「涼宮ハルヒの憂鬱・改」第15話を見た。
こんにちは、だんちです。先週金曜日、MXTVとTVKの連続で「涼宮ハルヒの憂鬱・改」第15話を見ましたので、感想を書きたいと思います。
*放送内容のネタバレ、場合によって原作ネタバレを含みますので、未放送地域の方、原作未読の方はお気をつけ下さい。
エンドレスエイト。15513回目でございます。
前回、この作品、今回のシリーズのテーマのようなものが見えたと感じたわけですが。ここまで繰り返してくることで、今回もそれがよりはっきりしてくる感じがしてきて、「繰り返し」から発見されることには独特の刺激があり、静かに盛り上がる高揚感を楽しく味わうことができました。
で。
前回の感想で書いた「心の中の赤信号。ブレーキ」というものを前提としつつ。今回感じたことを書いてみたいと思います。
ハルヒが宿題をちゃっちゃと済ませて遊び倒すことを「正しい夏休みの過ごし方」と言うわけですが、彼女が言う「正しい夏休み」が本当に「正しい」のであれば、ループなんてするはずがない。
つまり、それは「正しくない」ということになるのでしょう。
ハルヒが「正しい」と思う夏休みの姿を何度も何度も見てくるわけですが、それは彼女の主張と違い、実は間違っている。
何が間違っているのか。
そこを感じ取る部分は、視聴する人それぞれの感覚によってくるのでしょうけども、僕は僕の感覚しか持ち得ないので、僕の感じたことを書きますね。
と、注釈を入れるのは、「正しい」と彼女が断言したことそのものが問題だ、と感じるからです。
夏休みの過ごし方に、本来は正しいも間違っているもない。
しかし、「正しい夏休みの過ごし方」を定義したがために、「同じことを繰り返す」ループが生まれてくる。
「正しい」というレールなんか敷かなければ、もっと自由に、一度きりの夏休みを無理なく楽しみ、自然と思い出になったのかもしれない。
それは、アニメーションなどの娯楽嗜好品を楽しむ際にも言えることで。
こうでないといけない、ああでないといけない。
なんてことはどこにもない。
蕎麦もさ。
ちょいとだけ麺つゆにつけて、それをツルっと噛まないで飲むと美味いけど。でも、イチイチ「これが江戸っ子の正しい蕎麦のたぐり方だ」なんて言うこたねぇんだよ。勝手にやって楽しんでりゃいいことで、人に強制するこっちゃねぇ。
ハルヒが言う「正しい」に対するカウンターとして「間違っている」という言葉を使うわけですが、それは僕の感じ方であって、誰かを縛るものではない。
「正しい」「間違っている」という言葉は人の心をどこかに向ける「矢印」として、とても強力なのものだと感じるんですね。
「ハルヒが『正しい』って言ったことが間違ってるんだよ」とさくっと言葉にしてしまうと、それはその時点から何かを固定化してしまうような気がして、それはそれで「どうかな?」と思ったりするわけです。
ちょっと。
ややこしい?
ともかく。僕は、ハルヒが「正しい夏休みの過ごし方」と言ったこと、そう思ってそう実行しようとしていることそのものに、「間違い」がある、と感じます。
前回の感想で書いた、心の中の「赤信号」「停止線」。
それは、そういうことだと思うんです。
「正しい」とハルヒが思うこと、彼女の心の中で「これが正解だ」と定義されること。
それが、「赤信号」であり「停止線」になってしまう。
本来自由な夏休みの過ごし方、楽しみ方、遊び方、感じ方ができなくなって、制限されて、「満足」にどうしても一歩届かない。
その先に行けない。
もし、夏休みを楽しみきれなくて、後悔したとして。
それも、心のあり方として受け入れるべきものであって、否定されることなんかじゃない。
それだって、人の心だってことですよ。
それでも前に進む。未来に進むのが、人間なんだから。
でも、一旦「正しい」を定義してしまっているから、はみ出せなくなる。
自分で自分にルールを課し、縛ってしまう。
なんとも。ハルヒが実はとても常識的な人間(精神構造において)であることが、とてもよく出ているように思います。
では、彼女が思う「正しい」はどこから出てきているのか?
当然、それは自分の基準からなわけです。
でも、キョンにはキョンの、他のメンバーには他のメンバーの基準がある。人それぞれ、捉え方は違うし、過ごし方だって違うはず。
にも関わらず、ハルヒが「楽しい夏休みってこういうものでしょ?」と最大公約数的に漠然と考え、それを「正しい」と定義しているのだとしたら。
どうしたことか。
彼女がとても嫌がっている「常識に縛られた」姿が浮かび上がってくることになります。
「エンドレスエイト」のハルヒは、ものすごくハルヒらしくなく、そして同時に、とてもハルヒらしい、ということが言えるのかもしれません。
「自分達だけにしかあり得ない夏休みの楽しみ方」を模索するのではなく、最大公約数的に「正しい」を求めて。
その結果。「こんなものだったかしら」と首をかしげる。
そりゃ、そうだよね。
ってことですよ。
じゃあ、なんでそうなるのか。
「たった一度きりの高一の夏休み」と言うように、それは、それまで彼女が経験してきた夏休みとはそもそも別物だ、ということから来るのでしょう。
子供だった頃の夏休みとは違うし、でも、別にまだ大人ではないし。
変化の途中にある高一の夏休みは、彼女が言う通りで、本当に「一度きり」しかない。
まぁ、それぞれの年に経験するどの夏休みも、全て「一度きり」なわけですが。
でも、ハルヒという人物の歩んできた生き方を振り返って見ると。
小学生時代はそれなりに楽しくやっていた。
中学に入って独りで特別なものを探し出した。
高校に入ってSOS団を結成した。
という略歴を書き出せます。
中学時代の夏休みは、家族と過ごしたりはしたとしても、主に心理的に孤独であったとするならば、彼女の言う「正しい夏休み」は小学生時代の記憶を元に構成したものになる。
だからこそ、なのか。
ループする夏休みは、まるで「記憶を何回も再生している」かのような、どこか「絵に描いた」かのような、不自然な楽しさを毎回見せてくれています。
どこかが欠けていたり、ディテールが違っていたり。
絵に描かれたような見事な入道雲の下。
ハルヒが迎える高一の夏休みは、小学生以来の「楽しい夏休み」であるのかもしれない。
記憶で構成された「正しい夏休み」を過ごすことは確かに楽しいかもしれないけど、それは、頭の中で思い描いてきたものをなぞることに近くて、気がつくと、「最大公約数的に夏休みを過ごす」ことと大差ない状況を生んでいるのかもしれない。
OPの歌詞の中で、「未経験」「未体験」ということが歌われるわけですが。
一度きりの高一の夏休みは、一度きりであるがゆえに、そしてハルヒが小学生以来夏休みを楽しんでいなかったのであれば、そのこともあり、「思春期の夏休み」として、まさに「未経験」「未体験」のものである、ということが言えるのだと思います。
そうなると。そもそもそこには正解なんてなくって、経験して体験して、「自分の夏休み」「自分達の夏休み」を獲得していくことになる。
正解なんてない。
にも、関わらず。
ハルヒは「正解」を設定し、それに従おうとする。
彼女がしたくないはずの最大公約数的な夏休みに埋もれようとする。
結果として、そうなったのならば、それは自ら獲得した経験、体験だけれども、最初からそれを目指して設定された「正解」をなぞって経験することは、やっぱり違う。
実際、SOS団と過ごす夏休みは初めてなわけだしね。
キョンがハルヒにとって気になる異性であるのなら、気になる異性と過ごす夏休みなんてのも、初めてなのかもしれない。
全ての正解をとっぱらって、目の前にあるあらゆることを、未経験、未体験として考えるならば、僕が見ている物語は、「ハルヒ初体験物語」となるわけかっ!!!!!!!!!!!!
はぁはぁ…。
まぁでも。何事も初体験はドキドキするってわけですよ。
過去の記憶を元にしたものなのか、最大公約数的に夏休みの過ごし方を「正しい」と設定して行動しないと、何をしていいのか分からないのでしょう。
でも、その設定こそが心の中の赤信号になり停止線になるのであれば。
それをぶち壊す「初体験」を与えなければならない。
彼らにしかできない夏休み。
彼らが出会ったからこその経験。体験。
それを、ハルヒに与え、そしてみんなで一緒に経験する。
思えば。
ラブラブ加減が印象的な、ハルヒがキョンにたこ焼きをあげるシーン(キョンがちゃんとお礼を言うのがちょー大好き!!キョンがハルヒにお礼を言うって、なかなか無いっすよね!!)。
ああやって、ハルヒがキョンに何かを与えているっていうのは、珍しく、とても印象的です。
キョンは飲食代を出したりはしているわけだけど、「もらった」ことに対して、まだ「お返し」をしてないんですよね。
もちろん、ハルヒは見返りなんかを期待してるわけじゃないだろうけど。
でも、意味のあるシーンとして見ることはできるのかもしれない。
何かを丸々与えるのではなく、何かを一緒に共有していく。
夏休み。いろいろ一緒にしているけど。自分のたこ焼きを一緒に食べたけど。
キョンの何かをハルヒはまだ与えられていない、ともいえるかもしれない。
それは、正解を設定して出てくるものではなく、キョンだからこそ与えられるものなのかもしれない。
彼らだからこその夏休み。そのうちの、8月31日の、一日。
やはりそれは、キョンが与えなければならないものなのでしょう。たこ焼きもらったからね。
恩返しは、セミではなく、キョンがしなければならなかったのか!!おぉ。
ハルヒが「正しい夏休み」として敷いてしまったレール。
それが、9月1日へと進むことを阻む赤信号であり停止線であるならば。
それをぶち壊し、前へと進む「経験」「体験」をキョンが与えなければならない。
他のみんなは赤信号で立ちすくんでいるしね。
それは、別の正解を与えることでは、きっと無いでしょう。
そういうことじゃない。
前へ進むっていうのは、きっと、そういうことじゃない。
彼らが、それをそうと思うかどうかは別として。
立ちすくみ、何度も何度も同じことを繰り返す彼らを見ていて、浮かび上がってくる様々なことを感じて、こうして言葉にすることは、とても有意義で楽しいです。
ここまで繰り返されなければ、こんなことまで考えなかったかもしれない。
これも、経験。そして体験。
物語を見ることで得られる体験は、やはり僕にとって、とても貴重なものだと改めて感じます。
彼らが、次回、前に進めるのか。進めないのか。
彼らの姿を見て、何を感じるのか、何を体験するのか。
とても楽しみです!
ではでは、またです!
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