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2007年9月 6日 (木)

「らき☆すた」第22話を見た。

 こんにちは、だんちです。TVKにて「らき☆すた」第22話を見ましたので、感想を書きたいと思います。今回も、指の向くまま気の向くまま、妄想たっぷりにお送りいたしますぜよ。

 花火の回から、修学旅行と続いて、「日常Aパート」→「イベントBパート」という構成に切り替わった「らき☆すた」。
 おそらくは今回もその構成でくるだろうと思いつつ、どんなイベントが来るのか、というのは分かりませんでした。
 そして見てみたらば、なるほど!

 「お彼岸」

 でしたか!
 彼岸のかなたが此岸のこなたに会いに来るわけですね。

 このイベントにはもう、たっぷりと心置きなく泣かせてもらいました。
 というのも、僕はずっと「こなたのお母さんが亡くなっている」という大ネタを前提にしながら見てきていましたから。
 彼女の偏向性や甘えっぷり。人間性。そこに、ずっと欠けてしまっていた大きな存在の穴というものを感じてきていました。
 だから、「お彼岸」というイベントで家族三人が揃う画面は、なんとも言えない切なさを感じさせてくれるものでした。

 
 こなたの近くに、一日だけ母親を存在させたのは、

 そして、

 かなたに、一日だけ娘の成長した姿に触れさせたのは、

 
 そうじろう、なんだと思います。
 
 
 Bパートは、
 そうじろうが書いた物語なんだな、と思うんですね。
 愛する奥さんと娘を、せめて物語の中でだけでも会わせようとする、そういう「イベント」だったのだと、思うんです。

 だから、かなた視点で進むイベントは、本当はそうじろう視点だったのではないでしょうか。

 彼は作家であるということから、この作品中で示される「作り手」と「受け取り手」の区別でいうならば、「作り手」ということになります。
 でも、ここまで、彼は「作り手」らしい姿をほとんど見せることなく、日常の中で「受け取り手」の方に混ざって、正体ともいうべき姿を隠してきていました。
 アニメ店長のように「お客様の満足のために!!」と叫ぶわけでもなく、ひよりのように作り手としての自分を晒しまくるわけでもなく。ただ、こなたを見守る位置にいて、脇役然としていました。

 だけど、作中にひよりという「作り手そのもの」が出てくる中で、そうじろうという職業表現者の描かれ方がすごく気になっていたんですね。
 彼も、何かするんじゃないか。
 なんとなく、そう感じていました。

 そして、作中で明確にそう語られるわけではなく、僕の勝手な視点でのことではありますが、今回彼は「作家」としての手腕を前面に押し出し、「作り手」の一つの姿を見せてくれたように思うんです。

 それは、

 「誰かのために、物語を書く」

 という姿。

 ひよりという表現者は、とても純粋な姿を見せてくれているわけですが、彼女の場合は「作り手の衝動」そのものを象徴していて、「悪魔に魂を売る」なんて表現されるミュージシャンの如く、ひたすら作品作りに打ち込んでいます。
 それも、作り手、表現者の持つあるべき姿の一つなわけですね。
 そういう作り手は、普通に日常の中にいて、受け取り手と一緒に日常を過ごしている。そういった距離感が彼女の登場によって描かれているように、僕は感じています。
 作り手は特別なところにいるのではなく、いつでも友達になれる、コミュニケートできる、そういう存在なんだ、ということですね。

 だけど、そうじろうは作り手としてのもっと進んだ姿を見せてくれたのだと思うわけです。

 書かずにはおれない、そういう衝動も当然あるでしょうし、登場人物達の日常の中に普通に存在するため、いつでもコミュニケートできる姿も見せてくれています。
 でも、彼はそこからもっと進んでいて、「誰かのために」物語を作る、そういう作り手なんだと、今回見ていて感じました。

 
 今は亡き、愛する妻。

 その、かなたの魂を慰めるために捧げられた物語。

 
 母を亡くした、愛しい娘。

 その、こなたの寂しさを少しでも慰めるために書かれた物語。

 
 こなたは、どうやら思春期の少女らしく、普段からお父さんの作品は照れくさくて読んでいないことでしょう。彼女が活字を避けるのは、「小説は苦手だから、お父さんのも読まない」という言い訳を無意識のうちに自分にしているのではないかな、と思います。
 そんな彼女が、この物語を読むには、もう少し年月が必要でしょうね。
 だけど、いつか、父の心を知る時が来ることでしょう。

 二人に対するそうじろうの愛情。
 それがあるからこそ、作られたBパートの物語。

 作り手は、受け取り手に愛情を込めて、その人のために物語を作る存在。

 そういう、作り手としてのあり方の一つの姿を、遂にそうじろうが見せてくれたのではないか。見ていて、そう感じました。

 こなたを受け取り手を象徴した存在だとして見た場合。

 僕らが見ている様々な作品は。
 僕らが思っている以上に、僕らに愛情を向けて作られているのかもしれない。

 そんなことを思います。

 
 作品を見ている最中、エピソードを見ている最中に、そんなことを考えながら見ているわけではなく、感受性に任せて涙を流しつつ楽しんで見ておりました。
 でも、エンディングクレジットで脚本が賀東招二氏だったことを知った途端に、それまで感じていたことが一気に言葉にまとまったんですね。

 賀東氏は、ここまで「ネットゲームの専門用語頻出の回」「コミケの回」を担当していて、彼の専門知識や経験が活かされる形で起用されていました。
 ところが、今回の回は一見するとこれといった専門知識は必要無いように思えます。
 だけど、この回を彼が担当した。
 それはつまり、今回のお話は「作家が脚本を書く」ことに大きな意味があったから、なのではないでしょうか。

 Bパートがそうじろうの物語なのだとしたら。
 作家の日常、作家の青春、作家の心を知る者でなければ、書けないのだと思います。

 そして、作家が誰かのために、人のために、受け取り手のために物語を作るということを、知って経験してきている者だからこそ、書ける。

 賀東氏がどういう人生経験を積んできているのかを、僕は知りませんが。もしかすると、大切な人を亡くしたことも、あるのかもしれませんね。または、大切な人を亡くした人が身近にいたり、とか。

 適材適所の人材起用があるからこそ、今回の脚本を賀東氏が担当したことに様々な感慨を覚えます。

 作家が書いた作家の姿だからこそ。
 この回のそうじろうには、様々な「真実」があるように思えるんですね。

 …。
 …自分も。
 物語を作る人間ですから。
 おこがましいとは思うんだけど、自分のことも含めた言い方をしてしまうと、僕ら物語を作る者は、愛情を作品に込めていくことを、どうしたってしていく生き物なんだと思います。

 ひよりは、作品を作ること、作品を作っている自分を愛してはいても、受け取り手に愛情を向けるところまでは、まだ行っていないのかもしれません。
 でも、愛すべき友人達を愛でるように見て物語を描いていくうちに、その愛情の向け方を知って、覚えていけるのかもしれません。今はまだ、自分の情念の向ける先に迷い、頭を抱えることが多かったとしても。

 そうじろうが、作り手としての一つの行き着いた姿なのだとしたら、ひよりはまだそこへ向かっている最中。
 だからこそ、Bパートのラストは、「まだ卵」のひよりだったのでしょう。

 作り手は、愛情を持って受け取り手と同じところで存在していて、その愛情を向けてきている。
 でも、愛情の向け方や込め方が未熟な作り手もいて、受け取り手の目の前で頭を抱えていたりする。

 それもまた。

 
 日常なのでしょう。

 
 だからこそ。
 受け取り手が作品を愛して、愛情を持って作り手と親しくコミュニケートしていく日常も、ありうるのかもしれません。
 それは、作品に込められた、こちらに向けられた愛情を素直に感じ取っていくことで、築き上げれられるものなのかもしれませんね。

 その辺り。
 作り手側にもいつつ受け取り手でもある僕としては、なんとも表現するのがこそばゆいところではあるのですが。

 でも、こそばゆいぜと思いながらも。
 作り手として、受け取り手として、「ラッキー」とも言うべき愛情溢れる両者の姿をこの作品の中で見るにつけ、愛情ある作り手と受け取り手の関係を願わずにおれません。
 それは同時に、この作品の中でずっと描かれてきている愛情ある家族の姿、愛情ある友情の姿についても感じることです。

 理想の姿、というものが得られるのならば、それはラッキーなのでしょう。
 でも、「そのラッキーは、愛情とコミュニケートとで得ることができる、当たり前の日常である」ということが、この作品がずっとこちらに語り掛けてきているものだとするならば、やはりその通りなのでしょう。

 「日常Aパート」→「イベントBパート」という構成の変化によって、それまで隠れがちだったメッセージを一気に前面に押し出してきた「らき☆すた」。

 でも、愛情の押し売りはしないことでしょう。
 次辺りからまた、通常の構成になったりしそうな気がします。

 だけど、既にメッセージを浮上させて見せているわけですから、もし構成が元に戻っても、「イベントBパート」三連発で感じた印象を持って、そこにある愛情を感じながら見ることができるでしょう。
 とか言って、まだもう一つ二つ、どかんと何か持ってくるかもしれませんけれども。

 「この作品が語り掛けてくることに耳を傾ける」ということを、以前書きましたが、そこで「聞こえて」きたことは、「見てくれる人を愛している」という、告白のようなものに感じます。
 ならば、僕もまた、この作品を愛して、その愛情を持って、最後のラストカットまで、愛し合いたいと思います。

 そう。「愛する」のではなく、「愛し合う」。
 それが、きっと、できることでしょう。

 そんなことを思うと、なんだか胸の真ん中のちょっと奥のあたりが、ずっと、切なく暖かいっすよ。

 とても、気持ちいいですね。

 その気持ち良さをずっと持ちながら。
 次の放送を楽しみに待ちたいと思います。

 以上で、今回の感想を終わります。
 長い上に思い入れ込めまくりの妄想炸裂な感想を読んで下さってありがとうございます。

 今、休憩中でこの後すぐ仕事に戻るので、とりあえずアップしておいて、誤字脱字チェックや推敲は後でやろうと思っています。なので、誤字脱字や変だったり分かりにくい文章もあるかと思いますが、どうかご容赦下さい。

 それでは、この辺で。
 またです!

 参照:「映像言語」と「漫画言語」の具体的な違いの例。
    : 「なぜアニメの感想を書くのか。どういったスタンスで書くのか。」
    :「物語り人(ものがたりびと)」であること。…学習機会レポート2
    :「物語作りの基礎。普遍的土台と誇張表現の調和により生まれる適度な感情移入…学習機会レポート」

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