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2009年7月23日 (木)

「涼宮ハルヒの憂鬱・改」第16話を見た。

 こんばんは、だんちです。先週金曜深夜、MXTVとTVKとで連続で「涼宮ハルヒの憂鬱・改」第16話を見ましたので、感想を書きたいと思います。

 *放送内容のネタバレ、場合によって原作ネタバレを含みますので、未放送地域の方、原作未読の方はお気をつけ下さい。

 
 
 「エンドレスエイト」。
 えっと。155…何回でしたっけ。
 まぁ、いいや。

 非常に、イカレタ感じの演出が良かったです。今回も楽しく見ました。

 何度も繰り返されることで、記憶の残滓の蓄積もあってか、いろいろと狂った感じが出てきていて。いよいよ、終わらない夏休みに対して、画面の向こうの彼らも限界なんだな、と思えてきます。

 だからこそ、何の手も打たずに8月30日を迎えてしまった、というキョン達の様子に、やはり思うところがあるわけです。

 自分の未来が絶対に欲しい。

 そういう渇望は、無いのかい?
 って。

 前回、ハルヒの心の赤信号のことを書きましたが、今回見ていて、ハルヒ以外のSOS団の面々の、ただ手をこまねいている様子が気になりました。
 そこは、今回特に強調して見せてくれた部分でもあるんでしょうね。

 それぞれ、監視だったり観測だったり、目的はいろいろあるけども。
 それは、ある意味「他人事」だったからこそできる役割だったのかもしれない。
 もう、巻き込まれているし、当事者になっている。
 なのに、

 ただ、見てるだけの女。
 ただ、泣くだけの女。
 ただ、力なく笑うだけの男。
 ただ、何もできない男。

 なんというか。
 リアルっすね。

 新EDが初めて流れた時、一緒に見た配偶者が「あぁ。今回は、きっといろんな意味でシリアスなんだね」と言ったんですけど、ここまで「エンドレスエイト」が繰り返されてくることで、なるほど、と改めて思わされるものがあります。

 しつこく繰り返される「エンドレスエイト」は、そのまま視聴者に「体験」を与えるものであるでしょう。

 ならば、その体験を通して何を感じ取るか、というところが、僕にとってとても大事なことになります。

 「未来がやってこない」というその状況。
 それは、本来はありえないことなわけですが、でも、そこで「未来は勝手に流れてくるもの」という意識が浮き彫りになることを感じます。

 8月31日に「どうにでもなれ」と投げ出すキョン。
 刻一刻と零時が近づくラスト。
 何かできないのか。
 何かすべきことはないのか。
 その数秒は、何かをできる時間ではないのか。
 しかし、何も考えられることも、されることもなく、秒針は「12」を指す。

 それは、誰しも経験があるような類のものなのかもしれない。

 未来がなくなって、同じ時間を繰り返すことは、僕の身には起こりえない。
 でも、同じようなシチュエーションで似たような失敗を繰り返すことは、ありうるように思える。

 いわゆるあれですよ。「今度本気出す」ってやつ。
 それに近いのかもしれない。
 その時本気出せないのに、次のループで本気出せるわけがない。

 それはキョンだけでなく。
 深刻なその状況に気がつきながらも、何もできない全員。
 本気で未来に行きたいと望む者はいないのか?
 もしくは、誰も本気で未来を望んでいないのか?

 「次はなんとか…」と思ったところで、その「次」でなんともできない。
 そしてまた「次はなんとか」と思う。
 そのプロセスを何度も何度も見てきて、それを視聴体験として感じることは、「その時本気出さないヤツは、同じ失敗を何度だって繰り返す」ってことでしょうか。

 本気を出せない理由はいろいろあるでしょうけど。
 やはり、夏休みをみんなと遊んで過ごしているからこそ、いまいち新学期という未来に対して本気になれないのかもしれない。
 OP、EDであんなに全力疾走してるのにね。

 OP、EDの「全力疾走」と「本気」ということとを繋げて見てみると、いろいろと考えさせられる現実的なテーマも見えてくるように感じます。

 それを考えてここまで「エンドレスエイト」を繰り返しているのか、というと、それは分からないのですが。
 でも、「ハルヒ」のキャラクター達が物語としての誇張表現を含みつつも、現実感を持っていたり、生身感、実在感が感じられたりするところに、演出意図や意識を見ることができるように思います。
 あれだけ出来上がっているキャラクターや世界観だから、実際に「エンドレスエイト」を繰り返すことで、「何」が浮かび上がってくるのか、を表現したいところがあるのかもしれないな、と感じたりします。
 それは、「意図しない」ことで生まれる「演出意図」なのかもしれない。
 「体験」性を前面に押し出しつつ、「意図」の部分を意識的に薄めているように思えるんです。逆にこういう性質の作品、話で「こういう意図なのでござい」とすると、変に説教くさくなっちゃったりするしね。

 と。「視聴体験」として受け取ることから、作り手視点に移りつつありますが。
 とっちらかってもいいや。

 作り手視点に立つと。
 意図をなるべく消して、キャラクターの体験を前面に出す方法論として勉強になるように感じます。
 今回は、かなり意図してキョンの視点にカメラを置いてましたしね。
 映画的、演劇的な方法論を感じるといいますか。
 何度も繰り返すことで、「エンドレスエイト」という戯曲があって、それを各演出家が演出してるっていうような舞台として見れるのかもしれない。
 「らき☆すた」の感想で書いたこともあったと思いますが、「ゴドーを待ちながら」が現代演劇に与えた影響のことなんかを、改めて思い出したりもします。

 「ゴドー」を待ってずっと遊んでる。だけど、「ゴドー」は来ない。
 それを演じる。演出する。観る。
 そこに生まれてくる意味性。

 「エンドレスエイト」でハルヒ達は別に「ゴドー」ような存在を待っているわけではないけども。
 でも、繰り返される夏休み最後の二週間を何度も見てくることで感じる「体験」という部分に、通じるものを感じるのです。

 やはり、いろんなジャンルの作り手も「ゴドー待ち」の影響って受けてると思うんですよね。
 いろんな形で。
 そして、受けた影響に対して、作り手として何かしらの答えを出そうとするというか、表現しようとする…。その欲求。
 そういったものを感じるし、やはり、原作者様からして同年代なので、どうにもシンパシーを感じること大なのでございます。
 興奮してくるものがありますね。「おぉ…やるなぁ!」って。

 「エンドレスエイト」という「舞台」を演じきることで、何を掴むのか。何を表現できるのか。
 それは、演じてみることで獲得できるものなのかもしれない。

 そこで生まれる意味、意義、何か、はその「舞台」を人が見ることによって形作られていくのかもしれない。
 「ゴドー待ち」の、ある意味で「現代版」あるいは「発展」などとして見るならば、意味や意義の定義はしないこともまた必要なのかもしれない。
 前回書いた「正しい」と定義することが赤信号になる。ということと同じで。

 でも、生身の役者が汗だくになりながら演じる演劇に通じるものを感じるところで、やはりOP、EDの「全力疾走」には「意味」や「意義」「意図」を感じるところもあります。

 「エンドレスエイト」という戯曲が完結する時に、何を感じるのか。今まで受けてきた印象含めて、この視聴体験が自分にとって何をもたらすのか。
 一人の作り手としても、自分が受けてきた影響を振り返る機会になっているし、とても有意義なものとなることを感じます。

 来週も…というか、神奈川は明日深夜!!楽しみです!

 ではでは、またです!

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コメント

エンドレスエイトは私達を試しているのです。
あんなこと言ってた頃が懐かしい(ォィ

投稿: 機関の人 | 2009年7月27日 (月) 08:22

機関の人さん、こんにちは。初めまして。いろいろと見て下さってコメントをありがとうございます^^
楽しんでいただけているようで、とても嬉しいです!!
四コマや漫画、感想など、これからもいろいろと描いていきますので、是非また見てやって下さいね!

ではでは、またです^^

投稿: だんち | 2009年7月31日 (金) 02:57

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 …では、今回は八行前後に。時間も体力もキツいんで。  エイト、イコール8月ってことですね。今回は、夏休みのお話というわけです。ところが、もう随分と社会人生活の長い私の夏休み体験は、最も近くの大学生時代でも、既に20年前とあって、記憶がどうにもあやふやで…。  ……………………………………………んんー。  …………………………………………んー。  ………………………………………ん。  ……ん?んんん?  …あれ?…私、以前にもこんなこと、書きました... [続きを読む]

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