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2007年9月15日 (土)

「らき☆すた」第23話を見た。

 こんばんは、だんちです。TVKにて「らき☆すた」第23話を見ましたので、感想を書きたいと思います。またもや、思い入れたっぷりでございます。

*******************************

 なんでもない日常は、
 なんでもなくないもので、

 そしてやっぱりなんでもない日常は、
 いつもそこにあって、

 そしてそこには、

 
 いつも、

 
 
 愛がある


 
 
 
 
 
 
 
 なんてなことを思わず口走ってしまうような、そんな気持ちにさせられてしまいました。

 ここ三回、普段の構成を意図的に変えて「日常Aパート→イベントBパート」という見せ方をしてきていましたが、今回は、やはり構成が元に戻りましたね。
 大きなイベントはなく、基本日常オンリーではありましたが、「ゆたかのお見舞い」は小さいながらもイベント扱いで見ることができるかな、とは思います。

 構成を変えた「イベントBパート三連発」は、こなた達が様々な「愛」によって支えられていて、「愛」によって様々な関係を築き上げている、ということを浮き彫りにしました。

 それを受けて構成を元に戻すことで、「愛がある姿」としての「なんでもない日常」を見ることができるわけですね。

 第2話で、「懸賞に当たりたければ、ひとえに愛だ」と主張したこなた。
 それは、このシリーズの根底にずっとあったテーマだった、ということですね。

 「ラッキーを手に入れるには、愛さなければいけないよ」

 と。
 懸賞に当たるような分かりやすいラッキーとは違うけど、彼女達の麗しい人間関係は、まさに「ラッキー」だし、それは「愛」によって得られたものだ、ということが、見ていてしみじみと感じられる今回だったように思います。
 何も変わらない彼女達なんだけど、ちょっとだけ、見えてくる距離感が違うように感じるんですね。

 こなたがかがみの髪を玩ぶような、ああいう仕草。
 今までもスキンシップはあったけど、今まで以上に愛のある姿に見えました。
 こなたとかがみの二人であれば、まぁそれは当然としても、可愛らしいくしゃみをしたみゆきに対するこなたのスキンシップは、明らかに「みゆき宅訪問」を経て、より仲良く、愛を持った関係に発展したからこそ、に見えます。

 シリーズ開始からどこか仲良し四人組の中でもちょっと距離があったみゆき。
 今回、みゆきとこなた達にそんな距離は全く感じられず、本当に、心から(ある意味、身体も?)仲良くなった様子を感じることができて、さり気にとても感動的でした。

 
 その、「愛がラッキーを呼ぶ」ということでいうと、「新仲良し四人組」は、これから、ということになるのでしょうね。
 ゆたかへの愛情を持って、見舞いに馳せ参じた三人。
 だけど、その愛情が明確に伝わっているのは、まだまだみなみだけのよう。
 それは、ゆいの目線を通した時にそうだ、ということなのかもしれないけど、第三者の目線だからこそ、シビアなものがあるように思えます。
 パティやひよりの愛情が誰の目にも明らかなくらいゆたかに伝わるのは、これからの二年間にかかっているのでしょう。
 でも、先輩達がその姿を見せてくれているわけだからね。
 きっと、大丈夫。

 愛と、そこから生まれるラッキーは、普遍で、世代が代わっても、どの年代でも、誰にでも、あることなのでしょう。
 
 そこに、愛がある。

 として見てみると、全てのエピソードをそういう観点で見ることができますよね。
 かがみの携帯が切れるエピソードも。「あるある」ネタのように見せて、そこにあるのは、互いの愛情(あるいは愛ある友情)なんですよね。
 つかさのイチゴのマジボケも、かがみはバカにしたりはしないし。
 みゆきママのみなみに対する反応も、表面的でない、普段のありのままのみなみを知って、愛しているからこそなのでしょうし。

 
 
 
 
 「日常はつまらない」とか「日常は苦しい」
 というような発想は、創作において定型化したスタートラインだと言えるものに思えます。
 で。
 そこをスタートにして、何かスポーツをやったり、どっか異世界に行ったり。

 そういった物語が、その作中の登場人物のように「日常はつまらない、苦しい」と思っている受け取り手にポジティブな夢を与えることは、あるでしょう。

 でも、物語を作る人間は、思うわけですよ。

 「日常がつまらないとか苦しいとかって、本当か?」
 って。
 だって、僕らはその日常の中で夢や希望を持って生き続けているわけでしょ?
 本当は、それは違うんじゃねぇか?
 本当は、日常はちゃんと向き合ってみたら面白いもんなんじゃねぇのか?

 非日常を描いて、受け取り手の心を慰めるものを作ったとして、でも、その人をちゃんと日常に帰さなければいけない。
 だったら、日常に対するリスペクトは、なくてはいけないんじゃないのか?

 物語を作る人間は、そういうことを考えると思います。
 頭でなく。
 もっと、体感的だったり、感覚的だったり、皮膚感覚だったり。すごくあやふやなもんなんだけど、物語を作る人間(物語人)というものは、心のどこかで、そういうものを感じる生き物なんだと思うんですね。

 だから、僕は受け取り手としても作り手としても、「本当に頑張った人間に奇跡は起こる」というメッセージを投げかける「ARIA」や、「そこから飛び出すんだったら本気で命がけで逃げろ」と訴える「キングゲイナー」や、「傍観者ではなく、当事者になれ」と背中を押す「涼宮ハルヒ」シリーズが大好きなんです。

 そして「らき☆すた」も、「愛が日常をラッキーに変える」と明確に訴えかけてくれるもので、そこに共感と敬意を抱かずにはおれません。

 特に、今この時代に物語を作るのであれば、そういうメッセージを発信したくなるし、そうするべきだ、と作り手のあらゆる感覚が物語を作るその人自身に対して訴えてくるもんだって思います。

 なぜか。

 それは、本当に逃げ出したくなるような、苦しい日常というものが、現実に、あるから。

 なんだと思います。
 日常や現実に、まだまだ牧歌的な夢を持てる時代であれば、「日常はつまらないし苦しいよね」という発想で非現実の物語を作っても充分「成り立つ」と思うんです。
 受け取り手は非現実の物語から現実にちゃんと帰ってくれるから。

 だけど、本当に夢を持てないような時代になってきたら、それは、描けない。

 受け取り手の足元を崩すものになってしまう。
 それは、物語を作る者がやっていいことではない。

 僕が、「らき☆すた」第3話辺りの感想で、「この作品は、ハルヒの反省から作られ、ハルヒ第二期の前提になっているのではないか」と書いたのは、そういうことなんです。
 「ハルヒ」は、見ている人間に、「現実の当事者」になること(「自分自身の人生の当事者になること」とも言えるかもしれません)を促すメッセージを持った作品だと思うのですが、それが伝わりにくい表現上の「ストイシズム」があったように思います。
 創作されたアニメの世界が、魅力的に過ぎる見え方が、あったように思うんですね。

 だからこそ、生活の足元を崩されず、家族とも友人とも愛情を持って関係を築き、オタクとしての日常を生きているこなたを通して、あれだけハルヒネタを絡めたのだと感じます。
 
 そして、様々な形で「作り手」を象徴する存在を作中に登場させ、作り手と受け取り手の関係のあり方についても、訴えかけてくる。
 それは、この時代を、共に、夢や希望を持って生きていこう、というメッセージを投げかけてくるものでもあるように感じます。

 それは、やっぱり、作り手は思うよね。

 だって。

 作品を作るって、
 そういうこと、だから。

 
 
 
 
 
 さて。
 愛がラッキーを生む、ことをメッセージとして持ったこの作品。
 次回最終回のようですね。
 予告を見ると、文化祭の準備をしているようですが、これまた、明確なメッセージを見せてくれるような予感がします。
 何かを作り上げること、楽しむこと、みんなで参加すること、みんなで遊ぶこと…。
 いろんなテーマが集約されるのかもしれませんね。

 あと、もう一つの予感として。
 ラッキーとも言うべき愛情を、作中でみんなから受け取る人物がいるような気がします。

 いつも、みんなを見守るところにいて。
 みんなに愛情を注いで。
 そして、
 見送る立場にいる。

 あの人。

 さて、どうなりますか。

 「らっきー☆ちゃんねる」のラストも含めて、楽しみです!

 そうそう。最後にあと一つ。
 「作り手」と「受け取り手」の作中での邂逅ですが。
 今回、ごく自然にこなたとひよりがコミュニケートしていましたね。
 受け取り手がコンプレックスを持つことなく、作り手が卑屈にも尊大にもなることもなく、ごく自然に。
 共に一般人からの蔑み光線を受けるようなこともある意味象徴的で、両者は共にあるべき存在なんですよね。

 共感と、互いへの愛情を持って。

 でも、両者を「受け取り手」と「作り手」をそれぞれ象徴した存在だとして見た場合、両者の麗しい関係は、まだまだ始まったばかりで、これから築かれていくもの、ということなのでしょうね。

 その部分も、どうでしょう。最終回で何か見えるかなぁ。
 ちょっと注目してみようと思います。

 
 ここまで、ずっと感想を書いてきましたが、いよいよ次回でラストですね。
 視聴してすぐ感想を書ければいいんでしょうけど、そこは自分のペースで、最後もまた指に任せて思い入れたっぷりに書きたいと思います。
 こんな感じの、思い入れで長文になってばかりの感想ですが、良かったらまた次も読んでいただけたら、と思います。

 次回もまた、楽しく視聴したいですね。

 ではでは、またです!

 参照:「映像言語」と「漫画言語」の具体的な違いの例。
    : 「なぜアニメの感想を書くのか。どういったスタンスで書くのか。」
    :「物語り人(ものがたりびと)」であること。…学習機会レポート2
    :「物語作りの基礎。普遍的土台と誇張表現の調和により生まれる適度な感情移入…学習機会レポート」

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コメント

初めまして。Yと言います。「らき☆すた」に関する考察をいつも楽しんで読ませていただきます。
さて、「日常がつまらないとか苦しいとかって、本当か?」という話に関して、今回のエンディングの元ネタともなった「スター・ウォーズ」のファンサイトで以前読んだことのあるコラムを思い出しました。
以前エピソードⅠが公開されたときに話題になりましたが、「スター・ウォーズ」ってルーク・スカイウォーカーが反乱同盟軍に入隊し、ジェダイとしての修行を積みながら仲間達と共に銀河を救うために奮闘するエピソードⅣ~Ⅵ(旧三部作)とそれ以前の物語、奴隷の少年だったルークの父アナキンがジェダイとなり、最後には同胞を裏切ってシスの暗黒卿ダース・ヴェイダーとなるエピソードⅠ~Ⅲ(新三部作)から成り立っているわけですが僕が読んだコラムで取り上げられていたのはそれぞれの三部作における「旅立ち」のシーンの描写の違いでした。
エピソードⅣ(1977)でオビ=ワン・ケノービから自分がジェダイの子である事を知らされルーク自身もジェダイになるように言われるのですが、ルークは育ての親である叔父のオーウェンから反対されると言って誘いを断り結局は留守中にその叔父夫妻が殺されたことで半ば“仕方なく”旅立つ事になります。それに対し、エピソードⅠ(1997)で自分が奴隷として働かされているジャンク屋に訪れたクワイ=ガン・ジンからジェダイになるようにと誘いを受けたアナキンは家を出て行く時には母や友人との別れを惜しんでいたもののそれ以外のシーンでは終始ジェダイについて興味津々で“喜んで”旅立っていきました。
つまりおなじ旅立つにしてもこれまでは必要に迫られて“仕方なく”旅立っていたのに対し、最近では“喜んで”それまでの生活を変えていくようになったということでしょうか。また、主人公の境遇が農夫から奴隷になったのもそう言った認識の現われかもしれませんね(参考:ttp://www.ne.jp/asahi/hoth/press/other_films/pics/harrypotter/harrypotter2.htm)。

そう言えば「涼宮ハルヒの憂鬱」では「果報は寝て待て、昔の人は言いました。でももうそんな時代じゃ無いのです(憂鬱p134)」「冒険でしょでしょ?」「戻れない所まで行かなきゃつまんない(冒険でしょでしょ?)」「わくわくしたいと願いながら過ごしてた(ハレ晴レユカイ)」と主張するハルヒ(平野綾)に対し、キョン(杉田智和)は「現実はもっとシビアでシリアスなんだよ(憂鬱p95)」「普通の高校生らしい遊びを開拓してみたらどうだ(憂鬱p175)」「俺は戻りたい(憂鬱p283)」「叶えたいことはないかもな(ハレ晴レユカイ キョンver)」「もうほっといてくれ(倦怠ライフ・リターンズ!)」「現実を見ろ、起きないから奇跡。人の話を聞け!(同上)」と主張していますね。

投稿: Y | 2007年9月15日 (土) 23:13

Yさん、こんばんは初めまして^^
いつも読んで下さって、その上コメントをいただきましてありがとうございます!

創作者的視点から勢いに任せて書いた「時代背景を受けた日常に対するリスペクト」について、映画「スター・ウォーズ」の主人公の描写の違いで感じ取られたということですね。
そういう捉え方をしていただけて嬉しいです^^
リンクを張っていただいたコラムもざっと目を通させていただきました。
僕は「スター・ウォーズ」はⅣ~Ⅵを見て、Ⅰ~ⅢはⅠだけ見ました。なので、Ⅳ~Ⅵの印象が基本になりますが、時代的必然からの物語性ということでいうと、「Ⅳ~Ⅵ」は「家族の物語」という側面はあったかもしれませんね。ルークは悪に堕ちた父と対峙し、最後は父と共に悪を討ち、妹を助ける。それは、科学が急激に発達し個人主義が強くなってくる中で、必要な物語だったのかもしれません。最後の戦いで、原始的な文明でありながら強固な団結をもって帝国と闘うイウォーク達の姿も象徴的ですよね。
対して、アナキンが「奴隷」という、使役され、強制される立場の「現実」から、ジェダイになれるという「非現実」へと旅立つことで、ダークサイドへと堕ちていくことも、やはり象徴的に思えますね。

そして「ハルヒ」では、現実を面白いものに変えようと奮闘するハルヒが「変人」で、現実はどうにもならないものだとするキョンが「普通の存在」として描かれながら、作中でその立場がある意味逆転しているんですよね。「叶えたいことはない」とうそぶくキョンは、彼の世界の中では非現実的な仲間に囲まれることで少数派になってしまう。「普通の高校生らしい遊び」なんて、まさに「当事者」らしからぬ、傍観者的な台詞なわけですからね。だけど、彼は当事者であることを、あらゆる局面で求められ、そして、それを選ぶ。そのことを逆説的に捉えるならば、実は「現実の奴隷」となってしまうことも、「自ら選んでいること」だとも言えるのかもしれないですよね。
そこを、普遍性と時代性を持って見ていく時に、「愛が日常をラッキーに変える」という「らき☆すた」の持つテーマは、創作者として描いていく必然のあるものに思えます。

同時に、受け取り手としての「必然」というものもあるわけですから、両方の必然が噛み合う作品というものが、様々なメディアで、これからも沢山生まれていったらいいなぁと感じます。
勿論、個人個人の好みというものがベースになっていくわけですが、お互いこれからも様々な作品を楽しんでいきたいですね^^

ではでは、またです!

投稿: だんち | 2007年9月18日 (火) 02:53

嬉しいと言っていただけてこちらも喜ばしい限りです(笑)。
さて、だんちさんがご覧になっていないという「スター・ウォーズ」のⅡとⅢに関して補足させていただくとエピソードⅠでは奴隷だったアナキンにとって「非現実」だったジェダイというものがエピソードⅡ~Ⅲでは考え方によっては奴隷として暮らしていた頃よりも厳しいと言えるかもしれないような「現実」として描かれ、アナキンはそういった「現実」に押し潰されていくことになるといえます。
ジェダイの教えでは特定の人物に特別な感情を持つことがその人物を失いたくないという執着へとつながり、ひいてはダークサイドに繋がるとされているという理由から徹底的に「愛」という物を禁じられ、恋愛はもちろん肉親との接触さえも禁止されてしまいます。そうして訓練や任務で雁字搦めのとても息苦しい生活を強いられていたアナキンはエピソードⅠで仲良くなっていたパドメとエピソードⅡで再会し、互いの恋愛感情とジェダイの掟との間で悩み苦しむこととなり、エピソードⅢではこの問題に加え戦争を口実にして権力を集め続けるパルパティーン元老院最高議長(共和国の最高権力者)と彼の企みを阻止しようとするジェダイ騎士団との対立の中でパルパティーンと親しい人物として板挟みにされることとなります。そしてアナキンはとうとう実はシスの暗黒卿だったパルパティーンの口車に乗せられて彼がジェダイを滅ぼし、皇帝となって共和国を帝国へと作り替えていく手助けをすることになり、パルパティーン皇帝となったダース・シディアスの新しい弟子ダース・ヴェイダーとして銀河帝国に君臨します。そしてどうにか帝国による粛清から逃れたオビ=ワンとヨーダはアナキンを止めようとして殺されかけたパドメが死の間際に産んだ双子の子どもに未来の希望を託すのでした。そしてエピソードⅣに続く。…ふう、映画二本のあらすじをまとめるのって難しい(汗)。
まあ、要するにエピソードⅠ~Ⅲは「人間が愛を失ってしまったら」というテーマを現代社会の民主主義政治に対する警告なども交えて表現した映画なのかもしれません。

そういえばハルヒの二期となる可能性が高い「涼宮ハルヒの消失」も「自分にとって大切な人がある日突然いなくなったら」「人間(この場合は人間ではなく“禁則事項なので自主規制”ですが)にとって本当に必要な物とは何か」といった事がテーマになっていますね。
そうしてハルヒの二期のテーマがらき☆すたの「愛が日常をラッキーに変える」というテーマを更に突き詰めた物だからこそ随所でハルヒを露骨に意識したネタが使われ、更にはらっきー☆ちゃんねるをぶち壊した白石とあきらに対してみくる役のゴットゥーザ様が「私の顔に泥を塗ることにもなる」と発言した…というのは考えすぎでしょうか。

投稿: Y | 2007年9月19日 (水) 01:23

Yさん、こんにちは^^
「スター・ウォーズ」Ⅱ、Ⅲの要約をありがとうございます^^
僕は直接見ていないので、あれこれ語ることはできませんが、なるほど、時代に即したメッセージや表現があるのでしょうね。
現実に向き合うことができず、非現実への逃避の仮面を被る、そんな姿がダース・ヴェイダーにはあるのかもしれませんね。
本当の意味での強さとは何か、というテーマであったり、または政治的…というよりは社会的な皮肉であったり。作品の中からそういうものを透かして見ることもできるでしょうね。

ハルヒ二期で可能性が高いのは、やはり僕も「消失」だろうなと思っています。
「らき☆すた」を経て、キョンには、あれを視聴者の見ている目の前でさせなければならない、そういう必然があるように思います。
そこで見えてくるテーマ、メッセージというものが、今からとても楽しみです^^
あとは、メッセージとしてとても明確なものを持っている「溜息」も是非やって欲しいなぁとも思っています。
2クールだったら、やれるかなぁ。

「私の顔に泥を塗る」発言についても、何かを象徴している、と考えるのは面白いと思いますし、考えすぎるくらい考えることは、作品をより楽しむことになりますよね^^
「らき☆すた」のラストで「幕を上げた」というところから、ゴットゥーザ様のためにも日常を頑張って生きようなんて思ってみるのも、作品が自分の中で活きることになるよなぁ、なんていう風にも思います。
ゴットゥーザ様の顔に泥を塗らない、そんな視聴者でありたいものでございます^^

ではでは、またです!

投稿: だんち | 2007年9月24日 (月) 04:27

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受信: 2007年10月 7日 (日) 13:47

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