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2007年10月26日 (金)

落書き。裸ダッフル有希。あるいは「欲しがる」シリーズ。

 こんにちは、だんちです。今日も落書き。

Wantsyuki
 
 
 
 
 
 
 
 裸ダッフルで何かを欲しがっている有希ちゃんでございます。
 仕事ラッシュが控えていて、いろいろしなくちゃいかんのですが。そういう時は、何も考えずに落書きをしたくなります。

 以前描いた裸ダッフル有希が、意外とアリっぽかったので、また描いてみようと思ってて。
 でも、どういうのを描こうかな?とちょっと考えて。
 「何も考えずに」と言いつつも、本当に何も考えないで描くと、あたりまえなんだけど「何も考えていない絵」になっちゃって、それはそれでつまんないんですね。

 んで。はたと、「目を閉じて、口を開けて、何かを求めて待っている」という絵面が思い浮かんで。

 おぉ。それを描こう。
 そして、それは有希だけでなく、いろんな女の子で描こう。それぞれの女の子が欲しがっている落書きをしよう。
 と思い至って。
 なわけで、今回のこれは「欲しがるシリーズ」の第一弾、ということで。

 あと、みくる、妹ちゃん、朝倉、鶴屋さん、佐々木を描こうかな、と思っております。
 見る人に「嗚呼…この口に何か入れたい…」と思ってもらえるような、エッチっぽいヤツを描けたらいいなぁと思いつつ。
 ちょこちょこ落書きしていこうかな、と思っております。

 
 雑談。
 「灼眼のシャナ」の小説、一巻を読了。
 冒頭を読んだ時点でも思ったことだったのですが、最後まで読んでみて、やはり「物語は時代の必然から生まれるよな」ということを改めて感じました。
 主人公が置かれた事態と、そこで感じることは、読む者にとってとても象徴的で「現実的」なものがあります。読んでいて「そうだよな、そう書くよな。それが、物語を作る者のすることだよな」と、楽しみながら多いに共感を持ちました。
 ファンタジックな出来事が物語の中で起こっていたとしても、その物語が与えてくれる意味というものが、受け取る者にとって、現実的な「体験」として感じられなければ、その受け取り手は「妄想の中に意識を飼い殺されていく」ことになってしまいます。
 そうではなく、物語を象徴的に形作り、現実に生きる読み手に、「生きていくための糧」たるものを与えていく。
 それが、物語を作る人間のすることだし、役割なんですよね。

 物語を作る立場、あるいは「物語そのもの」は、必然から生まれていって、役割を与えられていくもの。

 自分の意思でその立場になっていったり、物語を生み出していったりするんだけど、それは一面的なもので全てではない。

 ということですね。
 逆に言うならば。

 役割があれば、その人は作るべき物語を生み出すことになる。

 ということにもなりますね。
 つまりは、「クリエイター」というものは、「職業」ではなく「役割」ということ。
 そんなことを、まずは一冊読んで思ったりしました。
 続きも順次読んでいってみて、何を感じるのか、楽しみでございます。

 物語を生み出す立場の役割とか必然とかについては、改めて文章にしたいと思っております。また、久しぶりに長文書きたいし。

 
 あと、「劇場版ZガンダムⅢ星の鼓動は愛」のDVDも買ってきました!
 ハイテンションの90分を、劇場で見た時以来久しぶりに堪能いたしました。
 やっぱり、カミーユが「それは違う!」と明確に否定するところが無茶苦茶気持ちいいです。
 「そうなんだよ!それだよ!違うものは、違うんだよな!」と、本当にスッキリします。

 改めて見て思ったのは、シロッコが「悪」として描かれていることから、「勧善懲悪」的なシンプルな構図に思えるところもあるのですが、「悪」はあっても「善」、「正義」というものは描かれていないんですよね。

 僕は、学生時代法学部だったので、「不正義を定義することはできても正義は定義できない」という客観的な現実を学んだりしました。
 「劇場版Zガンダム」はフィクションでロボットものでありながら、その現実があるな、と感じました。
 正義はどこにもない。だけど、悪は認識できる、「それは違う」と言うことができる。

 立場を変えれば、「悪」が違った認識にもなって。
 シャア(クワトロ)を「悪」だと見る者もいれば、シロッコを「悪ではない」と見る者もいる。
 「星の鼓動は愛」では、三つ巴の展開の中で、その認識がコロコロ入れ替わっていってスリリングなのですが、「倒すべきものと戦う」という構図はずっと変わらないんですね。

 「倒すべき相手」がコロコロ変わっていくのは、「正義」が存在しないから。

 あぁ、それはすごいな。
 と、改めて思いました。
 確かに、人間は「正義」を認識することはできなくっても、「それは間違っている」という「不正義」を認識することはできるよな。できることをする、というのは生きる上でまずもってとても大事なことだよな、と。
 人間は、実はとてもシンプルに生きているから、男と女はどんな状況であっても抱き合うことができるのかもしれない。

 でも、まぁ。
 そういう現実があるからこそ、シャアがキレちゃって「逆シャア」で「粛清するのだっ!」とか言い出してしまったのかもしれませんね。「今すぐ愚民どもに叡智を授けてみろ!」とかね。
 若いカツもそういう現実に適応しきれなかったし。

 現実を生きることに、ニュータイプもオールドタイプもないのでしょう。

 そう、感じたことは、僕にとってはとてもスッキリとするものでした。
 今度時間作って、「劇場版Zガンダム」一気鑑賞をしてみよう。
 そこでまた、何か感じることがあるかもしれませんね。

 あと、特典DVDの富野監督とGacktの対談もとても面白かった。物語を作る人間としては、非常にヒントになるキーワードがいくつか出てきていたし。
 特典のメイキングも、今度全部見直してみよう。

 
 だいぶ、「補給」も落ち着いてきたかも。
 また、仕事やら落書きやら同人誌やら、いっぱい頑張ろうっと。

 ではでは、またです!

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コメント

こんばんは。mementoです。
変質者さんの定番アイテム、“裸+コート”のアレンジで“裸+ダッフル”というコーディネイトは、とても常人の思いつくものではありません。あらためて敬服いたします。
僕も今年はコートを新調したんで、もう少し寒くなったら着ようかな、と思います…もちろん裸でじゃないですよ? 念のためにいっときますが。

「シャナ」や「Zガンダム」の感想を読んで僕なりに思ったのは、今(以前から?)だんちさんが心に留めておられるのは、“現実に即して物事を考える”ということなのではないか、ということでした。僕も本来考えるというのはそういうことだと思うし、「シャナ」はアニメも原作も知らないので、「Zガンダム」に関してだけいうなら、最後までカミーユがシロッコに対して、自分の正義を提示できなかったのは、なるほどそれが現実だよなあ、と感じます。

シロッコはいかにもエリートにありがちな観念論者だから、正義ってのもロジックで捉えてる…だから割りとあっさり簡単に、正義なるもんをこれこれこうだ、みたいに把握して、カミーユにも説明できたりしますけど、本来的に正義といったような倫理に属するものって、ロジックとは異なる領域に存在するもんだと思います。「∀ガンダムにおける君主論」でも、まあ同じこといってるんですけど、殺すこと、盗むこと、奪うことがなんで悪いことか? ってのを、一から十までロジックで説明できる人がいるかったら、いないと思うんですよ。それは“正義とはなにか?”ということに関しても同じで。
実をいうとTVアニメで放映中、それを見ていた僕は、この「Zガンダム」にどうにも消化不良な印象があったりもしたんですが。たぶんそれは、だんちさんが指摘しておられる、
「主人公が明確な正義を提示できないにも関わらず、敵の掲げる“正義”は否定する」
ってところに引っかかりがあったからかもしれません。いってみればこれって、代案がないのに反対だけはしてみせる、っていう、僕の一番嫌いな“野党的ポジション”ですからね。
だから明確にロジックで代案提出できないカミーユは、最後にシロッコと決着つける場面ともなると、ロジックから遠く乖離して、なんやら宗教がかった感じにまでなっちゃって…そこのところでの、納得しがたい思いが、子供の僕にはあったんだと思います。ぶっちゃけ簡単にいってしまえば、
「主人公ならもっと、スカッと勝ってほしかった」
ってことなんでしょう。
エンターテイメントとしては、嘘でもいいからとりあえず、主人公が敵よりも納得できる“正義”を提示できるほうが、収まりがいいわけですよね。でも、それをしなかったのは、あの当時の富野由悠季監督の、正直な本音だったんじゃないかと思います。
ある意味、富野監督ってあんまり器用な人じゃないんでしょうけど、そんな人だからこそ、僕は彼の作品に子供の頃から今に至るまで、ずっと惹かれつづけてるんでしょう。小さい頃には不満だったけど、あのときに子供心に引っかかるようなテーマを投げかけてくれてありがとう、といいたい思いが、今の僕にはあります。

〉現実を生きることに、ニュータイプもオールドタイプもないのでしょう。

明確な正義の提示されない、曖昧な現実を生きるのは辛いですね。シロッコとかシャアみたいな、観念主義的エリートのほうが、その曖昧さに我慢できなくなったときには、激しく、性急にキレちゃうんでしょう。
「潔癖症は辛いわよ」
って、なんの台詞だったか忘れましたけど、なまじニュータイプなんて理想モデルが実在するっていうのは、潔癖な人にはよけいに辛いことになりそうです。「逆シャア」で面白いのは、その理想モデルであるアムロが、割合なあなあで現実に寄り合って生きてる、潔癖でない人だってところでしょうか…ま、正直僕は富野作品大好きですけど、ニュータイプ論だけは頭から尻尾までさっぱり理解できない、って類の面白みのない即物的人間なんで、
「“人の革新”なんて遠大なこと考える前に、まず身の回りの女の整理のこと考えろよ、シャア」
とかって思っちゃったんですが。や、それってニュータイプどうこうってことより、結構大事だって思いません?

ひさびさの長文コメントで恐縮です。とっくにご存知のことかもしれませんが、「ガンダム」及び富野作品関係となると、どうやらスイッチが入ってしまうようです。
いいかげん長々と書きすぎなんで、ここらで失礼させていただきます。
それでは。

投稿: memento | 2007年10月31日 (水) 19:42

mementoさん、こんにちは^^
久々の長文コメント、ありがとうございます。お待ちしておりましたぜ!!

>とても常人の思いつくものではありません。あらためて敬服いたします。

あはははは!!(笑)ちょー誉められてる!!
恐悦至極にございます^^

>僕も今年はコートを新調したんで、もう少し寒くなったら着ようかな、と思います…もちろん裸でじゃないですよ? 念のためにいっときますが。

お!いいですね。新調したコート!裸コート、逮捕されないようお気をつけ下さい^^

>「シャナ」や「Zガンダム」の感想を読んで僕なりに思ったのは、今(以前から?)だんちさんが心に留めておられるのは、“現実に即して物事を考える”ということなのではないか、ということでした。

なるほど。作品が鏡になって視聴するその人間の意識が浮き彫りになる、という観点からのことですね。
確かに仰られる通りだと思います。
物語を「体験」として捉えるのも、自分の現実の目と耳とで受け取る創作物は、現実の自分の「心」に作用するもので、つまりは「人間には現実しかない」ということからくるのだと思います。
結局は、右腕と左腕の間にある「ここ」で何をどう感じるのか。しか、ないとゆー。
だから、「Zガンダム」でカミーユが「それは違う!」と叫ぶところがすごく好きなのでしょうね。
都合良く現実を捻じ曲げることは、大きいことでも小さいことでも、それは「悪」だ、と感じているし、鏡となる作品によっては、それは「哀」と感じられる。
で、感じたものを自分の糧にしていく、というプロセスが「現実に即して物事を考える」ということになるのでしょうね。

シロッコって「木星帰りの男」なんて揶揄されて表現されているわけですが、エリートというよりは、「能力があるのにはぐれていた田舎者」みたいな感じなんでしょうね。
ハマーンもアクシズで時の流れに取り残されていて。
そういう彼らが凄まじい勢いと力を持って、「エリート」としての地位を作り上げたティターンズを、ある意味あっさり駆逐してしまう(あるいは手玉に取る)のもまた面白いですよね。
そこにあるのは「怨念」に近いものなんだろうなと感じます。
ハマーンにはミネバがいたから、もうちょっと冷静でいられたようだったし、「国が欲しい」という彼女の正義は理解しやすいものがありました。
シロッコは怨念に支配されているから、女を利用しようとするし、見境がないんですよね。

>「主人公が明確な正義を提示できないにも関わらず、敵の掲げる“正義”は否定する」

ということに対する違和感は、富野監督はかなり昔からそれを指摘した作品を作っていましたよね。「トリトン」しかり「ザンボット」しかり。
思い返してみても、昔から今に到るまで「正義の味方」は基本「不正義の駆逐者」であるように思います。
「地球を侵略しようとするヤツらがいる」「そいつらを倒せ!」「人に悪さをするヤツらがいる」「そいつらを倒せ!」という。
でも、その単純化した構図の中にも、フィロソフィーを込めることはできるのでしょう。
ファーストガンダムでは、ララァがアムロに「あなたには家族もいなければ人を愛してもいない。なぜ戦うの?」と強烈な言葉を叩きつけましたが、ホワイトベースが全てだったアムロには戦う理由があったし、それはミニマムな正義であっても、彼にとっては真実だったのだと思います。

孤独だからこそ、孤独にはなりたくない。
だから、戦う。

それに対してカミーユにとって戦うべき理由は何だったのか、というと「シャア」だったのだろうな、と感じます。
そして、「レコア」もそうですよね。
母を失い、父を失い。そんな彼は目の前の大人にすがるしかない。テレビ版ではブライトが「カミーユの父親代わりはできない」と嘆いていたことがありましたが、失った家族を見つけ出そうとすることが、カミーユにとっての正義だったのでしょうね。
カミーユが「それは違う!」と言い放つところは、シロッコとハマーンによってシャアが追い詰められた絶体絶命の場面だったわけですが、カミーユにとってはロジックではなくとも、それは「父親を守ろうとする」ような振る舞いになっていたのかもしれません。
その意味では、目の前で母親と父親を失ったことを繰り返さない、彼が成長した姿を示す場面となっていたのでしょうし、だからこそ、僕はこのシーンが理屈抜きで無茶苦茶好きなのかもしれません。
彼が、誰かを守りきった(目の前の出来事に関しては)唯一の場面だったわけですから。

僕はすっかりテレビ版の印象は薄くなってしまっているのですが、劇場版を見て、「不正義」に対して「明確に否定する」という少年の姿、個人のあり方が描かれたところが非常に良かったと思っています。
そこには、「正義を提示する」ということは最初っから無くって、「いかなるものが不正義か」ということのフィロソフィーこそがあったのだろうな、と感じます。
それは、「映画」だからできたことなのかもしれませんね。

>「“人の革新”なんて遠大なこと考える前に、まず身の回りの女の整理のこと考えろよ、シャア」
>とかって思っちゃったんですが。や、それってニュータイプどうこうってことより、結構大事だって思いません?

あはははは(笑)
シャアは基本、ファザコンなんだっていうのが僕にはあって。育ての親がラル家だったりすることもあって、生の父親をよく知らないところがあるのでしょうね。だから、理想化してしまった父親を求めて観念的になってしまうのかもしれません。
家庭環境がその家の子供の将来的な男女関係にも影響を及ぼす、ということも「リアリティ」なのかもしれませんね。

>とっくにご存知のことかもしれませんが、「ガンダム」及び富野作品関係となると、どうやらスイッチが入ってしまうようです。

ええ。存じ上げておりますとも!!お忙しいところいただく長文コメント、いつもとても楽しく読ませていただいております^^
こちらこそ長文でお返事させていただいて、書いていくうちに自分が何をどう感じたのかが明確になっていって、とても有意義でした。
よろしければ、今後もスイッチ入れまくりで一緒にあれこれ語り合えれば、と思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします^^

ではでは、またです!

投稿: だんち | 2007年11月 5日 (月) 04:10

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