を楽しんでいらっしゃるようですね。同じ作品を楽しく見ているということを嬉しく思います^^

僕もそんなに多くの作品を見ているわけではありませんが、アンテナ張っていろいろ見てみると、いろいろ楽しめるかもしれません。

個人的なお薦めは「FLAG」です。
ネット配信のアニメーション作品なので、テレビでの放映はありませんが、DVDレンタルなどで見れると思います。骨太の社会派かつドラマチックでたまらないっすよ!良かったら是非^^

「らき☆すた」も、共々に楽しんでいきましょうね^^

投稿: だんち | 2007年8月 4日 (土) 05:20

ミントさん、改めましてこんばんは^^
お返事の続きでございます。

「非現実への逃避に没入してしまう」という未成熟の原因は、成長過程の「傷」によるものではないか、という仮定を前提にして、そこからの「いかに現実に戻すのか」ということを書いてみようかと思います。

何らかの作品を見る時、それは自分の心に投影されるものですから、その受け取り方が「生き方、アイデンティティ」になっていくことは、仰られる通りなのだと思います。
そしてそれは、作品に対することだけに限らず、人との接し方、仕事に対する取り組み方など、様々なところに、「その人自身の生き方」として反映されていることだと感じます。言い方をひっくり返してみれば、「作品の捉え方で、その人の生き方も見えてくる」ということがあるのかもしれません。
作品ではなく、人に対する捉え方になることですが、オタクを「きもちわるい」と評する見方も、その評価の仕方に評価者の価値観、生き方が見えてくることだと思うんですね。そうなると、相対はとても曖昧なものにもなってきますので、詰まるところは、「一人ひとりの現実」というところを見ていかなければならないのだと感じます。
で、

>「三次元への欲求度=二次元への欲求度」という等式

に関しては、「その人自身が投影される」ことで言うと、その通りなのだと思います。
ひっくるめた言い方をするならば、「三次元も二次元も、その人の心にとっては現実そのもの」ということですね。三次元であれ二次元であれ、捉える心は一人の人間の現実の心そのものなわけですから。
そうなると、現実逃避に没入してしまう、ということは三次元からだけ逃避するのではなく、実は二次元からも逃避している、ということになるのかもしれません。
その辺りが、今回の感想で書いた「自分の見たいものだけを見る」ということに表れる姿だとも言えるのかもしれませんね。
「現実からの一時の逃避」としての二次元の機能が、心に与えるリフレッシュメントは「現実に必要なもの」でしょう。
でも、その機能は現実に向かっているからこそ発揮されるのだと感じます。
そこが、具体例として挙げていただいたメイドカフェに通って嫉妬を買ってでもしている方の心の感じ方にも表れている部分なのかもしれません。
その方の現実への向かい方がまだ現実に完全に向いていないという部分はあるのでしょう。直接知っているの方ではないのであまりあれこれ言えませんけれども、僕が思うその方の問題は、「二次に向かうための三次になっている」ことではなく、そうなっている原因が必ずあるはずだ、ということです。
「傷ついているからだ」だという仮定に当てはめるならば、「何かに傷ついている」ということなわけですね。
「人工の感情を相手に心を開く」という現象を、「現実の人間の感情に傷つけられ、心を閉ざしている。けれども心を開いて人とのコミュニケートで涙を流したい」という快復しようとする心のあり方として捉えることは可能だと感じます。

問題はそこから先なわけですが。

ざっくり言ってしまうと、傷から表れている現象に対する対処と、傷そのものに対する対処は異なってくるだろう、と僕は思っています。
そしてまた、深く傷つくことを防止するための対処もまた別のことだと感じます。

そういった観点は、視聴していないので分からないことではありますが、例として挙げていただいた「グレンラガン」の主人公の絶望と再起のドラマにも見ることができるのではないだろうか、とも思うのですが、どうでしょうかね?

アニメやゲーム、漫画で復活のドラマ、再起へのヒントを示すことはできることだと思います。
で。
そこで、

「あなたはどうするのか?」

のところが、次に来るわけですね。
そこからは、一人一人の闘いで。自分自身に向き合っていかなければならないことでしょう。
そしてまた、その闘いをそっと助けてあげることも、エンターテインメントにはできることなのだと思います。

依存してしまう程の傷の痛みを癒すことはできる。
でも、傷そのものを癒すことはできない。

のでは、ないかな、と僕は思います。
成長の過程でコミュニケーションに傷ついてしまったということが、多くの人に起こっていると仮定したらば。
それを癒すのも、コミュニケーションなのではないだろうか。と。

それには、まず相手の言うことをちゃんと聞いてあげること。
自分の思っていることをまっすぐ語ること。

その繰り返しが大事なんだろう、と感じます。
だからこそ。
僕は、このブログで必ず挨拶から記事を始めていたりします。
読んでくれている人に対して、「あなたのことを、僕は意識していますよ」という意思を宣言しようと思って。
だから、いただくコメントに関してもよっぽどおかしな書き込みでない限り、必ずお返事をさせていただいていますし(フリートークにしていたエントリーは別として)。

それも、結局は。
自分の思っていることを聞いてもらえず傷ついてきた経験と、相手の言うことをちゃんと聞かずに傷つけてきた後悔とがあって実行していることなわけですが。
だから、ミントさんが僕とコミュニケートしている実感を持ってくれて、こうやって思っていることを一生懸命書き込んで下さっているのでしたら、本当にとても嬉しかったりするのです。
まぁ、お返事にかこつけて、こちらも思っていることをたっぷり聞いてもらっているわけですが^^

まとまらない上に長い話になりましたが、こういった観点は今後の「らき☆すた」の感想にも入ってくると思うので、また読んでいただけると嬉しいです。
ではでは、またです!

投稿: だんち | 2007年8月 9日 (木) 18:50

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/68871/15899116

この記事へのトラックバック一覧です: 「らき☆すた」第16話を見た。:

» らき☆すた 第16話「リング」 [Old Dancer's BLOG]
 ちょちょちょちょっとぉ!その茶色いのアタシんだから!♪み〜〜そじみさぁぁぁあぁ  ちょw  あきら様ムダにすっぺく高ェ!!素の自分⇔歌手の自分の切り替え具合、その間たるや職人芸的な上手さだし... [続きを読む]

受信: 2007年7月28日 (土) 12:33

» レビュー・評価:らき☆すた/第16話 リング [ANIMA-LIGHT:アニメ・マンガ・ライトノベルのレビュー検索エンジン]
品質評価 15 / 萌え評価 40 / 燃え評価 2 / ギャグ評価 27 / シリアス評価 9 / お色気評価 6 / 総合評価 17レビュー数 412 件 携帯電話を新しくした「泉こなた」。自慢げに「柊かがみ」に話す。「柊かがみ」も携帯を持っているが、携帯電話で話す口調と普段の口調が違う。そういえば「高良みゆき」の母親「高良ゆかり」も、電話口ではものすごく怖そうな様子だったのだが、いったい何が? ... [続きを読む]

受信: 2007年9月21日 (金) 20:39

« 「掲示板」のサービスが終了するそうです。 | トップページ | 「らき☆すた」第17話を見た。 »