「らき☆すた」第21話を見た。
こんにちは、だんちです。TVKにて「らき☆すた」第21話を見ましたので感想を書きたいと思います。
一週遅れですので、手短を心がけつつ。
今回の「イベント」は修学旅行でしたね。
高校生の修学旅行らしい雰囲気が感じられて、懐かしい甘酸っぱい気持ちになりながら見てしまいましたよ!
そして、やはり「テーマは愛」。
このシリーズを「愛」というテーマが貫かれているとして見ていくと、今までに描かれてきていたなんでもないような数々のエピソードもまた、違った見方ができるかもしれませんね。
かがみを呼び出した彼は、かがみよりも「八つ橋君」を愛していたようで。
それは、「半吉」の「半分凶」ということでいうと、凶の方。
海水浴行ってもナンパされなかったし。なかなか思ったような青春を手に入れられないかがみ様でございますな。
要は、「見られたい自分」と「見られている自分」が違うということなんでしょうね。
それは、とても女の子らしい様子とも言えるのかもしれません。
そのことを、「愛」というテーマに当てはめるならば、彼女が常にダイエットのことを気にするのは、「見られたい自分になれば愛されるかも」、という思いがあってのことなんだと思えます。
だけど、それは違うんですよね。
彼女は、そのままの自分でちゃんと愛されている。
それが、あのプリクラなわけですね。
彼女は、いつものままの自分で、いつものまま振舞ってくることで、大切な友達に、家族に、心から愛されているのでしょう。
そして、その愛情を受け取って実感したからこそ、「半吉」の「半」をプリクラで消して、愛されている自分の「吉」を思い出と共に残したのでしょう。
半分あった凶は半分あった吉に駆逐されたわけですね。
その「吉」は、「愛」によってもたらされたもの。
だから、「ふて寝」なんてするわけないんですよ。
そんなことは、かがみを愛するこなたには、分かりきっていたのかもしれないですけどね。
可愛らしく、そしてここまで積み重ねられてきた彼女達の愛情ある友情の姿が、「修学旅行」という思い出の形になったことは、切なく、じんわりと感動的でした。
さて。
これまでと構成をひっくり返してきている、ということを前回書きましたが、今回もそうでしたね。
Aパートで日常を描き、Bパートでイベントを描く。
それは、半吉の半をプリクラで隠すことと似ていて、後の印象の方が強くなるんですね。
イベントの印象を強くすることは、当然のことながら意図があってしていることで。
「卒業」が近づく彼女達の姿を、印象的に見せるためのものでしょう。
そこで印象的に感じることが、実はずっと貫かれながらも、日常エピソードに隠れていた「愛」ということなのだと思います。
イベントがあっても日常エピソードでまったり展開をして終わってきたことで、「愛」がありながらもそれが目立つことなく隠れてきていたんだな、と感じるんですね。
そう感じてみると。
結実に向けて、愛の姿を印象的に見せられてくることで、ここまでずっと見てきていたエピソードの印象も、全て塗り替えられる、ということが起こりうるのかもしれません。
それが、半吉の「半」が隠れてしまうことと似ている、と感じる部分で、冒頭で書いた 「このシリーズを『愛』というテーマが貫かれているとして見ていくと、今までに描かれてきていたなんでもないような数々のエピソードもまた、違った見方ができるかもしれない」ということなわけです。
日常と、愛情と、そしてコミュニケーション。
当たり前にあるものが、見せ方を変えられることで、つまりは見方を変えることで、全く違ったものに見えるということ。
それは、誰にでも起こりうることでしょう。
気が付いたら、あなたも、ラッキーだったでしょ?
というような。
次の日常に繋がるワンクッションとして最後に描かれた黒井先生のサーバーメンテナンスの様子だって、明日の「吉」への伏線でしかないんですよ。
そんなわけで、前回から連続してきたことで、「日常→イベント」という見せ方の切り替えは、意図的にしてきていることが見えてきましたね。
そして、ずっと控え目だった「愛」というテーマが前面に押し出されてきました。
そのためにずっと積み重ねられてきていた日常描写。ずれた存在として異彩を放っていたアニメ店長達。
すべては。
このシリーズの結実のために。
ということですね!
その練り込まれたシリーズ構成から浮かび上がってくるメッセージを、最後までしっかりと堪能して味わいたいものでございます!
それと。
最後に、「作り手」と「受け取り手」のコミュニケーションというテーマについてですが。
今回、日常パートのAパートで、ひよりが普通に混ざって日常描写されてましたね。
作り手としての日常。
19話の時みたいに、別パートに集められるのではなく、受け取り手の日常にもしっかり混ざっているところで、「作り手が受け取り手と同じ地平にいる」というところからもっと進んで、「作り手も受け取り手もすぐ近くで同じように日常を送る存在」という姿が示されたように思います。
作り手が、特別な存在ではなく、コミュニケートできる身近な、そこにいつでもいる当たり前の存在として描かれるようになってきた、ということですね。
で。
そんな今回、京都アニメーションにこなたが訪れるわけですね。外から写真を撮るだけなわけですが、ここまで「作り手と受け取り手のコミュニケーションズギャップの姿とそこから脱するための主張」というテーマを見てきていたので、そのシーンを見た時に、とても大きな満足感を得ることができました。
そうだよな。
そこにいて、作っているんだよな。
そして、受け取り手の存在を、もっと身近に感じて、もっとコミュニケートしたいって、思っているんだよな。
自分達が、何も偉いわけでも特別なわけでもなく、ただ、いい仕事をしようと頑張っていて、そんな姿を知って欲しいし、受け取り手と一緒になってより良い作品を作りたいって、願っているんだよな。
と。
そんなことを見ていて思いました。
結局、そこにも「愛」というテーマがあるわけで。
こなたは、「マニア」とか「聖地」とか言って京都アニメーションの前で記念撮影するわけですが、それは要は「愛のある行動」なんですよね。
実際に、ああやってファンが訪れても彼らは喜ぶのかもしれませんし、見学だってさせてくれるかもしれません。
でも、その行動の根本にあるのが「愛」でなければ、作り手と受け取り手のコミュニケーションは決して有意義なものにはなっていかないことでしょう。
ちょこちょこある作り手と受け取り手のトラブル。
それが、半吉の「半分凶」の部分だとしたら。
それも、互いの「愛情」によって、「吉」にすることが、できるのでしょうね。
こちらのテーマは、どうでしょうね。京都アニメーションが登場したことで、ひと段落でしょうか。
ひよりという作り手の存在の描かれ方には、引き続き注目しつつ、見ていきたいですね。
あと。
もう一人の作り手。
こなパパも、ね。
そんなわけで、結実へとスパートするこの作品。
次回も楽しみです!!
ではでは、またです!
参照:「映像言語」と「漫画言語」の具体的な違いの例。
: 「なぜアニメの感想を書くのか。どういったスタンスで書くのか。」
:「物語り人(ものがたりびと)」であること。…学習機会レポート2
:「物語作りの基礎。普遍的土台と誇張表現の調和により生まれる適度な感情移入…学習機会レポート」
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コメント
初めまして、adashinoという者です。
らき☆すた第21話は素晴らしい内容でしたね。かがみの様子がいつもと違う事に気付いて声がか細くなるこなた、背を向けているかがみに無言で視線を送るこなた、かがみがいつもの調子を取り戻して話に入ってきたので笑顔を浮かべるこなた……そしてプリクラの「We love kagami」。あれはまず間違いなくこなたが入力したのでしょう。愛ですね。
そういえばRandom Curiosityという海外のアニメサイトでも、21話の感想の最後に「Lucky Star is love」と書かれていたのが印象的でした。
投稿: adashino | 2007年9月 4日 (火) 19:21
adashinoさん、こんばんは。初めまして^^
コメントありがとうございます!
21話、素敵なお話でしたよね^^
書き出して下さったように、かがみを心配するこなたの様子が非常に丁寧に描かれていて、二人の友情の深さ、そして愛が感じられましたよね。
>そしてプリクラの「We love kagami」。あれはまず間違いなくこなたが入力したのでしょう。愛ですね。
嗚呼…本当そうですよね。その上「記念に」とか言って絶対譲らなかったりして。こなたにしてみたら、絶対に伝えたい愛情だったのでしょうね。
やはり、「愛」大事ですね!!
>そういえばRandom Curiosityという海外のアニメサイトでも、21話の感想の最後に「Lucky Star is love」と書かれていたのが印象的でした。
おぉ!!海外の方もご覧になっているのですね。そして、作品のメッセージが伝わっている…。
それは、とても嬉しいことですね^^
多くの人たちと一緒に、この作品のメッセージを受け取って、作品と彼女達を愛していきたいものですね!
We love Lucky Star!
ではでは、またです!^^
投稿: だんち | 2007年9月 8日 (土) 18:31