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2008年3月20日 (木)

録り溜めていた「CLANNAD」を一気に21話まで見た。

 こんばんは、だんちです。
 昨日、録画して溜めていた「CLANNAD」を10話から21話まで一気に見ました。見終わった直後はさすがにふらふらになりました。
 いや、でも楽しかったですよ!
 なので、久々にアニメの感想を書きたいと思います。
 原作には全く触れていません。アニメだけを見た印象と感想でございます。

**********

 風子のエピソードまでは、リアルタイムで見ていたのですが、そこで一息満足したので、しばらく録画して溜めておいて、気が向いたら見ようと思って機会を窺っていました。
 で、昨日見てみようと思い立ち、流し始め、配偶者と一緒にそのまま一気に最新話まで見てしまいました。

 なんというか、普通に非常に面白いですね!

 キャラクターがみんなとても可愛いし丁寧に描写されているので、気持ち良く楽しめました。
 話の進み方もテンポが良く、多くのドラマも整理されて提示されるので見やすいですし。

 あれこれ考えることなく、ただ目の前の物語をそのまま楽しむ感じで、肩の力を抜いて、ただそのまま、泣いて笑って楽しんで、という感じでした。

 もちろん、見ていれば先のこととかが気になるわけですが、目の前の物語の現在というものを、ドラマの時間軸通りに受け取っていける、とても自然な時間の動きを感じるフィルムだなぁと思いました。
 で、それは、エピソードが流れていって過去になっていく時間が積み重なっていくものに感じられて、だからこそ目の前の現在のドラマをそのまま受け取っていけるんだな、と感じました。

 そういうことで言うと、実際、キャラクターの過去エピソードというものが随所に出てくるわけですが、そのある種の「定型」もキャラクターの「現在」を描くためのものなんだろうな、と思えます。

 僕の、物語の見方は「そこにあるメッセージ(意図)を感じ取る」ことが主体になるところがあって、それが僕の「作品とのコミュニケート」でもあるので、感想もそういったところが中心となるわけですが。
 その見方で感想を進めると、その「キャラクターの現在」を動かし続けているところに、意図を感じます。

 主要な登場人物は高校生達なわけですが、そういった若者達は、通常「未来ある」者達として、認識される存在だと思います。
 学校で本来主体となる勉学なんて、未来のためのものなわけですし。

 なんだけど、この作品では「未来」については、近い部分のことくらいしか出てこなくって、それは「高校生としての現在」の範囲内だと思えます。
 むしろ、過去の問題が現在に影響している部分がフォーカスされることで、「現在」ということそのものが、彼らの問題として描かれている。

 言ってみれば、彼らは「未来のために生きている」のではなく「現在を生きている」ということなんだと思えます。
 でも、そのことは、実際「当たり前」のことなんですよね。
 その「当たり前」のことが描かれるから、僕は普通に目の前のドラマをそのまんま見ることができるのだと感じます。

 主人公達が、進路という「未来」を考えなければいけない高校三年生という設定で「現在を生きる」ドラマを描く。そこにもまた意味を感じるところです。

 
 
 人が生きてるのは、現在なんだよな。

 それは、子供も大人も関係ないことだよな。
 
 
 
 なんていう、そういう本来当然のことを見ていて改めて感じました。
 そういった部分をフォーカスしていくことがあるから、恋愛描写はありつつも「恋愛」そのものが物語の主体になっていかないのかもしれませんね。
 「恋愛」って、未知の未来に対する冒険を求めるニュアンスが出てくると思うんですよ。
 恋愛の前段階でよく言われる「今の関係を壊したくない」ということなんかが象徴的で、物語における「恋愛」は現在のその先のもの、変化していく未来を表すものであるように感じます。

 「現在を生きる」という部分をフォーカスし、そこにテーマを持つのであれば、なるほど、恋愛描写はこうなるよな、ということを感じます。
 (そう思ってみると、朋也に恋をしている椋が占いが当たらないことを「未来は一つではないと思える」と言うところなんて、象徴的ですよね。)

 「現在を生きる」というのは、つまり「日常」に向き合う、ということでもあると思います。

 「物語」というものの性質を考えると、それは、「非日常」というもので、その非日常は様々な機能を持つため、物語は人の心に影響を与え、日常の中で必要なものとして、古今東西あり続けるものとなります。
 物語があるから、人は日常に向き合うことができる。
 僕は、そう思っていますし、物語作りを仕事にしているので、そのことに自分が生きる意義を見出しているところもあります。

 「CLANNAD」という物語の中で、ヒロインの渚は、お芝居をしようとする。
 物語を演じようとする。
 それは、「現在を生きる」ためにこそ、出てくることなのだろうな、と感じます。あれだけ、演劇部再建を志し、舞台に立とうとすることに、彼女は必然を感じている。
 そして、その必然を支える朋也。
 「現在を生きる」彼らが見せようとする「物語」。あるいは「物語」を築こうとすること。そして、そのドラマを作り上げ視聴者に見せていくこと。
 そこに、この作品の持つ意義を感じることが、やはりできるのではないだろうか、と感じています。

 一緒に見ていた配偶者が面白いことを言っていました。
 「これは、メルヘンだね」
 と。

 「メルヘン」とは、現在の日本では「おとぎ話」とか「童話」という捉えられ方をしているのですが、配偶者は最近「季刊エス一月号~メルヒェン」を読んでそこで知った「メルヘン」の意味を教えてくれました。

 この雑誌の中のインタビュー記事で、文学者宮下啓三氏がメルヘンについて種々語っていらっしゃるのですが、それによると「メルヘン」とは元々ドイツ語の「メールヒェン」から来ていて、「メール」は「知らせ」、「ヒェン」は「小さい」という意味なのだそうです。
 つまり「小さい知らせ」。
 それが「耳新しい話」という意味合いを持つようになって、「聞いたことのないような不思議な話」という意味が込められていって、それが「実際には起こりそうもない不思議な話」という意味に変わってきたのだ、とのこと。

 で。日本では大正の終わりから昭和の始め頃に大学生達がドイツ語も勉強するようになって、詩や文学の中でメルヘンという言葉が出てくるようになったんだそうです。

 その頃の使われ方は、涸れた河原にさっきまで見えなかった水の流れを感じたことをメルヘンだと言ったり、木立の中の古い地蔵を見て「ああ、メルヘンだ」と感じたり、ということだったとのことです。
 つまり、今使われている「メルヘン」とはかなり意味の広さが違ったんですね。
 で、宮下先生は、このインタビューの最後で、

「日常をいつもと違う視点で見てみよう、というところからメルヘンは生まれます。極端な話、個人の気持ちやとらえ方ひとつで、普通の事がメルヘンにもなり得るということです。本来、メルヘンというのは年齢性別を超えた深く豊かな世界であるのに、何か条件のようなものを一生懸命つくりあげて、柵で囲んでしまっているように思います。今一度、それを取り外して考えてみてはどうか~」

 と仰っています。
 そのことを受けて、配偶者は「日常があるからメルヘンがあるんだ」と言うんですね。で、「それが風子に象徴されているよね」と。
 物語の中で登場人物達は彼らの日常を生きているわけですが、その彼らに絡んでくる風子の存在を受け入れて物語を見ていくことは、まさに「条件の柵を取り外す」ことなのだな、と僕も思いました。

 「現在」という日常を生きる朋也達。そこにメルヘンがある。
 見知らぬ庭に迷い込んでみたら女の子に出会った、というのもメルヘンだし、ちょこちょこ現れる風子はまさにメルヘンだし、おまじないや占いもメルヘンでしょう。
 朋也や春原があの外見やしゃべり方で「不良」ということもメルヘンだと言えるし、朋也があれだけ女の子に好かれるのだってメルヘンですよね。

 「現在を生きる」、等身大の若者を丁寧に描写しつつ、メルヘンを配置していく。

 そのバランスは、アンバランスに見える部分もあるかもしれない。
 でも、それは意識的であって、意味のあること、なのでしょう。

 つまり、「CLANNAD」を、「アニメーション」を、「物語」を見ている者にとって、その目の前の作品そのものがメルヘンで、そのメルヘンは、元々持っている意味合いで描かれることによって、見る人の日常の中の条件の柵を取り払う機能を持つものになるのかもしれません。

 僕は、京都アニメーション作品、「らき☆すた」の最終回の感想で、「ステージで幕を上げるところで終わることに意味がある。ステージから見て幕が開く描写は、視聴者のステージの幕を上げることを示唆して、そこに作品の意義を完結させている」というような感じのことを書きました。
 で、「今度は幕を降ろす作品の番かもしれない」ということも書いたんですね。
 「CLANNAD」を見ていて、やはりそうかもしれないな、という印象を持っていました。実際、「演劇」が絡んでくるわけですしね。

 幕が降りるということは、メルヘンが終わることを意味するわけですが、「個人の気持ちやとらえ方ひとつで、普通の事がメルヘンにもなり得る」というメルヘンの機能が見る側に生じるのであれば、それはやはり見る側にとって「次の幕が開く」ことをも意味することになるのかもしれません。
 そのようなことを感じるにつけ、「CLANNAD」は、今この時に放映されるべき作品なんだな、ということを改めて感じます。

 物語の存在そのものがメルヘンで。
 それは、日常を生きる僕らにとっては、朋也達にとっての風子のように、忘れてしまったとしても大切なものかもしれないですね。

 「CLANNAD」というメルヘンが、どのような幕の降ろし方をするのか。
 それによって、何を感じるのか。
 とても楽しみです!

 以上で、「CLANNAD」21話までの感想を終わります。
 ではでは、またです!

 (ちょっと今読み直して推敲する気力が無いので、とりあえずアップしておきます。修正等は時間みつけてちょこちょこやっていこうと思います。変なところがいろいろあるかもしれませんが、ご容赦いただけたらと思いまする。)

**********

 久々に長文を書きました。
 一気にある程度の長さを見たので、整理して語ることもなかなかできず、煩雑な感想になってしまったかなぁとも思いますが、元々「感覚」で語ってしまう方なので、ご容赦をば。

 メルヘン話は、配偶者から聞いて、「面白い!」と思って感想に混ぜていったのですが、「メルヘン」と「物語」が僕の中でかなりイコールになって認識されたため、ちょっと混乱した内容になってしまったかなぁとも思うのですが、なんとなくニュアンスが伝わるといいな、と感じます。

 何はともあれ、僕にとって、視聴者としても物語を作る者としても、非常に楽しい、そして共感を持つ作品です。
 まぁ、ちょっと、やたらと「事故」が多いのは、見ていてさすがに「ははは」と思ったりもしてしまうのですが。でも、それによって多くなる「同情すべきエピソード」の一つに、作中で春原が「そんな同情を買おうってヤツの言うこと聞くな!」みたいにぶちまけるところが象徴的で非常に面白かったですし、意味を感じます。

 同情するとかされるとか。
 それって、別に悪いことでもなんでもないんだよなぁ。って、改めて思ったんですね。
 同情すべき履歴を持っている人は、多いと思うし、僕にも人から見たらそういういところもあるでしょうし。
 でも、そこで力むこともないよなぁって。
 「可哀想に」と思うなら、そう思っていいし、「力になってあげたいな」とか「励ましてあげたい」「慰めてあげたい」と思ったりすることも、当たり前のことで、普通のことですから。
 結局は、同情して何をするのか、何を言うのか、の部分が大事なんでしょうね。
 その意味では、バスケ勝負の時に、朋也に「シュート!」と叫んだ渚のエピソードは象徴的なのかもしれませんね。

 と、結局感想が続いてしまった。
 まぁ、やたらと事故が多かったりするのも、物語を最後まで見ていくことで、改めて感じることもあるかな、と思いますので、その部分もまた楽しみです。

 そんなわけで、またです!

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コメント

当日は、最終話を観た上で臨むつもりですので、宜しくお願いします。

投稿: Akihiro Inda. | 2008年3月20日 (木) 23:44

Akihiro Inda.さん、こんにちは^^
先日はお疲れ様でした&ありがとうございました!

いろいろお話できて楽しかったでございます。またこちらに来る時は是非またお声を掛けて下さいましね!

ではでは、またです^^

投稿: だんち | 2008年3月27日 (木) 13:13

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