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2008年7月 8日 (火)

長門さん四コマ漫画。レトルトカレーで一工夫。あと雑談。

 こんにちは、だんちです。〆切を乗り切り一息中です。
 でも、ちょっと疲れが溜まりぎみ。吐き気がするくらい寝不足だったりもしたので、まだまだ寝ないと回復しなさそう。
 ところで、修羅場中レトルトカレーを食べたんだけど、ちょっと野菜炒めを足したりして一工夫をしました。それがけっこう美味しかったので四コマ漫画にしてご紹介。
 あと、雑談をだらだらと。

Kuhuu
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 という感じです。美味かったっすよ!
 夏野菜カレーですね。今度やる時はかぼちゃとか豆類なんかも一緒に炒めて乗せてみたいなぁと思っております。

 今回も、コミックスタジオ4.1.3で描いて仕上げました。四コマ目の星トーンは「トーンブラシ」。筆で塗るようにして星トーンを描きつけていく機能なんですが、初めて使ってみました。面白いし、なかなか使えますね。いろいろ活用していきたいものでございます。

 いや、それにしても。
 今回の仕事、それまでの疲れが溜まっていたことで、ちょっと苦戦してしまいました…。
 疲労回復も技術ですね。
 効率のいい休み方をしないとなぁ。思い切った休み方もしたりとか。たまには実家に帰って育ったところの空気を吸うのもいいかもしれない。
 あと、適度な運動。
 …でも、すぐ夏コミに向けた作業しなくちゃ。上手い休憩の取り方をしつつ、頑張っていきたいものです。


 アニメ視聴話の雑談。
 7月新番のアニメ、録画するばっかりで全然見れてません。
 「ひだまりスケッチ×365」は見たけども。
 「ひだまり」たのしー。いやされるー。

 「ひだまりラジオ×365」を聴いていたので、放送開始前にアフレコが終わっていることは知っていました。なので、「あぁ、絵の作業を最後まで粘るための工夫なんだろうな」と思っていました。
 実際、第1話を見てみたら、「これ、声に合わせて動きのタイミングつけたんだろうな」という動きになっていたように思います。
 キャストの人数が少なく、一期でキャラクターを掴んでいることもあってできることなんでしょうけど、クオリティコントロールのために作業工程を工夫するというのは、素晴らしいことだと感じます。関わる人数が多いメディアでは難しいことでしょうけど、そこは新房監督のリーダーシップなんでしょうね。

 非常に繊細な動きを多用していた第1話でしたが。それによって表現したいことがあった、ということなのでしょうね。
 僕の中で印象的だったのは、ひだまり荘に到着したゆのが階段を上る時、下を向いていたことでした。
 希望していた学校に入学が決まり、希望に満ちた新生活なんだけど、希望と同じくらい不安もあるだろうし、慣れない所でしかも階段。上を向いて自分の部屋に向かう心持ちでは無いちょっと緊張した感じが出ていたように思います。
 あからさまに、ではないんだけど、全体的にちょっとだけ下を向きぎみのゆのの感じ。
 それが細かく丁寧に表現されていたように感じるんですね。
 で、宮子が「ゆのっち」と初めて呼ぶところで、それまでの不安や孤独感が吹き飛んで、はっきりと顔を上げていられるようになった。
 そういった様子がとても丁寧に描かれていたように思います。

 両親や大家さん、先生達がフルキャストで出てきたことも、第1話として意味のあることだろうなぁと感じます。

 第1話だけの印象でしかありませんが。
 人が顔を上げてその正面に夢を見るには、自分の力と、人の力とが、絶対に必要だよな、ということを感じます。

 家族、世話をしてくれる大人、先輩や友人。
 そういった人との繋がりが、全体を通してどのように描かれていくのか。とても楽しみです。

 
 そんなわけで、「ひだまり」の他は全然見れていないのですが、新番を事前チェックしていてなんとなく感じることもあって。
 なんというか。女の子が戦うものが、多い印象があります。
 僕は、個人的には「女の子が戦う」というギミックにあまり興味がありませんでした。物語の面白さとは別のことなので、そのこと自体を気にしたことも無かったんですね。

 でも、男性視聴者をターゲットにしているんだろうな、と思える作品で女の子が戦う作品がどうも多いように思える。
 そう感じてみると、一人の創作者としては「そのギミックにはどういう意味があるんだろう?」という興味を抱かずにはおれません。

 そこに、需要と供給が成り立っているということを前提にして考えるならば、男性視聴者がそれによって得るもの、欲求を叶えられるものがある、ということなのでしょうね。

 途中の思考をすっ飛ばして仮説的に思うことは、「マザーコンプレックスに対するある種の積極的な肯定」なんだろうな、ということです。
 強くて戦う女の子という象徴化された存在に、憧憬や性的興味を持つ。それは男にとっては必然的な心理欲求なのかもしれない。
 母親に甘えることで癒される心理現象を求めることが、そういったエンターテインメントを成り立たせているのかもしれない。
 じゃあ、それがなんで少女の姿だったりするのか?

 む。ちょっと難しいっすね…。

 母親的存在をキャラクターとして象徴化させつつ、その存在を外見的に自分と対等、またはそれよりも下に置くことで自己肯定を図るとか…。
 そんな感じかなぁとか思いつつ、「同化願望」でもあるのかな、とも感じます。

 男が、母親的存在の少女と同化する、と考えると、それは性的な自慰をかなり連想させる気がします。
 ふむ。
 じゃあ、性的な自慰がどういうものか、を考える必要があるのかもしれませんね。
 欲求不満の解消だったり…ホルモンバランスの調整とかもあるのかな?要は「スッキリする」ってことか…。

 つまりは、エンターテインメントとしての効用をかなり明確に持ったもの、ということが言えるのかもしれませんね。

 まとめていくと、女の子が戦う作品に感じられる(気がする)「マザーコンプレックスに対する積極的な肯定」は「自慰に対する積極的な肯定」とニアイコールなのかもしれない。
 それを、大きく括って「自己肯定」とすると。
 その前提には「自己否定」がある、ということになるのかもしれません。

 …ということを、なんで語っているのかというと。そういう傾向の作品を作る予定が僕にもあるからなんです。
 「誰に」「何のために」のところを自分の中でもっと明確にできたら、と思っていたのですが、ちょうど新番に「戦う女の子」という作品傾向が強く感じられたことで、いろいろ考えるきっかけを得られました。

 で。思考を進めていくうちにちょっと辿り着きつつある気がします。

 僕は、「肯定」を作品に込めたい、ということを思ってここ最近漫画を描いています。その前提には「否定」による傷が、多くの人にあるように感じるからです。

 「なぜ戦う女の子の作品があるのか」を考えることで、同じところに辿り着いたのは、僕の興味がそこにあるからなのでしょう。
 ならば、そこに向かって作品視聴の経験を活かしつつ、目的に適った作品作りをしていくべき、ということになりますね。
 いや、スッキリした。

 なるほど、つまりこうして書いていくことが、僕にとっての「自己肯定プロセス」なんでしょうね。
 漫画を描くこともそうだし。

 さて。「否定」や「自己否定」はなぜ生じるのか。のところは全然手付かずなのですが。一旦スッキリしたので、それはこれからじっくり考えていきたいと思います。
 まずは録画して溜めている作品を一つ一つ見ていかないと。

 この夏も、意味のある有意義な視聴体験が沢山できそうです。
 アニメーションは、やっぱり楽しいですね。

 すっかり長くなってしまいましたが、この辺で。
 ではでは、またです!

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コメント

昼ごはんカレーに決定w

お店で食べるカレーも好きですけど、
ボンカレーとかのレトルトカレーもいいなぁ。
やはりカレーは偉大!

投稿: 小柴犬 | 2008年7月 8日 (火) 14:40

インドカレーでは豆は普通に入ってるし、相性がいいんでしょうね。
俺が思うとこの「戦う女の子」が多いというのは「戦えない自分への苛立ちと願望」なのではと。
自分達の置かれている環境の閉塞感(これが昨今の通り魔事件などの原因としても言われてますが)それを取り去りたい願望として自分ではない、まったく逆の女性に自分を写してみるのかもしれません。
えーと、女の子がポイントなんですよね。多分。「強い女の子」は逆に「強くない男の子」がいるからなわけで。
そして「強くない男の子」は即ち自分(見る側)も含んでいるような。
男性の女性化が言われたりもしますが、それがどこかにあるのかもしれませんね。
うーむ、上手く言えない(苦笑)

投稿: 蔵人 | 2008年7月 9日 (水) 01:55

初めまして、百武魔と申します。いつも拝見させて頂いております。

 力の無い自分がいるのはどうしても認めなくちゃいけないけれど、それは認めたくない一面もあって、どうしても自分を直視できない。
 そんな中で、力を持って、それを存分に振えている異性を見て、叱咤激励され、勇気を得る。
 護る筈の異性が自分よりも生命力に満ち溢れているところに、生きる希望を見出せるのではないでしょうか。

 この、「男性が女性を見て」っていうのが注意点なのかもしれません。
 力の無い男性が力の有る男性を見ると、「あいつは自分とは違うんだ」っていう意識が強くなるのではないか。もちろん、尊敬して目標とすることもあるでしょう。
 擁護対象である存在だと思っていた女性が奮起躍進するからこそ、心を焚き付けられるのかもしれない。
 気付いているのか居ないのかにかかわらず。

 もちろんビジュアルでパッと目に止まるからとか、見ていて見苦しくないていう点もあるんでしょうけれど……。

 でも、やっぱり、心の芯に響くのは同性の奮起する姿かなと思ったりします。

 何か、まとまっていない長文で失礼致しました。

投稿: 百武魔 | 2008年7月 9日 (水) 19:09

おひさしぶりでございます。
どうして、日本のアニメには「戦う女の子」が多いのか
という疑問について、特に精神医学の観点から
斎藤環さんという方が論じた『戦闘美少女の精神分析』
という、一部のオタク論好きな人の間では
割と有名な書籍があります。
(年代的には綾波レイまでなので、最近のアニメは
 含まれては居ないのですが)

斎藤さんの結論としては、「戦闘美少女」は
ファリックガール(ペニスと一体化した少女)
である、というものです。
男性と一体化した美少女は、しばしば愛する無力な少年
(=去勢された男性)の為に戦う。
と、述べています。
それはしばしば、主人公=無力な自分自身の姿
でもあったりするわけで。

男性の暴力性が失われた(去勢)のが先か
女性が戦うようになった(ペニスを手に入れた)のが先か
となってくると、また鶏か卵かと言う話になりそうですが
現実においては、もはや男性の暴力は封殺されている
といっても過言ではありませんから
必然、戦うのは女性の役目になったのかもしれないですね。

手元に、もうその本は無いので、結構適当なことを言っていますが。

そして、どうして、本来なら「同性」であるはずの
戦う少女の同人誌(しかもポルノ)溢れるのか
といえば、先程検索していて
興味深い本の照会文を見つけました。
『感じない男』という書名らしいのですが


>「感じない男」は、感じる能力を持った女に
>復讐しようとしたり、女よりも優位に立とうとする。

それが、ポルノグラフィーだと言うのです。
しかも、単なる復讐ではなく
感じない自分自身に対する自傷行為でもあったりする。

>しかしそれだけではない。
>「感じない男」は自分の体を否定するあまり
>自分の体から抜け出そうと試みるのである。

この辺りの文面と、ファリックガールと無力な男性のくだりを
比較してみてみると、なかなか面白いものが読み取れてくるように思います。

あくまでも、一個人の一論ですから
それがすべてというわけでは勿論無いのでしょうけれど
蔵人さんの書き込みを見て、同じようなことを述べている
こういう書籍もありますよ~、という紹介ポストでした。


男性が力を持ってしまうと、平凡な自分自身が
自己投影できないから、というのもあるのでしょうね。
共感を持ってみることが出来ない。
それが、90年代後半以降の、いわゆるハーレムもの
(無力な主人公がなぜか、もてまくる)
「天地無用!」あたりが、そのはしりの様な気がしないでもないですが
あの作品も、周りに居るのは「戦闘美少女」ばかりだったような気がします。

投稿: 桜姫 | 2008年7月10日 (木) 11:13

>小柴犬さん、こんにちは。四コマ漫画見て下さってコメントをありがとうございます^^

昼ごはんカレーになりましたか!おぉ。小柴犬さんの食生活に影響を与えた!
アサクラパソコン漫画も楽しく見させていただいてますぜー。カレー食う朝倉がちょー可愛い!
ネタのきっかけになったとのこと、とても嬉しいです^^

お店のカレーって家カレーと違って独特で、時々無性に食いたくなる時ってありますよね。
レトルトもいろいろ種類があって楽しいです^^

日本独自の「カレーライス」は元々軍用食だったらしいですね。
お互いカレー食って戦力増強していろいろ描いていきましょう!
早速我が家は今晩またカレーです^^

ではでは、またです!

投稿: だんち | 2008年7月20日 (日) 17:42

>蔵人さん、こんばんは。いつもお世話になっております。漫画と記事を読んで下さって、ブログでも紹介して下さって、その上コメントをありがとうございました^^
カレーはいろんなものを入れても美味しく食べられるから、いろいろ試してみたくなりますよね。

≫自分達の置かれている環境の閉塞感(これが昨今の通り魔事件などの原因としても言われてますが)それを取り去りたい願望として自分ではない、まったく逆の女性に自分を写してみるのかもしれません。

とても興味深い視点だと感じます。特に「女性に自分を写」すというところ。変身願望のある種究極ですよね。
そこで、「強い男である自分」に変身するのではなく、女性であるところに、「閉塞感」に対してあえて甘える(立ち向かわないで目を背ける形での)マザーコンプレックスの存在を僕は感じますし、それを「積極的に肯定する」ことの面白さがあるように思うんですね。
戦う女の子と性的興奮は切り離せないものでしょうし、その対象である女の子に自分を写すのであれば、それは限りなくオナニーに近いものだと思えます。
それをエンターテインメントとして積極的に認めることで「すっきりさせる」効果があるように感じるんですね。

≫男性の女性化が言われたりもしますが、それがどこかにあるのかもしれませんね。

幼い頃って、性別はあってないようなところがあるじゃないですか。男の子でも母親の化粧道具に興味を持ったり、可愛い格好してみたいって思ったりっていうことがあったり。
だから、「男性の女性化」は「男性の幼児化」とかなり近いのではないか、と感じます。そうなると、女の子は幼児のような姿をしているか、逆に母親的な外見(巨乳とか)をしていることが求められるのかもしれません。

エンターテインメントの持つ「教育」性、あるいは「再教育」性というものと、関わりが深いジャンルなんではないかなぁと漠然と思います。
僕らは子供に戻りたいところを持っているのでしょうし、その甘えた気持ちに満たされることで、どこか癒されるところがあるのではないだろうか、と感じます。

なかなか、考察するのが面白いテーマですね^^
これからも、あれこれと考えてみたいと思います。

ではでは、またです!

投稿: だんち | 2008年7月23日 (水) 03:12

カレーは僕も大好物です。レトルトも良いけど僕はココイチとかで納豆が入ったカレーを食べるのが一番好きです。
「ひだまりスケッチ」に関してですが僕が住んでいる地方では「ひだまりスケッチ」二期は放送されていませんでした(泣)。レンタルビデオに並ぶのを待つしかないようです。

「女の子が戦う作品」に関しては僕も個人的に思うところがあったりします。
男尊女卑の考え方が当たり前だった頃の日本では家を継ぐのは男性とされ「男は仕事、女は家庭」という性別による役割分担が当たり前でした。つまり、男性は女性よりも優位に立つという「権利」と同時に家庭(女性)を守るという「義務」もあったわけです。この「権利」と「義務」のバランスが女性から見て割に合うかどうかは別として。
しかし近年では男女平等の考え方こそが正しいとされ、女性も社会的に男性と同等の「権利」を得られるようになってきました。
男女雇用機会均等法の制定などにより職種にもよりますが男性と同じように働く女性や看護師など昔は女性の仕事として考えられていた仕事に従事する男性も今では珍しくはありません。
しかし、「義務」に関してはどうでしょうか。個人的な主観で恐縮ですが男性が家庭(女性)を守るという「義務」に関しては男女共同参画社会と言われる今でもあまり変わっていないように思います。女性専用車両のような物が作られたりする背景には女性は守られる側だという認識がどこかにあるのではないかと。
だから「女の子が戦う作品」の人気が出る背景には本当に男女平等の社会なら男だからという理由で得をすることがない代わりに損をすることも無いはずだという意識もあるのではないかと思います。
「女の子が戦う作品」だって男は戦わないのかと言われると「灼眼のシャナ」の悠二のように男性も女性と協力して戦うパターンもありますし。

投稿: | 2008年7月25日 (金) 02:27

>百武魔さん、こんにちは。初めまして。記事を読んで下さってコメントをありがとうございます^^
いつも見て下さっているとのこと、とても嬉しいです!

≫ 護る筈の異性が自分よりも生命力に満ち溢れているところに、生きる希望を見出せるのではないでしょうか。

ギミックとしての面白さ、意味性として、仰る通りそういったところがあるのでしょうね。男が男としてどう生きたらいいのかを見失っているという前提から出てくる面白さであるならば、とても現代的なものと言えるのかもしれませんね。

≫ この、「男性が女性を見て」っていうのが注意点なのかもしれません。

仰る通りで、戦う女性を画面の向こうに見ることで、見ている自分の立場にもどかしさを覚えて心に火をつけられるところがあるのかもしれませんね。
同時に、僕は物語の持つ「感情移入」ということを考えた時に、戦う女性そのものに、視聴する男性が感情移入する側面があるのではないか、と感じています。
「力の有る男性」を見てそこに変身願望を求めることが、「あいつは自分とは違うんだ」という意識を生み出す…つまり、ある種「へそを曲げてしまう」見方をもたらすことがあるとして、その対象が女性になることで、変身願望に対してもっと素直になれるのかもしれない、という考え方ですね。
その辺りを全部言葉にしようとすると、なかなかに複雑で難しいところがあると思うのですが、男性が持っている(であろうと思われる)女性に対する同化願望、変身願望は、母親の胎内から生まれてきて以来、本能的にあるのではないか、それが男性にマザーコンプレックスをもたらし、様々な形で性的なコンプレックスを派生させているのではないか、という仮定を置いてみて、そこから今回書いたようなことを考えてみました。

そうなってきた時に、仰っていただいたような形で気持ちを盛り上げ、男として何かをしようと励まされるという効果と同時に、「見ている時、自分は女性(あるいは母)と同化していていいんだ。女性(あるいは母)に甘えていいんだ」と感じてホッとする、という部分もあるのではないか、と思うんですね。

≫ もちろんビジュアルでパッと目に止まるからとか、見ていて見苦しくないていう点もあるんでしょうけれど……。

そうなんですよね!そこが、まず最初の出発点だと思うんですよ。「女の子が戦う」というビジュアル面でのギミックが重要なんだと思います。で、「それだけ」だったら、要は打ち上げ花火でたまにやるからいい、というものになるんだと思うんですよ。でも、それがこれだけ多くある。そこにとても興味を感じています。
 
≫でも、やっぱり、心の芯に響くのは同性の奮起する姿かなと思ったりします。

重要な視点だと思います。それはつまり同性と異性とでは戦う姿を見た時に心に対して響いてくるものが違う、ということになって、本質的に物語の持つメッセージが違う、という捉え方ができると思うんですね。
そういったことから、思考実験的にあれこれ考えるのが楽しくて^^
こうしていただいたコメントにお返事をさせていただきながら、またいろいろ考える機会を得られてとても有意義でした。

これからもいろいろと描いたり書いたりしていきますので、良かったらまた見てやって下さいね。今後ともどうぞよろしくお願いいたします!

それでは失礼いたします^^

投稿: だんち | 2008年7月27日 (日) 04:28

>桜姫、こんにちは。こちらこそお久しぶりです。記事を読んでくれてコメントをありがとうございます^^

斉藤環氏の言説と「感じない男」という書籍について紹介して下さってありがとうございます。
興味深く読ませていただきました。
面白いもので、僕はここに書いていただいた両方の言説に関して、理解はできるものの「アグリー(賛成)できない」という感想をそれぞれ持ちました。
僕には精神医学の知識も無いし、ポルノグラフィーについての見識も深くはありません。なので、多分に「感覚」によるものなのですが。その「感覚」の部分に様々な考察すべきポイントがあるのかな、とも思います。

≫斎藤さんの結論としては、「戦闘美少女」は
≫ファリックガール(ペニスと一体化した少女)
≫である、というものです。
≫男性と一体化した美少女は、しばしば愛する無力な少年
≫(=去勢された男性)の為に戦う。

ということに関して、僕の考え方はまったく逆なのだろうな、と感じます。
「無力な少年」を視聴者の代理的立場と置き換えた場合、その少年が、まず去勢されているとは僕には思えないんですね。
むしろ、戦闘美少女に性的な興奮を覚えていると感じています。しかし、同時に戦闘美少女にも感情移入するため、ファリックガールは戦闘美少女の方ではなく、「視聴者の男性」であろう、と思えます。
つまり、ペニスを持ちながら女性器も持つ男性、ということになりますね。
自らを守ってくれる美少女は、体を張って自分を守ってくれるし、優しいし、時には理解しがたい感情をぶつけてくるし、そして何より無条件で愛してくれる。
それは、母親を理想化して投影した姿だと思えます。
斉藤さんの著書が「綾波まで」ということでいうと、綾波はまさに「母親」だったと解釈できると思うので、マザーコンプレックスに話が繋がっていかないことに疑問を感じます。

斉藤さんの言説に関して、ちゃんと読んでいないので反論めいたことを書くのも気が引けるのですが、「そういうことを発言する」という一つのことを為された方に対してのリスペクトを持ちつつ、ちょっと続けてみたいと思います。

「去勢された男性」ということに関しては、当然比喩的表現で、実際的な意味ではないわけですが、ここに、俯瞰した視点を感じます。総じて「うじうじして、男らしくない男が増えている」ということを指しているのだと思うのですが、それが性的にペニスを「拒絶」して男であることから離れようとすることには繋がらないと感じるんですね。
無力で覇気がなく、女を口説けない。でも、性的に興奮したい。つまり、「甘えたい」。
それを俯瞰して見た時には確かに「男は『去勢』されている」と表現することはできるのでしょう。でも、実際は「幼児化している」あるいは「成長していない」ということだと僕は思うんです。
それは、僕が男だからそう思えるところなんだと思います。「去勢された男性」という表現が、ちょっとスマートすぎて、こう…言い訳っぽく聞こえてしまうんですね。「いやいや。お前そう言いながらチンコ勃ててるだろ?ピュッピュッ出してんだろ?」って。
個人のセックス観(あるいは「感」)から離れて社会批判的な主張を感じるところに、「理解しやすい綺麗な落としどころ」に持っていっているように思えてしまうんですね。

「戦う美少女」は、真っ直ぐ考えれば、ほぼ100%「オナペット」だと思うんですよ。
で、オナニーの仕方として、男が女の子の方に(も)感情移入する精神性が強くなってきている(と思える)ことで、戦闘美少女ものの視聴体験をよりめくるめくものにしているんじゃないだろうか、と感じるんですね。

つまり、そこに「理想」がある。ということですね。
そうやって見るならば、

≫そして、どうして、本来なら「同性」であるはずの
≫戦う少女の同人誌(しかもポルノ)溢れるのか

ということに関しては、僕の考え方では「同性」の前提が逆転してしまっていますので、「自己愛」を具現化する、ということに繋がっていくのだと感じます。
逆転していることから話を進めると、

≫「感じない男」は自分の体を否定するあまり
≫自分の体から抜け出そうと試みるのである。

ということに関しても、僕の考え方では逆転して、ポルノグラフィーにより、自己を肯定して自分自身を癒すことになります。
自分のことを思い返しても、エロ本を買って帰る時なんてのは、要はデートと一緒なんですよね。本の中の女の子と「会える」ことが楽しみでわくわくするし、「二人きり」になる時を狙って生活の時間を考えるし。自分が何に感じて何に感じないのかに直面するし。自身をより深く知るプロセスとして重要なものだと感じます。

そういったことから、戦う美少女アニメはオナニーを肯定する機能を持っている、と感じるし、そこからどういう現象が視聴者に起こりうるのかが、興味深く感じられるんですね。

≫男性が力を持ってしまうと、平凡な自分自身が
≫自己投影できないから、というのもあるのでしょうね。
≫共感を持ってみることが出来ない。

そこに関しては、違うものとして考える必要があるように感じています。
思うんですけど、人って、自分のことを「平凡」って思っていないと思うんですよ。「平均点」というものが存在していても、実際には「平均点の人間」というのは皆無であることと一緒で、実はみんな「俺は特別だ」と思っていると思うんですね。
ハーレムものはその「特別性」を具現化したものだと僕は感じています。
男が力を持つ作品でも、例えば「スラムダンク」なんかは、主人公の桜木が「万年もてないうだつのあがらない不良」だった序盤は人気が低迷していて、試合が始まって彼が活躍し始めてから人気が一気に上がったということがあったはずです。
先日完結した「ハリー・ポッター」も(まだ最終巻は読めていませんが)、主人公のハリーは「すごく特別の存在」として描かれていて、その上で世界中の少年少女、並びに大人も熱中させたことはとても興味深いことだと思えます。
その観点では、「天地無用!」は、僕はまったく内容を知らないのですが、主人公の男の子は無力であっても、何か「特別」だったのではないか、と想像します。つまり、別の形で「力」を持っていた、ということですね。優しさだったり、とか。

「特別」だと思っている自身を無条件で肯定してくれる。
そういう機能を戦闘美少女ものやハーレムものに見ることもできるのではないでしょうか。
そうであるならば、「特別だと思うこと」から「特別であること」にシフトしていけるように促すことも、そういった作品にはできるのではないだろうか、ということもまた、思うのです。
もしくは、それは別の作品がする段階であるのかもしれない、等々。
興味は尽きないのであります^^

すっかり長くなってしまいましたが、自身の考えを探り直す良い機会と思いたっぷりと書かせていただきました。
刺激を下さってありがとうございました!

ちょー暑い日が続いておりますが、体調など崩されないようお気をつけ下さい。
「7days fuzz」、おかげさまでいよいよ完結しそうです。いつか、最後まで読んでいただきたいなぁと思っております。その際は是非感想をよろしくね!

ではでは、またです^^

投稿: だんち | 2008年7月31日 (木) 04:48

>Yさん、こんにちは。漫画と記事を見て下さって、コメントをありがとうございます^^
僕もココイチよく食べますよ!自宅仕事なのでよくデリバリーを頼んでいます。期間限定カレーを主に美味しくいただいております。まだ納豆カレーは食べたことないですけど、今度挑戦してみますね^^

「ひだまり」本放送は見れないということで、残念ですね…。
でも、レンタルDVDもオーディオコメンタリーが入っていたりするから、待つ分の楽しみはあるはずですよ!

「女の子が戦う作品」についてのコメント、興味深く読ませていただきました。
男尊女卑から男女平等へと思想が変化してくる中での、ある種のカウンターという側面、確かにあるのでしょうね。
そこで、やはり「色物」としてまず見えてしまうところがあるように思います。性的な肉体性を前面に出すことで「見世物」として成り立つところがあるでしょうから、戦うからこそ、「女」であることが最大の商品価値ということになって、それはまた面白いところでもありますよね。
でも、それだけで終わるのであればこれだけ多くの作品が生まれることもないところで、やはり、仰られるように時代性というものがあってこそなのでしょうね。
「家庭」というキーワードで言うと、戦う女の子は大抵の場合家事が苦手な設定があったりするように思います。
戦えるのならそこは欠点ではなく、「義務化されない」部分になるはずなのでしょうけど、それが「欠点」として描かれるのであれば、やはり、そこもまたYさん言うところの「義務」に関して変わっていない部分になるのでしょうね。
変わっていく部分と変わらない部分。
社会があって、そこに暮らす人間の心があって。そこに物語が出てくることで、様々なことが対象化されて認識しやすくなる部分に、エンターテインメントや物語の機能を見ることができるでしょうから、時代が変化していく中で出てくる「戦う女の子」の物語は、やはり注目すべき点の多いジャンルの一つだな、と思えます。

≫「女の子が戦う作品」だって男は戦わないのかと言われると「灼眼のシャナ」の悠二のように男性も女性と協力して戦うパターンもありますし。

訓練を積むところとか、非常にいいですよね^^
逆に、シャナが悠二のお母さんに料理を教わったりするところもまた見逃せない点でしょうね。そういった点でも、時代の必然から生まれてきた作品の一つだと感じます。
これからも、様々な作品に注目していきたいですね。

ではでは、またです^^

投稿: だんち | 2008年8月 4日 (月) 13:24

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