「らき☆すた」第18話を見た。
こんにちは、だんちです。TVKにて「らき☆すた」第18話を見ましたので感想を書きたいと思います。夏コミ準備もしつつなので、できるだけ手短に…。
やはり、やつらは丸い。!
そして可愛い!
みさおとか、きゃぴきゃぴ動きやがって。小動物かっつの。
とか思っていたら、エンドロールで作画監督に「多田文男」さんの名前が!
なるほど、道理で今回特に好きなバランスの絵や動きだったわけだと思いました。
僕は、多田さんの絵のニュアンス、動きのニュアンスがすごく好きなんです。
「フルメタル・パニック?ふもっふ」の水着の回、ラグビーの回と、切れ味とニュアンスたっぷりのアニメーションは今でも何度も何度も見直してしまいます。
特に、多田さんの絵では「三白眼かなめ」が大好きなのですが、今回の「三白眼かがみ」もちょー可愛かった!いや、多田さんが描いたかどうかなんて分かんないんですけれども。まぁともかくファン心理発動しまくりなわけです。
そんなわけで、エンドロールを見てから今回の「らき☆すた」も、何度も何度も見直してしまいました。もう絵と動きばっかり見まくってしまった。
しかし、多田さんは本当に細かいところ動かしますよね。でも、「リアル」というのとは違って、もっとけれん味があるように感じます。柔らかい、弾むような動きをつけますよね。
そこを動かすか!というところでニュアンスをつけて。飽きさせないし、キャラクターを活き活きと見せてくれるし。とにかく見ているだけで気持ち良くって楽しいことこの上ありません。
今回、お話の方では派手さがなく。いよいよ終盤の結実に向けてハンドルが切られた感じがしました。
そういった回で、多田さん作監でキャラクターを活き活き動かして、弾むような明るさを動きで見せてくるところがさすがです。
基本、映像作品でも僕は脚本、お話の部分に主に注目するのですが。今回ばかりは絵と動きばっかりを見てしまいました。
でも、それはそれとしつつ。
いやでも、動きの無い日常エピソードで明るく弾むようなキャラクターの動きを見せてきたところに、意味を見出すこともできるでしょう。そういった観点を盛り込むところまではいかないかとは思いますが、ともかくお話の感想を語ろうかと思います。
新キャラとして、ひよりちゃんも登場したし、パティも本格登場。一年生エピソードが一気に増えて、終わりつつあるこなた達の日常は、次の世代へと引き継がれて、確実に時間が動いていることが分かる回でしたね。
しかも、こなた達と対になるように四人組が結成されていて。「新仲良しグループ」って感じで、いいっすね!
でも、一年生の彼女達はまだまだお互いのことを分かっていなくって、手探りでコミュニケートをし始めたばかりで、初々しくってとても可愛い。
逆に、こなた達のすっかりこなれた関係も心地良く。
自分の好きなラノベを早くこなたに読んでもらおうとじっと待ってるかがみがまたちょー可愛い!
自分の好きなものって、自分の好きな人にも好きになって欲しいんですよね。
その好意の向け方がすごく自然で。積み重ねられてきたお互いの好意があるからこそ、ちょっと押し付けがましくなってみたりするわけですね。そんなことくらいで気まずくなるような関係じゃないっていう。
食玩の大人買いや好きなもの以外に対するケチっぷりを見せられて、ため息ついてみても、それでもかがみはこなたが大好きなわけですな。
この関係性もまたとても可愛い。
そういった関係性の成熟度の違いは、一年生と三年生、つまり「新入生」と「最終学年」の対比、ということになるのだと思いますが、二つのグループをひっくるめてみると、オタク比率がちょっと上がっているところが面白いですよね。
これまで、四人の中に一人だったオタク少女こなた。
ところが、オタクが二人増えて、メインが八人になりつつ、オタクは三人。
対比という視点で言うと、三年生グループでは四人に一人なのが、一年生グループでは四人に二人。
それが、意味のあることなのかどうかは不明ですが、なんとなく「面白いな」、と思っていたら次回のサブタイトルが「二次に本質あり」ですか。オタクが増えただけあって、これまで作中では少数派だったオタクが大暴れって感じっすかね。
その中でも、鍵になるのはひよりかもしれませんね。
これまで出ていたアニメ店長が制作者の代理的立場として描かれていると見て、作り手と受け取り手とのコミュニケーションズギャップが裏テーマ的に描かれていたように、僕は思っているのですが。アニメ店長が退場し、今度はオタクが増える。
しかも、こなたは消費専門だけど、ひよりは描き手でもあるから、作り手でもあるわけですね。
代理ではなく、作り手そのものが出てきた、と見ることもできるのかもしれません。
なるほど。そうやって見てみると。
作り手も受け取り手も、同じオタク同士だぜ。みたいな感じかもしれないですね。
本来は、一緒に肩を並べて乙女ロードに出かけるような、そんな関係。
そりゃ、アニメ店長の出番が終わるわけですね。作り手そのものが出てくるところで、代理としての役割は確かに終わっている。
ひよりとパティ。ひよりとこなた。ひよりとゆたかやみなみ。ひよりとかがみやつかさ、みゆき達。
その関係性に、作り手と受け取り手の関係を象徴して見ることができるのかもしれませんね。
作り手と受け取り手の距離感、コミュニケーションズギャップを際立たせておいて、作り手を「同級生」として登場させる。
やりますな!なるほど(何度も使ってしまう)納得です。
結局、作り手も受け取り手も同じ地平で生きているんですよね。
感覚の違いや意識のズレなんかがあったとしても、コミュニケートしていけるし、友達になれる。
そういう観点で実写エンディングを見ていくと、柊姉妹役の二人が前回(でしたよね?)バスに乗っている映像があったので、出てくるだろうと思っていたら、今回福原香織さんがまず登場しましたが、最終的にもっと多くの人が様々な形で出てくるかもしれませんね。
あれですよ。
「このお米を作っているのは私達です」って感じでパッケージに作り手の写真と名前があるような感じで。
「この作品を作っているのは私達です」って。こちらとの地平の繋がりと、彼らの姿を見せてきてくれるんじゃないかなぁと思ったりします。
コミュニケーションが確立しているこなたとかがみ達の関係を一つの行き着く姿として見てみると。
ひよりとゆたか達とのこれから築き上げられていく関係が、今の作り手と僕ら受け取り手との関係と見ることができるのかもしれませんね。
こなたやかがみのように、ギャップを持つもの同士でも仲良くできて、互いを好き合うことができる。
そして、ひよりやゆたか達もそうなっていくだろうと思えるコミュニケーションの姿が見えつつある。
ギャップがあっても。
同じ地平で、活き活きと、弾むように、生きている。
多田さんが作監する彼女達は、皆、等しく、活き活きと描かれて動いていました。
可愛く。楽しそうに。
こなた達、ひより達は、学校という共通点、集合場所で出会ってコミュニケートしていくわけだけど。
作り手と受け取り手という僕らの立場で言うならば。
作品という共通点を媒介にして、出会ってコミュニケートしていく、ということに置き換えられるのかもしれません。
アニメーション制作者は、視聴者の満足のための奴隷ではなく。
視聴者は、作品や商品を飼料のように一方的に押し付けられる家畜ではない。
互いが、同じ地平で、活き活きと弾むように生きている、コミュニケーション能力を持った人間。
活き活きと、日常を生きるアニメーションのキャラクターを見た後に流される声優さんを起用した遊びネタの実写エンディング。
そこに、意味やテーマを見出すことは、やはりできるでしょう。
アニメーションを媒介にして。
作り手と受け取り手とが、同じ地平にいるんだ、ということ。
それが実感できれば、コミュニケートは成り立っていくのかもしれませんね。ちょっとずつでも。
ひよりという作り手の存在を鍵にして、このシリーズが結実へと向かっていくことになるのだと僕には思えます。
こなた達と、これまで様々なコミュニケーションを見せてきた登場人物達と、同じ地平に登場した作り手。
彼女がどう描かれていくのか。
注目していきたいと思います。
同時に、「らっきー☆ちゃんねる」や実写エンディングもどう見せてくるのか。そちらも注目ですね。
ということで、「らき☆すた」第18話の感想でした。
さて。
何がどう「手短」なのか。
結局いつものまんまになってしまった。
「ひよりが鍵」という件から、指先がばかすかと語り始めてしまって。
指を動かす、というのは脳が刺激されていいですね。
いろいろと言葉が出てくるし、心の奥底で感じていた言葉にならなかった情緒が文章化されたりするし。面白いものです。
あと、暑さにバテてよく寝たのが良かったのかな。
ホントにマジで暑い。
皆様も体調にはお気をつけ下さい。
気をつけてもバテる暑さだけれども。
こんだけ暑いと、やはり麺ですね。麺素晴らしい。
疲労している時は中華麺がいいらしいっすよ。グリコーゲンが豊富とかで。確か。
あと、食中毒とかも気をつけないといけませんね。
すぐ食材傷むし。
いろいろ気をつけて、暑い夏を乗り切りましょう。
といったところで。
ではでは、またです!
参照:「映像言語」と「漫画言語」の具体的な違いの例。
: 「なぜアニメの感想を書くのか。どういったスタンスで書くのか。」
:「物語り人(ものがたりびと)」であること。…学習機会レポート2
:「物語作りの基礎。普遍的土台と誇張表現の調和により生まれる適度な感情移入…学習機会レポート」
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
いつも楽しく拝見させていただいています。
ちょっと思ったのですが、こなたは濃いオタクのステレオタイプのように描かれることが多いと思うのですが、実際どうなんでしょう。というのは、自分的に活字の本を読まないオタクは、オタクとしてなっとらんのじゃないかと、そう感じてしまう今日この頃なのです。逆に言えばこなたがオタクなら、ラノベファンのかがみも、十分過ぎるほどオタクだといえると思います。だいたい「絵師」なんて言葉、オタクしか使わないんじゃないかと…。しかもかがみのラノベ好きは、こなたからは一切影響を受けていませんし。それに、かがみのツッコミもよく考えてみると、単純にラノベオタがアニオタにつっこんでいるだけのような…。
ということで、3年生カルテットは、オタク二人に一般人二人ということでFA?
あと、最近『らき☆すた』を見ていて強く感じるのは、やはり「卒業」ということでしょうか。こなたたちがどんなユーモラスなやり取りをしていても、「卒業=別離」の文字が脳裏に浮かんでしまいます。これは例えば高校生や大学生がこのアニメを見ていても実感できないのかもしれませんが、オッサンが見るとその切なさみたいなものがひしひしと胸に迫ってくるのです。それはイノセントな幻想がギリギリ維持できる、女子高生という奇跡の時間が終わってしまうことへの愛惜の念かもしれません。
取り留めのないコメント、失礼しました。
投稿: ななふし | 2007年8月10日 (金) 13:09
ななふしさん、こんばんは。コメントありがとうございます^^
いつも楽しんで下さっているとのこと、嬉しいです!
>自分的に活字の本を読まないオタクは、オタクとしてなっとらんのじゃないかと
あははは(笑)
その辺は、個人個人いろいろあるのでしょう。
実際、こなたはお父さんが作家さんで、どうやら活字の仕事をしているようですから、本来は活字に対してすごく身近に接していてもいい立ち位置なんですよね。
なんだけど、活字にはあまり寄り付こうとしない。
むしろ、活字を避けている…。
その辺り、彼女とお父さんとの関係で思春期っぽ「何かある」部分として想像することもできるところなのかもしれませんね。
>「絵師」
えっと。かがみがこなたにラノベを薦めたシーンでしょうか?
あそこでは「絵描き」と言っていますが、どこかで「絵師」って言ってましたっけ?
僕は、かがみは「一般人」だなぁと思ってます。
ラノベ好きは読書好きの延長、ゲーム好きはコミュニケーションツールとして好きっていうことなんだと見ています。
まぁ、「ガウルン×宗介」辺りを入り口にしてこっちの世界に入り込んでおかしくないところにいますけど、それはもうちょっと先なんじゃないかなぁと。
そんなわけで、僕は三年生カルテットは「一般人三人にオタク一人」という印象で変わりません。
ただ、ななふしさんの印象に口を出すつもりはありません。ななふしさんの「3年生カルテットは、オタク二人に一般人二人」という見え方から見えてくるものもあるかもしれませんね。
「卒業」が近づいてくることでの切なさは、仰られる通り、回が進むごとに強く感じられてしまいますね。
あいつらがまた、それをほとんど意識していないでいつも通りだからこそ、余計に切なくなりますね^^
>それはイノセントな幻想がギリギリ維持できる、女子高生という奇跡の時間が終わってしまうことへの愛惜の念かもしれません。
嗚呼…。そういうのはあるかもしれませんね。子供から大人になる狭間の時間で、変化の大きい、だけど、どこか普遍的なイノセントさがありますね。
彼女達にとってはセーラー服を着る最後の年ですし。…こなたは卒業しても着るでしょうけども^^
終盤に向けて、彼女達がどういう姿を見せてくれるのか。たっぷりと愛情の視線を注ぎながら楽しく見ていきたいですね!
ではでは!^^
投稿: だんち | 2007年8月13日 (月) 20:11