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2007年9月20日 (木)

「らき☆すた」第24話を見た。

 こんにちは、だんちです。TVKにて「らき☆すた」第24話、最終回を見ましたので感想を書きたいと思います。長文です。いろいろ書いていますが、考察とかではなく感じたことを整理せず書いているので、えらい長いポエムみたいなものですね。心で感じて受け取っていただければ幸いです。

******************************

 楽しく、そしてわくわくするような、誰もが体験し、思い出せる感覚を共有できる、文化祭準備のお話でしたね。
 イベントと日常を分けるのではなく、その分岐点のようなお話で、そしてそこで、「チア」を描く。

 僕ら視聴者を、「現実の世界」へと送り返す、まさにそのためのお話だったように思います。

 チアは、応援してくれる存在なわけですから。
 その応援を受ける僕達は、現実の自分達の世界で何かを頑張って応援されるべき立場なわけですね。

 それは、アニメーション作品、広くはエンターテインメントの持つ存在意義を示してくれるものに思えます。

 だけど、文化祭当日。
 幕が上がるところで作品は終わる。

 チアを見せてくれるのは、リハーサルでだけ。

 そして、

 日常とイベントが切り替わる、まさに幕が上がる瞬間。
 そこで、終わる。

 彼女達にとっての幕が上がるのを、幕の裏側から僕達も見る。

 チアに扮した彼女達を、作り手の代表、あるいは作品そのものを代表していると見ると、それを見ている僕らはまさに視聴者そのものなわけですが、最後の瞬間に、そこの境界線が引かれなかったところに、感慨深いものを覚えます。

 何度も「受け取り手の象徴」として捉えてきていたこなたと「作り手の象徴」として捉えてきていたひよりとが、一つのグループの中でごく当たり前に協力し合って一つのものを作り上げようとすることと、それは同じなのでしょうね。

 そして、それだけでなく、彼女達のグループは他にも様々な人がいて。
 病弱な人、なかなか打ち解けない人、誤解されやすい人、流されやすい人、子供のように無邪気な人、優しい人、ついつい面倒を見てしまう人、異文化の人。

 そんな彼女達が、こうして一つのグループとして踊っているところを見ると、それぞれが何かを象徴した存在だと見ることもできるのだろうな、と思います。
 僕は、このシリーズの中に、作り手と受け取り手の関係性を象徴的に見てきていましたが、振り返って改めて彼女達一人一人の存在について思いを馳せていくならば、結局、「世の中」そのものを象徴しているところがあるのだな、と感じます。

 そのことは、何も特別なことではなく、物語というものが持つ、必然でもあるのでしょう。

 そうやって思った時に。
 「チアは応援する存在」ということを書いたわけですが、彼女達が画面の向こうで緊張して本番を待っている時、見ているこちらが応援するような気持ちになった事実にも思い当たります。
 身体の弱いゆーちゃんが最後まで頑張れるように、応援する気持ちも持ちましたし、チアに誘われた時の、「皆と一緒に一つのことができる」という喜びをかみ締めたみゆきを微笑ましく思ったりもしました。

 応援することとされること。

 そこには、境界線なんて無いのかもしれない。

 それはつまり、「作り手」にとっても「受け取り手」にとっても、それぞれの人がそれぞれの人生を生きることにおいて、境界線なんて無いんだ、ということでしょうし、「世の中」ということで言っても、やはり境界線なんて無いのでしょう。

 同時に、日常とイベントの間にも、境界線なんて無いのかもしれない。

 物語の中と、物語の外には、境界線なんて無いのかもしれない。

 誰にとっても、いつでも幕は上がるし、その先の未来が開けていくことも、誰にとっても境界線無く、ある。

 そして、そのことは本来、誰にとっても、地に足をつけて生きている日常での出来事。
 つまり、非日常なんていうものは、心の受け取り方の一つであって、それは、境界線の先にあるものではない。

 物語の中だけが眩しくて、その外はそうではない、なんていうことは無い。
 日常がつまらなくて、イベントだけが楽しい、なんていうことは無い。

 最後に、本番のチアを見せなかったことは、本当に良かったし、作り手として、本当に「品がいい」と思いました。パロディやらお遊びやらが満載なシリーズでしたが、僕はずっとこの作品の根本的な「品の良さ」が好きでした。

 
 
 
 幕が上がる時。

 彼女達と同じ方向から、

 幕が上がっていくところを見る。

 
 
 
 それは、作品を視聴することが、あるいは読んだり聴いたりすることが、「体験」であることを示してくれるものだと感じます。

 情報を受け取る、という作業なんかじゃない。
 そんなもんじゃない。

 「体験」。

 だからこそ、幕が上がった後の、彼女達の輝かしいステージを見せることをしない。

 それは、このシリーズが徹底して表現してきていたことからしたら、当然のことだと感じます。
 最後にそれをやってしまったら、「体験」ではなくなってしまう。
 見ているこちらが、情報を受け取る傍観者になってしまう。
 物語を傍観させてしまうことは、見る人にその人の人生を傍観させることにもなってしまう。

 だからこそ、この最終回は「美水かがみ劇場」の看板を掲げなかったのでしょう。
 最後の最後で、ステージと客席の境界線をとっぱらって、全員をステージに上げる。
 だからこそ、
 幕が上がるのを、幕の裏側から、つまりはステージの側から、彼女達と一緒になって見るのでしょう。

 境界線ということでいうと、あきらとみのるの間の境界線も無くなっていて、対等に怒鳴りあいながらコーナーを一緒になって作る関係になっていましたね。
 そうなった時に、「らっきー☆ちゃんねる」と小神あきらが本編に境界線無く、登場してくる。あきらとみのるが本編の中で何も取り繕うことなく険悪なまま共演する。

 登場人物が世の中の様々な構成要素を象徴するのであれば、彼らのあり方もまさにそれだと思います。
 悪感情を持つもの同士。だけど、それをぶつけ合いながらも、一つのものを作ろうとする。
 仲がいいだけで何かができるわけではなく、パーソナリティをぶつけ合いながら、「このやろう!」と思いながらも前進すること。それはやはり日常あることなわけですね。

 境界線無く、全ての人を舞台に上げる。
 そして、幕を上げる。

 そこから、先は。

 もう、
 ショー・マスト・ゴー・オン
 ということなわけですよ。

 それぞれの人が、日常の舞台の上で、自分自身の劇場で自分自身の物語を、当事者そのものとして、演じ続けていく。
 それしか、ない。

 それこそが、こなた達「チア」が応援してくれて背中を押してくれていることでしょう。

 このシリーズがずっと表現しようとしてきた「作り手と受け取り手の関係」というものが、これにて、完結、ということですね。
 文化祭前日のエピソードということから、「うる星やつら2~ビューティフルドリーマー~」のエンディングのパロディを最後にやるわけですが。
 「愛はブーメラン」ということでいうと、それは作り手の正直な気持ちだよな、と感じます。
 愛を込めて放り投げたところで、どこにもかすらず、戻ってきてしまうことだってある。
 その愛がちゃんと届くかどうかなんて分からない。
 でも、投げるしかないんですよね。
 作り手は。
 ちゃんと、届くことを信じて。ラッキーを信じて。
 そこが迷うしかない樹海であっても。
 何も無い荒野であっても。

 
 
 「体験」ということについて、なかなか説明が難しいな、と感じます。
 本来、物語を受け取るということは、「体験」としてあることなんだと思うんですね。感情が動いたり、追体験的に感覚を共有したり。
 でも、それが情報化社会ってやつの発展に伴ってなのか、すごく傍観されている感じがします。
 物語が情報になってしまって、消費されるだけのものになってしまっているのかもしれない。

 物語が体験であるということは、物語を受け取る人が、その人そのものであるからありうることなんだと思うんです。
 その人の感受性が、その人の日常の中に息づいているからこそ、物語はその人の体験になるし、その人の糧になる。

 だけど、それが情報として消費されるのだとしたらば、もしかすると、その人自身が自らを情報化してしまっているのかもしれない。
 しかも、主観的に、いびつに。
 あるいは、客観的に、押し込められるように。

 そうであるとしたら、ただキラキラと魅力的な「情報」を無作為に晒すことは、とても怖い。
 魅力的な情報を傍観させることは、その人の情報化をさらに促すことになってしまうのかもしれない。

 いや、変なことを書いているとは思うよ。
 思うけど、そういった、どこかイラっとするような違和感というものは、もう何年も感じてきていたように思う。

 だから、アニメーションシリーズ「らき☆すた」の持つメッセージに共感を抱くし、ラストの幕の描き方にすごくしっくり来るものを感じるんだと思う。

 物語を、自分の人生を生きている実感をベースに体験として心に受け止める、という当たり前のことを取り戻さないと、物語が物語として機能しない、そういう変な状況があるような気がする。

 物語のラストで、幕を閉じるのではなく、幕を上げる、そういう見せ方をしなければならない必然があるという、そういう状況。

 このシリーズが、そういう必然から生まれ、物語の受け取り方について、「幕」というものを使いメッセージを結実させたのであれば、それは物語が持つ、重要な要素として再認識すべきことだと思えます。
 つまり、今度は「幕を綺麗にしっかりと引く」そういう物語の番だ、ということですね。
 思えば、幕引きの上手い作品というのは、なかなか少ないようにも感じます。
 具体的には、漫画の世界なんかだと、人気作品はずるずる続いたり、編集方針で突然打ち切りがあったりで、幕引きの上手いものにめぐり合うことはかなり稀です。
 アニメーションでも、原作が続いているものだったりすると、幕引きを綺麗にスパっとやるのは難しいかもしれません。
 というよりも、そもそも「幕引き」って、すごく実力がいるものに思えます。
 でも、それは物語を体験として完結させるためにはとても重要なものなわけですから、作り手は、「幕」というものに対して、もっともっと意識を持つべきなのかもしれません。
 幕引きの上手い作品として、今なんとなく僕の頭に浮かぶのは、ジャック・ショルダー監督の「ヒドゥン」なんかですね。WOWOWで見た同監督の「ランナウェイ・カー」も見事にスパっと幕引きをしたなぁと印象に残っています。

 というようなことを、こうやって書いている自分自身が、この記事をどう幕引きするか、のところで詰まっておるわけでございますが。
 と、いうオチで幕を引けないものか、と思ってみたり。

 まぁ、とにかく随分長くなってしまいましたので、まとめます。

 境界線を引かず、幕の内側に登場人物も作り手も視聴者も、全員を配置したのは、「らき☆すた」が日常をテーマにした作品で、そうするべきメッセージを持った作品だったからだと思います。

 そういう表現だったからこそ、僕には「幕」という境界線の持つ意味が際立つものに感じられました。

 非日常だったり夢世界だったりを描く場合に、「幕」という境界線が視聴者を現実に帰すためにとても重要な要素になる、ということですね。
 「らき☆すた」もまたアニメーションで夢世界である、ということからするならば、「幕を上げる」シーンによって「幕を引いた」と見ることができます。

 「ここから先は、あなたの日常だよ」

 ということは、そのこと自体が境界線だとも言えるかもしれません。
 ただ、誰にとっても日常があり、イベントがあり、愛がありラッキーがあるということにおいて、境界線なんてない。

 自分の人生の幕が上がっていることを実感し、自分の人生の舞台に立っていることを受け止めるということ。

 それは、物語を楽しむ「体験」のためにも、とても重要なことなのでしょう。

 勿論、物語を作る者にとっても。
 僕にとっては「幕」というものの重要性を教えてくれたこの作品に出会えたことは、ラッキーでした。是非、作り手としての自分の今後の糧にしていきたいものです。

 受け取り手としても、自分の五感の全てでもって自分の人生を感じ、その上で、これからも多くの物語を楽しんでいきたいと思います。

 しかも、そのことを、
 これからも多くの人たちと一緒に楽しんでいけるのであれば、

 
 最高ですね。

 
 
 以上で、アニメショーンシリーズ「らき☆すた」の感想を終わります。
 いつもいつも、長い上に思い入れの強い言葉使いや表現を多用することで分かりにくくなってしまっている文章を読んで下さってありがとうございました。

 僕はこの作品をすごく楽しみました。
 感想を読んで下さった方が、一緒になって楽しんだ実感を少しでも得てくれたのであれば、幸いです。

 これからも、共々にいろんな作品を楽しみましょうね!
 ではでは、またです!

 参照:「映像言語」と「漫画言語」の具体的な違いの例。
    :「なぜアニメの感想を書くのか。どういったスタンスで書くのか。」
    :「物語り人(ものがたりびと)」であること。…学習機会レポート2
    :「物語作りの基礎。普遍的土台と誇張表現の調和により生まれる適度な感情移入…学習機会レポート」

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コメント

いままで、参考にさせていただきました。
ありがとうございます。
今後も、京アニ作品関連、読まさせていただきますので、よろしくお願いいたします。

投稿: sanz2007 | 2007年9月21日 (金) 01:39

どうも、半年間お疲れ様でした。少しコメントさせていただきます。ついに終わってしまいましたね。京アニさんにもだんちさんにも心から感謝の意を表したいと思います ><ゞビシッ

前の感想や自分のコメントを読み直していたのですが、ちょっと謝らなければならないことが・・らき☆すた第16話の8月9日のお返事の続きに気づかず読んでいませんでした。まさか「現実への還し方」まで考えてくださっていたとは、お心広し>< 1ヶ月以上遅れましたがらき☆すた最終話と絡めてお返事させて頂きます。

驚いたのはだんちさんが~の存在が気になるといった次の回でいきなりその人物がメインになっていたりすることが多いですよね(こなパパが・・といった次の回にあの感動回が・・とか)。何だ・・予・・予言的中!?と毎回脱帽していました。先日、原作~5巻と公式ガイドブックを読んだのですが、原作者の美水かがみさんって男性だったんですね;(汗。その美水さんがインタビューで語っていたことをちょっと紹介させていただくと、「本当は中学時代から初めて高校時代につなげたかった(あとちょっとで終わってしまう)」「TRPGで生まれたキャラ達であり、その影響からか、リアルタイムで時間を流すようにしている(無限ループせず必ず最終回を迎えてしまう)」「らき☆すた担当者に双子設定を却下されたがゴリ押しで通した」、等があるのですが、担当者何やってんだよ><
中学からのらき☆すた見たかったぞコノヤロー!そのうえかがみんとつかさまで潰そうとしていたとは・・コノヤロー!といった感じですが、しかたないですね。他の担当者だったらここまでブレイクしなかったかもしれないし・・他、「褒められるとすごくうれしくなる、反面叩かれるとすぐ凹む」「キャラクターは大事な娘達、カレンダーにキャラの誕生日をマークしている」読んでいて、ん?コレ誰かに似てないか?すごいいい人そうで・・えっと・・誰だっけ・・と思いついたのは、あっ、妄想界ブログのだんちさんだ!ということでした。他に、こなた、かがみは将来結婚してない、つかさ、みゆきは結婚している、とかいろいろと興味深い話もあったのですが、「そうじろうとひよりは自分の分身のようなもの」らしいです。世界で一番、自分の絵、らき☆すたを愛している(あのセリフ?)と言っていて、そうじろうも美水さんも将来学校の先生になりたかったという共通点もあったり。そういえばブログでも「あの感動エピソードは作家=そうじろうが書いた作品」って書いてあったなぁ・・やっぱりだんちさんすげぇ!と改めて関心しました。

おっとととっと・・脇にはずれすぎてしましました。申し訳ありません。「美水さんはやはりTRGP(友達とテーブルトークをしながら進めるRPG)という現実のなかで作品を楽しむ姿勢を大切にされている」というのがやはり印象的でした。アニメ最終話の脚本は美水さんだったらしいのですが、やはり評価は賛否両論なようで「意味がわからん」「もっと感動的にお涙頂戴で終わらせてほしかった」というものも多いようです(自分としては「あれ?最終回なのになんかさわやかな気分だ」という感じでお気に入りなのですが)。ここでも現実でもがんばれという作り手とアニメに没入させろという受け手との衝突があるようです。

それでもここまで大ブレーク。この大ブレークとこの衝突は何なのか、実は表裏一体なのではないか。実はあるときから僕は「らき☆すた=祭り説」という勝手な自説を持っていました。らき☆すた16話でのだんちさんとぼくとの「現実に帰らない人の解釈のズレ」はサブカル評論集団?の「第二次惑星会議」と本田透の「しろはた」系のズレと重なるようです。前者は現実に還らない理由を「本当は還れる能力を持っているのにトラウマが原因でそれを拒否している」、後者は「還れる能力がない。いつでもどこでもどんなに努力をしても嫌われてしまう者の帰納的学習」と捕らえているようです。実際にはどちらの人種もいると思います。本当は還れる臆病者もいればどこでがんばってもいじめられるどうしようもないヤツもいる。作り手側が「臆病だからだ」と解釈してしまう理由はおそらく、作り手の多くは頭がよく、能力があり、大体友達が多く、嫁や子供、家族に恵まれていたりして、「どんなにがんばってもダメなヤツ」というのが想像できないからではないかと思います。以前「現実へ還れ」という作品が流行った頃、それに救われた人々がいたと同時にそれを「現実に還れないヤツは死ぬしかない」と受け取り絶望する人もいました。酒鬼薔薇は「人の愛があるからこそ生きられる」という寄生獣の読者だったしエヴァの劇場版を見た後に山で首を吊って死んだ人がいるという記事を見たこともあります。その後、現実になんか還らなくていい。ひたすら萌えてろ。という作品が量産されまた欲望されるようになってくると、今度は自分が記号化してしまうという問題が起こってくる。そこにハルヒやらき☆すたが現れます。らき☆すたの場合V○Pやニ○動で毎週祭りになっていたし、作り手側も「こなたとパティ~のCM」のようにそれを意識してるようでした。です、感想を読むと「女子高生ががただ話してるだ、なぜおもしろいのか自分でもわからない」「でもらき☆すた終わったらクビ吊って死ぬ」と、かなり矛盾しています。らき☆すたはたしかに良作ですがクビを吊らせるほどのものでしょうか・・
もしかしたら「現実のコミュニケーションが持てないなら死ね」「いや、ひたすら萌えてろ」と言われてきた彼らにとって、「現実に還れなくてもいい。匿名でも仮面でもいい。ネット上でだけでも繋がろうよ」というメッセージを無意識に受け取っていたのではないか。その通りに毎週ネットでコミュニケーションをとり、ある時は仮面をつけてある場所に集まり「もってけ!~」を踊り警察が取り締まりに来た瞬間に解散・・という自分ではこんなの現実じゃない、馬鹿馬鹿しいと思っているコミュニケーションに実は感激していたのではないか。一人一人が名前を捨て一つになること、ある意味での祭りだったのではないか。宮台真司氏の「絶望・断念・福音・映画」という映画評論の本があるのですが、「脱社会化した者を社会にいる者が救うことはできない。脱社会化した者が救われるのはそれは脱社会化した者同士が繋がったときだ」というような文があります。もしかしたら、ネット上、匿名、仮面舞踏会、とういうのも一つの救いではないだろうか。それは本当の食品でないかもしれない。でもそれはただの点滴ではない、ちゃんと形があり、匂いがあり、味がある、インスタントやレトルトかもしれないがそれでも人間時代の懐かしさを感じさせてくれるもの・・ごく微量かもしれないけどそこには愛が行き来しているのかもしれない。

その祭りが終わってしまうから「死にたい」という感覚になるのでしょう。だからこそ、またハルヒやらき☆すたのような祭りを打ち上げてくれる作品を待ち望むのだろうし、きっとまた作ってくれるのだろうと思います。

とまたまた長くなりすぎました><;
申し訳ないです。論議をふっかけているのではなく、こういう人たちがいてこういう願望を持っているかもしれないという事を知っていただけたら満足です。

p.s.来期からもだんちさんのアニメ感想わくわく期待しているのですが、ご予定はありますか?(笑
また、前回匂わせていた「ひよりのでこっぱち」・・ぜひぜひ描いてください。ひよりんツボっス!おでこは正義っス!><

投稿: ミント | 2007年9月21日 (金) 06:48

書き忘れ

長くなりすぎて結論を書き忘れてしまいました

>それでもここまで大ブレーク。この大ブレークとこの衝突>は何なのか、実は表裏一体なのではないか。

らき☆すた製作サイドが現実とネット上の現実を踏み誤ったとき、そして受け手が繋がりを自ら繋がりを求めていることを否定しようとしたとき、こういう衝突が起こるのではないか。

ずっと俺達は虚構に没入していたい・・という受け手も本当は心のどこかで繋がりたいと思っていた。作り手もそれに気づいていた。そしてハルヒブームのときにネットで祭りが起こった。作り手もそれに自ら参加しようとした。だから、らき☆すたで祭りの当事者になろうとした。

この衝突は一つ科学融合が起こるときに出る火花のようなものだろうと思います。作り手が距離をつかみ、受け手が本当は繋がりたいと素直に認めることでまた祭りをいっしょに作っていくことができるのだと思います。

投稿: ミント | 2007年9月21日 (金) 07:30

>sanz2007さん、こんばんは。初めまして^^
「らき☆すた」感想、読んで下さってありがとうございます。作品を楽しむ上で何か少しでもお役に立てたのでしたらとても嬉しいです!

今後も、感想やら二次創作やら、いろいろと書いていきますので、どうぞこれからもよろしくお願いいたします!^^

 
>ミントさん、こんばんは^^
労いのコメントありがとうございます!
読んでいただいて、コメントをいただいたりすることで励まされ、こうして最後まで感想を書ききることができました。
少しでも楽しく読んでいただけたのでしたら幸いです^^

それに、今回も一生懸命書き込んで下さったコメント、楽しく、しっかり読ませていただきました。こうして、思ったことを伝えようとすることが、ミントさんにとって少しでも有意義なことになっているのでしたら、こうやって感想を書いてきた甲斐もあるというものでございます^^

≫何だ・・予・・予言的中!?

いやぁ…当たったところの印象が強いだけで、割と適当なこと書いているんですよね^^;
最終回で黒井先生が皆からの愛を受ける展開があるかな、と予想していたところもあるのですが、見事に外れましたし。

≫原作者の美水かがみさんって男性だったんですね;(汗。

マジっすか!!?初めて知りました。すっかり女性だとばっかり思い込んでおりました。
最近は女性ですごく力強い線を引く方も多いですし、わからん時代になってきたものです^^;

編集者との打ち合わせで、担当の方の考えというものもあったのでしょうけど、そこで双子設定をゴリ押しするところはさすがですよね^^

しかし、僕に似てらっしゃる部分があるんですか?^^;勿体無いことで恐縮でございます。
でも、僕はけっこういい人じゃないっすよ^^

かたなのエピソードのことで「そうじろうが書いたお話」と書いたことは、解釈の仕方の一つということなわけですが、それをある程度正解に近いものと見ることも、やはり可能なのでしょうね。
それは、僕も漫画を描いていますから、漫画を描く人間のことが分かる、という部分があるのだと思います。
少しは、専門家の面目を保てたかもしれませんね^^

美水先生が学校の先生になりたかった、というエピソードは、なるほど!と思わされます。
つまり、黒井先生にもご自身を投影している部分があったのでしょうね。なりたかった自分、という部分かもしれませんし。

先生がTRPGプレイヤーであることも、非常に納得です。
仰られる通りで「現実のなかで作品を楽しむ姿勢を大切にされている」ということなのでしょうね。

最終回の評価に関して、僕は人の評価をほとんど知りません。
ただ、賛否両論という部分に関しては、まぁそうだろうな、と思います。
何度も演劇を引き合いに出していましたが、舞台演劇なんかを好んで観た経験のある人には、すごくわかりやすい作品だったと思います。
そういったこともあって、「らき☆すた」を好きな人に舞台演劇を見て欲しい、とお薦めする記事を改めて書いてみたんですね。
「体験」ということでいうと、経験値を必要とする作品である部分もあるように思います。それは同時に、この作品が「経験」になる、ということでもあります。
だからこそ、この作品は必然があったなぁと思うんですね。
そういう観点からすると、分からない、こうして欲しかった、というような評価は衝突ではなく、ただの正直な感想なのだと僕には感じられます。

「面白い」と思いつつも、「何が面白いのか分からない」ということは、何も不思議なことではなくて、「分かる」ことと「面白い」こととがそもそもイコールなんかではない、ということだと思います。
だけど、「情報化」教育の影響もあってのことでしょうけど、「分かる」ことが「面白い」ことよりも優先されてしまう側面が、受け取り方としてあるように感じます。
「分からない」ことがある種の恐怖感を与えるのでしょうね。だけど、分からないことは、何もおかしいことではないし罪でもない。また、分からないものがおかしいのでもないしそれが罪悪でもない。

だからこそ、
分かりやすく情報化されたものは、麻薬になってしまうし危険もあるよ、ということなんですね。

だから、「この作品は品がいい」と何度か書いてきたわけです。
なんて優しいんだ、なんて親切なんだ、と感じるんですね。

頭ではよく分からないかもしれない。だけど、好きだし面白いと思う。
それは、何なんだろう?どういうことなんだろう?と考える。

それは、先に心が動いて、そんな自分をより知ろうとすることになっていくでしょう。

それが、多くの人にとって有意義な「体験」になっていって欲しいなぁと感じます。

さて。今後のアニメ感想ですが。楽しみにして下さってありがとうございます^^
とりあえずは、書きたいテーマを見つけたらその都度書く感じで今は考えています。一本通して全話書くのは時間的になかなか難しいので。
あと、ひよりのでこ、描きたいですねぇ^^
今は「SweetHome」を描くことに集中していますが、ちょこちょこ落書きしてみて、アップできそうなものが描けたらアップしてみますね。

これからも、あれこれ語りたいですね!
ではでは、またです^^

投稿: だんち | 2007年9月28日 (金) 02:05

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