「らき☆すた」第20話を見た。
こんにちは、だんちです。TVKにて「らき☆すた」第20話を見ましたので、感想を書きたいと思います。
夏コミ疲れもあって一週遅れの感想でございます。「手短に」をモットーに…いえ、嘘です。
遂に!こなた達がみゆき宅を訪れましたね!!
やー。元祖仲良し四人組の中で遠方の子でもあって、どうしてもちょっと距離が感じられるみゆきのところに、ああやってこなた達が訪ねていく様子が見れたことは、やはり嬉しいですね!
夏休みに入ると、こなたや柊姉妹はしょっちゅう会って宿題やったりしているし、かがみがみさおやあやのと宿題やったり、埼玉組は気軽に会いやすいのでしょう。
そんな中、遠い距離を越えてみゆきはこなた宅に勉強に来たりするわけですね。
一人で家で勉強した方が絶対効率はいいはずなのに。
そこは、四人で過ごせる最後の夏休みだからこそなのかもしれないですね。
しかも、みゆきの方から、地元の花火大会に誘うわけですよ。
あの天然さんのことだから、どこまで何を考えているかは微妙ですけれども。
でも、ここまでみゆきがこなた達を地元に誘わなかったのは、彼女特有の気を遣いすぎてしまうところと、その元にある臆病が原因なんだろうなぁと、思っちゃうんですね。
そんな彼女が、やっと、友達を誘うわけですよ。
さり気なく。
押し付けることもなく。
本心では、
「受験生なのに遠くまで遊びに誘っては悪いかもしれませんね」
なんて、もしかしたら悩んだりしたんじゃなかろうか、葛藤があったりしたんじゃなかろうか、なんてなことも妄想するわけですよ。
だけど、そこはやはり最終学年。
こなたパパが言ってたように、「青春は待ってはくれない」し「思い出を作る」には、ここしかない!というタイミングなんだと思うんですよ。
かくして、こなた達はみゆきのさり気ない誘いにより、みゆき宅への初訪問を成し遂げたわけですね!
…多分。初訪問だと思う。
みゆきママを見たこなたのリアクションなんかからも、初訪問であろうと思われます。
みゆきは、いつもはあの花火大会は誰と行っていたのでしょうね。
地元にも仲の良い友達はそりゃいるだろうけど、でもこなた達を誘うのは、やっぱり初めてなのでしょう。
卒業したら、それぞれの道に分かれていく友達と過ごす、高校最後の夏休みの花火大会。
みゆきにとって、大きな思い出となったことでしょう。
その「思い出作り」という名の遊びを積極的に求めていたのはこなたで、かがみは同意し、つかさは当然のように参加して。
だけど、そのきっかけを作って誘ったのはみゆき、というところが、ここまで見てくる中で、僕にとってはすごく感慨深いものがありました。
ずっと、どこか外れた立ち位置にいて。
それは、住んでいる距離もそうだし、関係においても、ちょっと、みんなとは外れている。
そんなみゆきだから、絶対に、みゆき宅訪問をこなた達にして欲しい、とずっと思っていました。
むしろ、「コミュニケーション」をテーマに持ったこの作品において、それは「絶対不可欠」だとすら思っていました。
こなた達とみゆきの間にある距離が具体的に縮む姿は、このシリーズ中で必ず見なければならない必然なんだ、と。
これで最終回とかで、みゆきがこなたのことを「…こなちゃん」とか呼んだりしたら最高なんだけどなぁ。まぁ、そこまではないっすかね。でもちょっとあって欲しー。
そうそう。
実は、さり気に構成が今までとひっくり返っているんですよね。
今まではこういうイベント事が作中にある場合、それはAパートで描かれて、Bパートは打って変わって日常エピソードになることがほとんどでした。
海水浴の回が若干変則だったように記憶していますが、あの回も最後は日常エピソードで締めていましたね。
ところが今回は、Aパートで日常エピソードを積み重ねて、Bパートで花火を持ってきました。
で、花火を見終わったところで終わる。
このシリーズがこういう見せ方をしたのは初めてなんではないでしょうか。
これまでは、必ずクールダウンさせる見せ方をしていたのに、その見せ方をひっくり返す。そうすると、イベントの印象が非常に強くなり、そのイベントの持つ意味、というものがより強調されるのだと思います。
つまり、今回のことで言うならば、
「思い出」
ということですね。
それは、彼女達の日々が卒業をいよいよ間近に控えた特別な時間に至ってきたという、そういうことの見せ方でもあるのでしょう。
これまでは、イベントがあったりしてもすぐ日常があって、「日々なんでもない」様子が描かれてきたように思います。
でも、同じように日常があってイベントがあってという日々で、その中身はこれまでとほとんど変わらないのに、見せ方がひっくり返ることで印象が全然違ってくるんですね。
それは言ってみれば、
「なんでもない日々は、なんでもなくなかった」
というような。
これまでの見せ方はずっと伏線になっていた、ということですね。
ちゃんと積み重なってきていたわけです。
いよいよシリーズが結実へと向かってくる中で、さり気なく、そして実は大きく変化した見せ方。
それは、これまでの積み重ね、畳み掛けを受けて、この作品が見せようとしているものを、明確に見せてくれるための変化なのでしょう。
こなた達がみゆきの家を訪れたような、そんな必然。
積み重ねられてきたからこそ、「見るべき」必然。
そういったものを、必ず、見せてくれることでしょう。
そこにある結実が、いよいよ楽しみになってきました。
次回以降もまた、楽しみにしたいと思います!
最後に、ここ最近書いている「作り手として登場しているひより」のことについてですが。
前回、AパートとBパートで「受け取り手」と「作り手」というようにはっきり分けて見せていたように感じたわけですが、今回、遂にひよりがユーザーの代表としての立場にいるこなたに会いましたね。
「受け取り手と作り手は同じ地平にいる」ということを書いていましたが、今回、その地平上で、やっと、両者は会いました。
とはいえ、特にこれといった会話をすることはなく。
「受け取り手」と「作り手」がコミュニケートしたり仲良くなったりは、まだこれからですね。
でも、前回あれだけくっきりと分けられていた両者が同じパートで同じ画面に収まっているところは、見ていて高揚感がありました。
両者が同じところにいて、同じイベントを楽しんでいる、という姿は、まだコミュニケートが始まっていなくても、示唆するものがあるように感じます。
両者に特別な違いなんてなくって、浴衣着て並んでりゃ、一緒なんですよね。作り手も受け取り手もない。
そういう出会い方であったところにも、なんだか感じるところがあるのでございます。
同じ地平に生きている受け取り手と作り手。
出会ったこの両者がどのようなコミュニケーションを取っていくのか、また、どんな様子をそれぞれ見せてくれるのか。
それもまた、とても楽しみです。
といったところで、今回の感想を終わります。読んで下さってありがとうございます。
21話も昨日深夜に視聴しました。
仕事もあるんで近日中に書けるか分かりませんが、また書いたら読んでやって下さいね。
ではでは、またです!
参照:「映像言語」と「漫画言語」の具体的な違いの例。
: 「なぜアニメの感想を書くのか。どういったスタンスで書くのか。」
:「物語り人(ものがたりびと)」であること。…学習機会レポート2
:「物語作りの基礎。普遍的土台と誇張表現の調和により生まれる適度な感情移入…学習機会レポート」
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