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2008年3月21日 (金)

テレビシリーズ「CLANNAD」最終回を見た。

 こんにちは、だんちです。
 TBSにて「CLANNAD」最終回を見ましたので、感想を書こうと思います。
 原作にはまったく触れておらず、劇場版も見ていません。テレビシリーズのみを視聴した印象と感想です。

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 非常に爽やかに終わる最終回でした。
 「現在を生きる」彼らの問題が決着していくことで(解決するのではないけれども)、彼らは未来に向かっていける。
 だからこその告白シーン。

 朋也はそれまで「親のこと」「不良であること」があるから「恋人は作らない」としていたわけですが、渚を自らの恋人にするということは、その両方に対して向き合う、ということを意味していて、その第一歩が父親に対しての、あの精一杯の一言だったわけですね。
 不良っつぅのが将来のことを考えずに怠惰に生きることを意味しているのだとしたらば、どういう生き方をするかを考えるということでしょうから、就職するなり何なり、考えるということでしょう。

 渚と共に歩むことで向き合ってきた朋也の問題。二人で力を合わせてそれぞれの問題が決着して、そして恋人同士になるラスト。

 非常に良いドラマで、配偶者共々とても楽しみました。
 とにかく、登場人物がみんな可愛いっすからね。どいつもこいつも。後半になっていくにつれ、特に可愛さがぐいぐい増していったように思います。
 渚ちょー可愛い。
 春原がまたいいヤツで最高でしたね。

 番外編も楽しみです!!

 さて。
 主だった感想はそういったところなわけですが。あとちょっと思ったことを思うまま適当に書いてみようと思います。

 21話までを見た感想で、「幕の降ろし方」のこととか、「事故がやたらと多い」こととかを書いたりしていたのですが、最後まで見てくる中で、「なるほど」と思いました。

 まず、事故のことですが。
 朋也がお母さんを事故で亡くしていて。風子が事故で意識不明になっていて。ことみの両親が飛行機事故で亡くなって。りえが事故で腕に故障を抱えて。
 とにかく、一つのシリーズの中でえらく事故が多いな、という印象がありました。りえの事故の話まで来るとさすがにちょっと「またですか」と正直うんざりするところがありました。
 というのも、僕も車を運転しますから、いつ事故を起こす側になってもおかしくないという緊張感があるんですね。だから、事故の加害者を描くことなくやたらと被害者ばっかり出てくることには、心理的な抵抗感が強くありました。
 被害者ばっかり出てきて「事故が」「事故が」と言われることが、あまりにフェアじゃないな、と感じて。ただ、その印象に関しては、最後まで見ていかないと分からないかな、と思うところもあって気にしていました。

 「被害者」のドラマは、言うなれば、「不幸の原因がやってきて、それに傷つけられた。それを皆の力を得ることで乗り越えることができた」というものになるのだと思います。
 それはそれでいいのですが、それだけを視聴者に見せるのだとしたらば、そのドラマのメッセージは「あなたの抱えている問題は、誰かが与えたもので、理不尽に挫折感を味わっているかもしれない。でも、仲間や家族と一緒に頑張って乗り越えていけるよ」という感じのものになってしまう。それは、やっぱりフェアじゃないし、偏ったメッセージになってしまい、物語の機能としては見るものをただ甘やかすものになると思うんですね。

 そういうものなら、正直僕は見る価値を見出せない。
 だけど、最後まで見てきて、「あぁ。そうか。そういうことか」と感じました。

 渚は「加害者」なんですよね。

 その立場が。
 作中に出てくる「被害者」を直接傷つけているわけではないんだけど、彼女の立ち位置が、多くの被害者とは対照的なところに置かれていて、それは「加害者」としての立場を象徴するものになっていたのだと思います。

 両親の夢を奪い。合唱部から顧問を奪いそうになり。多くの女の子達から朋也を奪った。

 思い返してみると、朋也がシュートを打つところで「被害者」のドラマは完結しているんですよね。そこから先は「加害者」渚の物語が中心になり、徐々に彼女がその立場であることが鮮明になっていく。

 渚は、自分が加害者であることには気付かず、でもうっすらと「両親に謝らなくてはならない」という加害意識だけは持っていて、消極的な子になってしまっていた。
 そんな渚は、面白いことに「被害者」としての苦しみを持つ朋也にシンパシーを与え、その力を借り夢を実現させていきます。

 だけど、まさに夢を叶えるその時になって、自分が「加害者」であることに直面してしまう。
 その苦しみに、挫折しかけ、夢を見失いそうになる。

 そこでの渚は、「独り芝居」で「たった一人スポットライトを浴びて」「多くの人の前に立って」いる、という状況。
 まさに、「加害者晒し者」ですよ。
 ものすごく、厳しいシーンなんですね。
 それまで、山のように「被害者」が出てきた物語の最後に、「加害者」の立場を彼女一人に背負わせてスポットライトを浴びせる。
 すげぇ、と思いました。ものすごく過酷なシーン。

 彼女にとって、あるいは「加害者」にとって、あそこは「生きるか」「死ぬか」の瀬戸際のシーンでもあるのだと思います。
 あそこで「幕を降ろす」ことは、(象徴的に)「死ぬ」ことを意味するのだと思うし、舞台を続けることは、(象徴的に)「生きる」ことを意味するのだと思います。
 朋也が幕を降ろせないわけですよ。
 あそこで幕を降ろしてしまったら、渚はずっと「加害者」としての自分に苦しんで、何もできない子になってしまったでしょうから。

 でも、そこで、秋生が初めて父として叱り、早苗が励まし、「被害者」の立場にありつつ渚にシンパシーを抱いていた朋也がそのシンパシーをぶつける。

 ここで、渚が前を向き、舞台を始めることで、この物語の中で、「被害者」と「加害者」という垣根が壊されたのだと思います。

 生きること。苦しいこと。嬉しいこと。悲しいこと。それらは「被害者」にも「加害者」にもそれぞれあって、皆同じなんですよね。
 「被害者」の苦しみを皆で乗り越えていったのであれば、「加害者」の苦しみも皆で乗り越えていくことができる。

 そして、乗り越えて、解決はしていなくとも決着はつけて、被害者も加害者もなくなっていった時に、やっと恋が始まる。始めることができる。あるいは、向き合える。

 そのドラマの完結に、非常に意味のあるメッセージを感じます。
 「生きていくとは、どういうことなのか」
 という、非常に意味のあるメッセージを。

 やたらと「被害者」が多いな、と思ったことには意味があり、それは意図的だったということなのでしょうね。
 しかも、メインヒロイン一人に「加害者」を象徴させて描くというのはまた、すごいことだし、やはりまた意味のある描き方にも思えます。
 「加害者」は不幸にならなきゃいけないなんてことはないし、むしろ過酷な現状を乗り越えていく姿を見せていかなければならない。
 その意味では、最終回はスポコンのように、ある種「根性」で乗り越えるようなところもあり、それはまた真実の一つでもあるのでしょうね。
 多くの人に支えられ、事実を変えることはできなくても、根性で独り芝居を演じきった渚は、「歌いたかった」という理由一つで「だんご大家族」を歌ったという。超根性。
 その意味では、何かを掴むかどうか、現実に向き合って生きていけるかどうかは、詰まるところ、「根性」ということかもしれませんね。
 勿論、その「根性」を支えるのが、多くの人との繋がりなわけですが。

 思えば、春原が「バスケ部にバスケで勝つんだ!」なんていうのも、「根性論」でしょうし、ことみが皆の前に姿を現せたのも、彼女の「根性」でしょう。
 そして、最後に渚に告白した朋也のそれも、「根性」

 ふてくされようと、挫折しようと、不幸になろうと、人を不幸にしようと。
 最後は「根性」。

 最後まで見てきて、すごくシンプルな力強さを感じたのは、その部分かもしれません。
 そこがメッセージの肝であるならば、この作品を見てそう感じたのであれば、苦しい時に自分の好きなおかずを叫んで気合を入れて根性決めて生きていく、なんていうのもいいんじゃねぇかな、と思ったりします。

 話が「根性」に行ってしまった。
 「幕の降ろし方」のことをもうちょっとまとめると。
 「幕を降ろさない」
 という姿が描かれましたね。
 おぉ。なるほど。こういうことを描くのか。と思いました。
 「降ろしちゃいけない時に幕を降ろすことはいけない」ということですね。
 しかも、あの時、渚の幕を降ろすかどうかは朋也にかかっていたわけですから、そこもまた象徴的なのかもしれませんね。
 非常に過酷な状況に晒された渚。だけど、その渚のためを本当に思うからこそ、朋也は幕を降ろさなかった。
 それは、人の人生は人によって支えられている姿の一つであるのでしょうね。

 幕を降ろさなかったことで、「続きを思い出しました」という渚の物語は、不幸な話ではなく、ハッピーな方向へと向かっていくものになっていきました。
 それはやはり、誰の人生にも起こりうることでしょう。

 シンプルに。とてもシンプルに。
 意味のある物語を見せてくれたように思います。

 そして「幕」や「ステージ」というものの使い方。「らき☆すた」の時とはまた違う意味を持たせていてとても面白かったですし、個人的には「連続性」も感じるところで、粋だな、と思えて、非常に楽しませてもらいました。

 物語に意味を見出すこと。意味のある物語を感じること。

 それは、何度味わっても、とても有意義で楽しい経験です。
 今回の視聴体験も、僕にとってとても楽しい意味のあるものになりました。

 幕が降りないことで続く「番外編」。これもまた、楽しく視聴したいと思います。
 彼ら彼女らの可愛らしい姿を、もうちょっと見ていたいですしね。

 といったところで、長々と書きましたが、この辺で終わろうと思います。
 ここまで読んで下さった皆様、お疲れ様でした。ありがとうございました。

 誤字脱字、意味の通らない文章などは、読み直してみて発見次第修正していきたいと思います。

 以上で、「CLANNAD」最終回の感想を終わります。
 ではでは、またです!

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