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2008年7月 2日 (水)

漫画技術話。「画面の上手(かみて)と下手(しもて)」

 こんばんは、だんちです。
 一緒に仕事をしている香川智華さんから学んだり、自分で経験してきて掴みつつある技術について、書き留めておこうと思います。
 舞台に上手(かみて)下手(しもて)があるように、漫画の画面にも上手(かみて)下手(しもて)があって、それを意識して画面作りをすることで演出意図をより明確にしていける、ということについてです。

 その技術については、レイアウトだったり映像だったり、舞台だったりを学んでいる人とかには、「え?基礎でしょ?」というものかもしれませんが、「漫画」という媒体は基本独学の世界だったりするので日々勉強なのであります。

 さて、「上手(かみて)」「下手(しもて)」ですが。
 舞台では「上手(かみて)」は観客側から見て右側、「下手(しもて)」は左側、となります。

 漫画は、右から左へとコマを見ていき、右から左へとページを見ていき、右から左へと台詞を読んでいくメディアです。
 なので、漫画にも舞台で言うところの「上手(かみて)」、「下手(しもて)」を当てはめると、「上手(かみて)」から「下手(しもて)」へと視線を動かしていくことになります。

 wikiなどで見てみると、「上手(かみて)」「下手(しもて)」のあり方は、人間の中心線だったり心臓の位置だったりが関係しているそうですが、詳しいことは分かりません。
 ともかく、「右から左へと流れる」というのはどうも自然な物の見方のようですね。

 で、右から左へと画面を見ていく性質上、画面の右側と左側とではそれぞれ生まれてくる意味合いが変わってきます。
 右側が「過去」、左側が「未来」。
 あるいは、
 右側が「力を発する位置」、左側が「受け止める位置」。
 というような、そういうニュアンスになります。

 そこで、画面の中でキャラクターなどが「どっちを向いているか」で、意味合いを持たせることができるわけです。

 キャラクターが左側を向いている時(下手側を向いている時)は、視線の流れに沿っていることから、未来に向かっている、ポジティブな方向に向いている、何かをしようとしている、というようなニュアンスを持たせられます。
 逆に、キャラクターが右側を向いている(上手側を向いている時)は、視線の流れに逆らっていることから、過去に向かっている、ネガティブな方向に向いている、何かを受け止めようとしている、となります。

 要は流れに「沿う」か「逆らう」か、ということから出てくる印象で意味合いをコントロールできる、ということですね。

 僕は、絵を描くようになってから最近まではこういうことを意識したことが無かったのですが、「しっくり来る」「来ない」というところで判断はしていたのかもしれない、とは思います。
 キャラクターを描く人の多くが、無意識に左側を向いた顔を描いてしまうことを経験していると思います。
 これは、「右側を向いた絵だと崩れてしまうから」という技術的な問題としてネガティブに捉えられることもあるように思いますが、そういうことだけでなく、「楽しく絵を描く時はキャラクターもポジティブな方向に自然に向く」という現象でもあるように感じます。

 僕は、最近このブログでしょっちゅうハルヒさんを描いているわけですが、自然と彼女に右側を向かせることが多いという自覚があります。
 それは、上手(かみて)側に常にキョンの存在があって、ハルヒのことをキョンを受け止める存在、待ち焦がれている存在として認識しているから、なんだろうな、と感じます。
 だから、電話四コマ(これこれ)を描いた時も、自然とハルヒさんは上手(かみて)側を向くようになりました。つまり、この四コマでのハルヒはキョンに話しかけている、というより「キョンの声、話を聞きたがっている」ということになるわけです。
 また、古泉とキョンのバトル漫画の、古泉がキョンを殴りつけラッシュをしていく一連のシーン(28~36ページあたり)では、古泉が下手(しもて)側から上手(かみて)側のキョンを攻撃しています。これは、古泉がキャラクターとしての自分の立ち位置などの流れに逆らって意思表示をしている、ということになります。これも、意識していなかったのですが、そういう画面しか浮かばなかったのも必然的なものだったんだろうな、と感じます。
 漫画ではないんですけど、ポエム付きイラストとして描いた佐々木団は下手(しもて)を向いています。これは、未来に向かっている姿ではあるんですが、絵をギリギリまで下手(しもて)側に寄せたことで「その未来は先が無い」という絵にしたかった、というのがあります。
 彼女達を下手(しもて)側に向けたのは、最初は無意識で、それも必然的にそうなったのだと思うのですが、そこから「絵も下手(しもて)に寄せて、決して明るい未来に向かっているわけではない絵にしよう」と、絵の持つ意味合いを考えるというプロセスがありました。

 だから、最初からロジックがあったわけではなく、元々は自分の中の印象優先で描いていて、経験を積んだり学んだりしてきたことから、自分の絵を客観的に見ることができるようになってきた、という感じです。

 画面の「上手(かみて)」「下手(しもて)」のことを技術として知ると、それまでの印象や「しっくり来る」「来ない」という直感は意味のあるものだったんだな、と改めて感じます。
 それはつまり、漫画や絵を描く時に、自分の印象、直感に対してロジカルに悩むことができる、ということで、画面の作り方について考えを非常に整理しやすくなりました。
 確信を持って絵のレイアウトができるようになるんですね。

 とはいえ、まだまだこの技術については掴み始めたばかりで、具体的に意識し始めたのは、今年のCOMIC1で出した同人誌「涼宮ハルヒさんの危険な愛体験3」あたりからなんですけれども。
 もっともっと掴んでいって使いこなしていきたいものです。

 この「上手(かみて)」「下手(しもて)」のこと。
 人間の視覚印象が根っこにあるのであれば、やはり映像にもあるのでしょうね。
 最近、アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」第一期をDVDでよく見直しているのですが、OP映像を見ていて、その辺りのことを非常に感じました。
 冒頭、ハルヒが下手(しもて)側上空を向いて手を伸ばしたり、ハルヒが走っているところをキャラクターが通り過ぎていくところも、ハルヒは上手(かみて)から下手(しもて)に向かって走っていて。
 ハルヒがキョンを意識して振り返るところでは上手(かみて)の方を向いてみたり。キョンは下手(しもて)の方を向いてみたり。だけど、二人が同時に振り向くところでは、上手(かみて)と下手(しもて)を入れ替えて二人の関係や意識がそれぞれ一方的なものではなく、双方向であることを表現していたり。
 そして、最後にチャリに二人乗りで走っていくところでは二人一緒に下手(しもて)に向かっていたり。

 あと、第12話「ライブアライブ」のラストシーン。ハルヒがキョンの手を掴んで歩いていく俯瞰の映像で、二人は斜め方向ではありつつ上手(かみて)に向かっていて。台詞としては一年後の文化祭という未来に向かっていくシーンでありながら、下手(しもて)には向かっていないんですね。
 僕は、テレビ放送を見た時に、「文化祭当日二人は一緒に過ごせなかった。その時本当はしたかったこと、『手を繋いで一緒に学校の中を歩く』ということをやり直しているシーン」として捉えていたのですが、そう思った理由の一つとして、画面の向きというものもあったのかもしれないな、と改めて感じました。

 そんな感じで、画面の左右に対しての印象について考えていくと、「真正面」を向くっていうのは、どういう意味なんだろう、なんてなことも思います。
 自分で漫画の画面を作っていても思うことは「時間を止める」という感覚になるかなぁ、と感じます。時間や事態がキャラクターに対して向かってくる臨場感、当事者感、そういったものになるでしょうか。
 漫画だと、秒数とかがないので、コマを大きくしたり小さくしたりして、「正面絵」の印象をコントロールする感じになるのでしょうね。
 映像だと、カメラを引いたり寄せたり動かしたり、実際に秒数を多めに取ったり少なめに取ったりすることで意味合いをコントロールできるのかな、と思います。
 僕は自分で映像を撮ったりはしませんが、そういう画面技術のことを考えながら映像を見るというのも、なかなか面白いものだと感じますし、勉強になります。

 こうやって学んでいくことで、少しでも良いものを描けるようになりたいものです。

 また、技術的にいろいろと掴むものがあったら、こうして書き留めていこうと思います。自分に対してのメモでもあるし、技術話が好きっていうこともあるし、それがもし誰かの役に立ったりしたら、とても嬉しいですし。

 そんなわけで、これからも技術探求と実践の日々なのです。また、あれこれと落書きやらネタ漫画やら、描いていくと思いますので、よかったらまた見てやって下さいね。

 ではでは、またです!

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コメント

勉強になるなあ。なるほど、登場人物の動きを考えながら捉えると舞台演劇とは完成されてますよね。どこから見ても上手と下手を理解できますから。
うーん、文章書きなんで自分の書いた文章を脳内で映像化するしかないんですが、やはり動かす時は映画やアニメーションのような滑らかさが欲しいなと思いながら書いてます。
漫画の場合だと、文章だと行間、つまり枠線の引き方や幅なども読み手に影響を与えるファクターのような気がするのですが、だんちさんなりのお考えを聞きたいですね。

投稿: 蔵人 | 2008年7月 3日 (木) 03:26

おはようございます。mementoです。

舞台の上手、下手ということで僕が思い出すのは、第三ステージの鴻上尚史さんが、ロンドンのギルドホール演劇学校に留学した日々を書いた、「ロンドン・デイズ」って本でしょうか。
確かこれに、日本文化から影響を受けて自分の演劇理論を打ち立てたとかいう英国人の教授と鴻上さんとの、こんなやりとりがあったと記憶しています。
「英国の演劇では舞台の下手側に演出の力点が置かれる。ではショウ(鴻上さんの向こうでの愛称)、日本ではどうだね?」
「上手ですね。日本の演劇では舞台の上手側に力を感じます」
…この本を読んだのがだいぶ前なのでうろ覚えなんですが、確かこんな会話だったかと。
これを読むまでそういうことを意識したこともなかったんですが、これが本当なら、そしてだんちさんのおっしゃるように、舞台の上手→下手への動きが、ポジティヴ→ネガティヴの感情の流れと呼応しているのだとしたら、西洋と東洋の文化や意識の違いみたいなところも、ここから窺えるようで面白いですね。

で、早速だんちさんの上記記事の説を、当のだんちさんの作品である「SweetHome」に適用して考えてみたんですが。
たとえば、「SweetHome」40ページの、キョンの部屋にいる長門の、
「あなたは泣いているの?」
って大ゴマでは、彼女は右手…つまり舞台の上手を向いているわけですが、34ページからのそれ以前のこの部屋の場面での彼女って、おおむね上手方向を向いてるんですよね。しかし、この40ページ目の大ゴマ以降からは、なぜかほぼ下手を向いてる絵ばかりになります。
「あなたは泣いているの?」
という問いかけをキョンに対してした瞬間が、彼女の感情のネガ→ポジへの変化の起点だと解釈すれば、これは不思議じゃないんですけど、正直だんちさんの記事を読むまでは、僕はまるで気づきもしませんでした。気づかないうちに内面の変化の、その動きだけは感じとっていたわけです。

>そんな感じで、画面の左右に対しての印象について考えていくと、「真正面」を向くっていうのは、どういう意味なんだろう、なんてなことも思います。
>自分で漫画の画面を作っていても思うことは「時間を止める」という感覚になるかなぁ、と感じます。

同場面の流れでいうと、長門が正面を向いてる絵が39ページの5コマ目と、41ページの3コマ目にあるわけですけど、この場面で彼女の顔が上手方向→正面→下手方向へとグルッと半回転することで、長門の中での感情のベクトルもそれに呼応した変化が生じていくという、“感情の転換”が表現されているように感じられます。正面からの顔は、この転換の中での“間”や“静止”の役割を果たしているなあ、と…時間的な意味合いでもそうですが、変化の過程での、一種の感情の空白状態というか。
だからここの場面での長門には、ほとんど台詞はなくても、その表情や反応も相まって内面の変化が“動き”としてリアルに感じられるし、また、それがドラスティックな変化ではあっても、決して不自然だったり唐突だったりしないのは、ちゃんと変化へ至るまでの段階が、“顔や視線の向きを変える”という動きの中でデリケートに描かれているからではないかな、とか思ったりします。
キャラクターの内面外面の動きというやつは、動きである以上、当然時間軸にそったかたちで表されるものですけど、動画は基本的にそれをそのまま描き出すことができるんですよね。
そのために、動画ではカメラを動かしたり、シーンやカットの秒数をはかって何秒でこれこれ、何秒でこれこれといった演出プランを設定できるわけですが、止め絵の連続であり、時間の概念の制約を受けない…ということは、時間軸にそった動きを描写することが本来不可能な漫画では、代わりに画面の持つ方向の意味性を活用し、コマ割りを工夫したり、それこそキャラの向きを上手にするか下手にするか正面にするか考えたりすることで、擬似的に読者に“時間”を体感させ、それにそった動きも体感させることができるんだな、と…そうした手法が漫画独自の表現へとつながっていくんだなあと、あらためて「SweetHome」を読んで感じました。
手塚先生以来、
「日本の漫画は映画的手法を用いている」
とは、よくいわれることですけど、それがどういうことなのかを、おかげ様で具体的に理解し納得できた気がします。“映画的”ってのはあくまで“的”でしかないんであって、表現の文脈が異なる以上、同じ効果を上げても映画と漫画とでは手法は根本的に異なるもんで…しかし、そういうのは、フィーリングではわかっていても、具体的にはなかなかちゃんと把握できていないものなんですよね。
どこかで富野由悠季監督が、
「最近はとうとう、“漫画のこのページのこのカットは変えないでください。アニメ化を想定して描いたカットなんですから”なんていう原作者が出てきた」
といって猛烈に怒っていたのを見た気がするんですけど、漫画を描く人でさえそういうものなんだなあ、とか変なところで感心したりもしました。そら、確かに富野監督怒るよなあ…あの人はいつも怒ってる印象が、なくもないですが。

ひさびさの長文失礼いたしました。ちょい風邪気味ですけど、日頃から好奇心を抑えず技術の練磨に励むだんちさんに負けず、僕も(マイペースで)頑張りたいと思います。
それでは。

投稿: memento | 2008年7月 3日 (木) 07:44

何年も前の事なのでうろ覚えなのですが、納豆ダイエットで話題になった某健康番組で回転寿司の人気の理由について検証していたことがあって、その中で「通常は右から左に流れているレーンを左から右に流してみるとどうなるか」という実験が行われていた事があって通常の向きの場合と比べて流れる寿司をうまく目で追えずに取り逃しやすくなるという結果になっていました。
番組が番組なので実験の信憑性に疑いがあるのですが、この事から見ても人間にとって左から右へという流れよりも右から左へという流れの方が自然に感じるのかもしれませんね。

これからマンガを読んだり映画を見たりする時にはそういった動きの方向にも注意して見てみようと思います。

投稿: | 2008年7月 9日 (水) 00:03

>蔵人さん、こんばんは。記事を読んで下さってコメントをありがとうございます^^
舞台演劇などは洋の東西を問わず歴史があり、かなり完成されていることを改めて感じます。落語の三題噺もそうですが、エンターテインメントの基礎として学ぶべきことが沢山あるように思います。
ちゃんとは調べていないのですが、漫才のボケとツッコミも、あれってきっと立ち位置が上手と下手で決まっているのでしょうね。

文章もまた歴史の長いものですから、いろいろと奥深い技術があるのでしょうね。
僕もプロットの文章からネームを起こす作業をいつもやっていますが、文章と画面の違いを常に感じています。
文章からも、いろいろなものを学んでいきたいものです^^

≫漫画の場合だと、文章だと行間、つまり枠線の引き方や幅なども読み手に影響を与えるファクターのような気がするのですが、だんちさんなりのお考えを聞きたいですね。

仰る通りで、大きな演出効果を与えるものだと思います。枠線をフリーハンドで引く方もいらっしゃいますが、定規の直線とはまったく違った印象になりますよね。枠線間の幅で時間経過や心情的な「空白」を演出することもできますし、デコレーションすることで様々な雰囲気を出すこともできます。形を変形させることで視線に動きをもたらすものにもなります。
つまり、コマの中身が「料理」だとしたら枠線は「お皿」みたいな感じかもしれませんね。
個性の出るところでもあって、例えば、ゆうきまさみ先生のコマ割りを見ていると新谷かおる先生門下だった特徴が感じられますし、小林まこと先生や吉田聡先生のコマ割りなども、かなり多くの漫画家に影響を与えていることを感じます。
漫画の歴史と共に伝承されつつ、独自の技術として更に発展していく部分なのかもしれませんね。

ではでは、またです^^

投稿: だんち | 2008年7月15日 (火) 20:39

>mementoさん、こんにちは。記事を読んで下さってコメントをありがとうございます。また、先日は「戦うヒロインアニメ」についてのWEB拍手コメントもありがとうございました。やー。いろいろ語り合いたいテーマがいっぱいですよね!!^^

鴻上氏の留学本は読んだことがありませんでした。いろいろ勉強になりそうですね。ちょっと今度探してみます。教えて下さってありがとうございます。

イギリス演劇で舞台の下手に力点がある、というのは興味深いですね。向こうの演劇に詳しいわけではないのですが、伝統的なものなのでしょうかね?
その国の歴史や民族性などもあって、同じ「ステージ」であっても、見せるもの、見せ方が違ってくるのでしょうね。
思い出すところでは…歌舞伎の花道は下手側にありますね。実際に自分で観劇をした記憶を辿ってみても、これが上手にあるとしたら、どこか落ち着かない感じがするように思います。花道も舞台として見ると、

 ̄/ ̄ ̄ ̄
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こんな形になるでしょうか。観客の視線は正面を見るかちょっと左、あるいは左を見るか、という形になりますね。その意味では、上手から始まったとしても下手に「落ち着く」傾向があるといえるのかもしれません。
実際、自分でもこの図形には落ち着きを感じます。逆だと…

 ̄ ̄ ̄\ ̄
     |

という形ですね。僕の印象では、これは落ち着く形ではない気がしますが、どうでしょう?
イギリス演劇の「下手に演出の力点」がどういうものかは、僕には分かりませんが、観客の視点を「左に向ける」ことに意味があるのかもしれませんね。
漫画でも左ページを目立たせる、ということがありますし。そうなると、下手側、左側をどう使っていくか、のところがポイントになっていくのでしょうね。
やー…。なんか伝統ってすげぇっすね。勉強になります!

「SweetHome」をサンプルにしての考察も、自分で描いたものであることを忘れて興味深く読ませていただきました。

この漫画はWEBでの公開しか考えていなかったので、左右ページの効果は考えていませんでした。なので、「映像作品」のカメラワークに近いところがありました。
だから、意識したのは漫画では表現しにくい「時間」だったんですね。
同じカメラワーク、構図をはさむことで、読む人の視覚的な時間の流れをコントロールしようと思っていたところがあります。
画面の下手上手を意識せず描いていたのですが、リアルタイム感を意識することや魅力的なキャラクターに感情移入しながら描くことで、自然と仰っていただいたような演出ができていたのかもしれません。
指摘していただいて、「キョンが泣いてから長門は下手を向くようになる」というところ、自分でも初めて気がついて驚きました。
正面顔がはさまる部分も含めて、仰られるような長門の内面、感情面の大きな変化が、顔の向きでかなり演出されているように感じます。
いや、びっくりです^^;
実際…その…まぁ、読んでいただいてお分かりだと思うんですけど、かなり「本気」で描いたんですね。
悩んだり、配偶者に相談したりしながら。せっかく漫画を描く技術があるんだから、その技術をフルに使って描きたい、と思って。
絵的な技術に関してはまぁいろいろ仕方ない面はあるのですが、演出面、伝わるものにしていくこと、そこの技術に関しては経験値として「持っているもの」があったので、それを使いました。その経験値によって掴んでいた技術の中身に関しては、ちゃんと自分の中で体系化されてはいなかったのですが…なるほど、その中身の正体は「感情表現を画面として伝えていく」ものだったんですね。
とても勉強になりましたし、こうやって本気で読んでいただけて、改めて本当にありがたいです!

僕も、この記事を書いた時に、改めて「SweetHome」のことを考えたのですが、ラストページ。将来に向かって学校へと歩いていく画面、上手に向かっていくんですよね。
「あれ?じゃあ、俺、このシーンでミスしたのかな?」と思ったのですが、ここで全員が下手を向いている絵を想像してみたら、顔が真っ赤になるくらい恥ずかしくなったんですね。
なんかもう、ものすごく「わざとらしい」ものになっちゃうっていうか。それで、「ああそうか。ここは『確かなものが何も無い未来』という巨大で未知のものに、『立ち向かっていく』そういう絵になっているし、そうでないといけないんだ」と改めて気がつきました。
その意味では、未来や明日、あるいは今日というものは、自然とそこにあって向かっていくものでもあるだろうけど、同時に、こちらから立ち向かっていかなければならないものなんだ、というテーマとして完結していると言えるのかもしれません。言ってみれば、彼らは一旦そこから目を逸らそうとしたわけですし。
仰っていただいたこともそうですし、こうして自分で振り返ってみても、いろいろと発見があって、「描いてみるもんだなぁ」と改めて実感させられます。
そういうものが描けたのも、やはり魅力的な原作、キャラクターの存在あってこそだよなぁと心から思います。

≫時間軸にそった動きを描写することが本来不可能な漫画では、代わりに画面の持つ方向の意味性を活用し、コマ割りを工夫したり、それこそキャラの向きを上手にするか下手にするか正面にするか考えたりすることで、擬似的に読者に“時間”を体感させ、それにそった動きも体感させることができる

本当に仰る通りだと思います。こうして的確な言葉にまとめていただけて、改めて漫画の技術について理解が深まりました。ありがとうございます!

そういったことを、最低限紙とペンがあればできるわけですから、漫画っていうのは本当にすごいメディアですよね。

≫「日本の漫画は映画的手法を用いている」

漫画は歴史が浅いですから、教材や評価の基準が必要だったのだと思います。そのおかげもあって急速に発展していったところもあるのでしょうね。
僕も、「プロジェクトA」とか「ランボー」とか記憶するくらい何度も何度も見て、見せ方のタイミング、テンポなんかを学んだものでした。
動き、カット、カメラワークを頭に浮かべて、それを漫画の画面へと転換することで、読む側とも「画面の印象」を共有することができるのかもしれませんね。
だから、仰る通り手法が違うことでその「画面の印象」をどう伝えていくか、のところが技術になるのでしょうね。

≫“漫画のこのページのこのカットは変えないでください。アニメ化を想定して描いたカットなんですから”

やー(笑)
まぁ、漫画の画面って見る時は数秒だけど、ものすごく時間と労力がかかっているものですから。その方はそういうことを言えるだけ、そのカット、頑張って描かれたんだろうなぁと思います。
思えば、「イカ天」はすごく面白かったけど「エビ天」は正直ショボかったじゃないですか。映像独特の技術って、素人にはどうにも難しいものがあるんだろうな、と思います。
そして、富野監督の怒りには、玄人として映像技術を習得していても、素人にそう言われてしまうような、「下請け」的にならざるを得ないアニメーションの立場に対する忸怩たる思いも含まれているのかな、とも感じます。

映像のことも含めて、様々なエンターテインメントの技術が漫画にとって有意義なものになることは間違いないでしょうから、舞台、映画、様々なものをこれからもいろいろと学んでいきたいと思います。

お返事がすっかり遅くなってしまいましたが、これからもいろいろとまた教えていただけたら、と思います^^
風邪の方はいかがでしょうか?急激に暑くなっていますし、お体お気をつけ下さい。
最近、かなりがっちり休んで技術の練磨からも離れておりましたが、こうして書き込んでいただいて様々なことに気付かせていただいたことを糧に、またいろいろ励んでいきたいと思います!

お互い、マイペースであれこれ書いていきましょうね!
ではでは、またです^^

投稿: だんち | 2008年7月20日 (日) 04:51

>Yさんこんばんは。記事を読んで下さってコメントをありがとうございます^^

回転寿司の右から左への流れの話、とても興味深いです。番組が番組、ということは確かにありますが左から流れてくると取りにくくなる、というのはやはりありそうなことだ、と思えます。
映像や舞台、漫画の画面だけでなく、日常生活の様々な場面にそういうことがあるのでしょうね。

動きの向きが爽快感や感動、心理的な抵抗感や盛り上がりに繋がる部分がある、というのは面白いことですよね。
そういったことを通して自分自身や人間ということについて知っていけるということもいい経験で、刺激的です^^

僕も、漫画や映画を見る時、様々な事象に触れる時に動きの向きなどいろいろなことに興味を持って見ていこうと思いますし、漫画を描く時やいろいろなことに実践していけたら、と思います。

ではでは、またです^^

投稿: だんち | 2008年7月22日 (火) 01:11

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