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2009年9月21日 (月)

「涼宮ハルヒの憂鬱・改」第24話を見た。

 こんにちは、だんちです。「ハルヒ・改」第24話を見ましたので、感想を書きたいと思います。

 
 
 
 
 
 「溜息」ラスト!!!!!!

 面白かった!!

 非常に、「ハルヒ」らしい回でとても楽しみました。
 軽妙さと、じんわりとした重さが同時に存在する様は、感情移入しないではいられない世界観を改めて感じさせてくれました。

 前回、「つまらない」を軸にしたハルヒとキョンの立ち位置の違いが解消され、二人は映画撮影に向け一致して取り組むことになりました。
 これは、通常ならばとても綺麗なまとまり方で、そこで終わらせて、後はエピローグにしたっていいくらいだと感じます。
 でも、そこでは終わらない。

 むしろ、満開の桜が示すように、「これからが始まり」であるように受け止められると思っていたのですが、その観点を持ちつつ見た今回、非常に面白かった!

 今回、谷口の出番はありませんでした。

 「溜息」で、なんだかんだとハルヒの内面や心情を間接的に説明する役割を得ていた彼がいなくなり、代わりにシャミセンが重要な投げかけをしてみたりして、「溜息」に示される物語の姿が変容する。

 「正しい意思伝達をおこなっているかどうかなど、誰にも解らない」

 古泉は、「本音と立て前」の使い分けを当てはめ納得し、みくるも「言われてみればそう」だと言う。
 長門もまた、「わたしの言葉が真実であるという保証も、どこにもない」と言う。

 楽しく活動しているSOS団の、血肉を伴った真実の姿が、ここに来てついに見えてきたといえるのかもしれません。
 それぞれが、それぞれの立場を持っていて、心を許していない。

 
 谷口が出て来ないことで、一気に客観性が消え、物語の中に「代弁者」というような存在がいなくなる。
 そこで、物語が物語ではなく、彼らにとっての現実であることが明確になることを感じます。
 この、谷口の「出し」「引き」に、物語を作る人間として、鳥肌が立つくらいの感銘を受けてしまいます。

 構図としてまとめると。

 谷口が狂言回しというか、客観の代表者的な存在として登場している時は、「物語を見せていますよ」という姿が作品にあり、登場人物達は、「涼宮ハルヒの憂鬱」(エピソード「溜息」)を演じている、というある意味「通常の物語」の見え方がある。

 しかし、谷口が出てこなくなり、登場人物達を客観的に見る存在がいなくなる。
 代わりに出てくるシャミセンは、ある意味「主観のみ」の存在。ものすごくバッサリと客観的事実の在りようを不確定なものとして提示する。(しかし、定義ではなく。やはり「主観のみ」であるがゆえ)

 そして、「演じている者」が「こう演じている」という主観にドラマが切り替わり、彼ら自身の物語を感じさせてくる。
 それはもう、彼らにとっては物語ではなく、「現実」なわけです。

 「物語」と「現実」。

 「客観」と「主観」。

 その、じんわりと重い切り替わり。
 かっこいい言い方をするならば「ドラスティックな変化」という感じかもしれない。

 それが、映画作りのエピソードと重ねて描かれる。
 フィクションをフィクションだと分かっているはずのハルヒが、映画を撮る中で超常現象を発現してしまうようになり、物語の中の現実と虚構があやふやになる。
 それをなんとかしようとする彼らの物語は、「超常的な事態に立ち向かう高校生達の物語」のように見えて、その実、それぞれの立場を静かに主張し合い、バランスを取りながらお互いの言うことを受け入れない人間模様を見せてくる。それが、彼らにとっての現実で、「本来の物語」であるのならば、それまでの「~~高校生達の物語」はまさに虚構になる。

 それは、時系列で見てくる中で、それまでの全ての活動に当てはまることで。
 それまでの楽しそうだった彼らの姿が、がらっと「虚構」の出来事に変わる。

 その意味では、ハルヒが映画を作る過程で「虚構」と「現実」を混ぜてしまうことを止めようとした彼らの物語にも、「虚構」と「現実」が混ざってしまうという現象が起こる。
 本音も立て前も、両方晒してしまう。

 それは、見ようによっては、「本当の物語が始まった」と捉えることが、やはりできるのかもしれません。

 
 古泉は「本音と立て前」と捉えたけれども、シャミセンが言っていたことは主観と客観の存在、視座によって事実の見え方が変わることについてであって、古泉の捉え方はわざと意図を乗せたものにも思えます。それとも「思わず」なのか。
 それは、彼があの口調に反してかなり主観的な人間臭いヤツであることを証明しているように思えて興味深い。
 みくるは未来人であるがゆえに、客観的立場にいるしかない人間であることも、彼女の立場からの「ハルヒ現象」の捉え方に見ることができるかもしれませんね。

 長門はシャミセンと近くて、超主観的。人間外であるがゆえ。
 みくる的な客観性を持ちつつ、古泉的主観性に近いところがあるのかもしれない。そうやって見ると、映画の中の長門と古泉の「交渉シーン」は非常に面白いですね。

 
 だいぶ、ややこしい書き方をしているのは、わざとなんですけれども。
 感じたことを言葉にしていくと、こうなってしまうので、仕方ない。
 
 綺麗にまとめるのではなく、ややこしい部分を提示して投げっぱなしで終わっていった「溜息」に、「ハルヒ」シリーズの基礎、根本を改めて見る思いを持ち、興奮しているのであります。

 「憂鬱」のラストから繋がるハルヒとキョンの二人きりの学外活動シーンが、その意味でもとても印象的でした。
 ハルヒは、長門、みくる、古泉が、宇宙人、未来人、超能力者であることをバッサリ否定する。
 日常接する客観的情報から、常識的主観をもってそう思えるのでしょう。
 しかし、映画という非現実客観ツールによって、非現実的主観が顕現する。

 現実と物語が、混在していく。

 ハルヒは映画を撮ろうとした。
 キョンは映画をフィクションと定義させた。

 そこにあるのは、「意思」ということになるのでしょう。

 「物語」を「物語」とすることも、「現実」を「現実」とすることも、主観者の意思によって決定されていく。

 谷口なんかは、願望は持っていても意思を持たないで、ただ「つまんねぇ」と言う。
 映画撮影に協力しても、出番が終わったら「帰っていい」と言われ、帰ってしまう。

 キョンからバカな話を聞かされたハルヒは席を立ち喫茶店から出て行く。
 しかし、立ち止まり振り返る。
 立ち止まるのも、振り返るのも、「意思」によるもの。
 その意思は、見ているこちらに充分過ぎるほど伝わるように、キョンにも伝わったことでしょう。

 「正しい意思伝達をおこなっているかどうかなど、誰にも解らない」

 だからこそ、意思を持って立ち止まり振り返るのでしょう。
 無意識下では物語と現実がごっちゃになってしまっていたとしても。
 怒鳴りあったりしょんぼりしたりしながら、意思を持って行動するのでしょう。

 それがまた、とても「現実的」だと感じる、その自分の主観に触れられることは、とても面白いのでございます。

 物語という「客観」を面白いと思うかどうか、が「主観」であるように、
 自身の人生を面白いと思うかどうか、も「主観」なのでしょうね。

 それを、「涼宮ハルヒの憂鬱」という物語を見て感じるところがまた、とても面白い。

 時系列に放送されることで、「本当の物語が始まった」ように見える彼らの「現実」。
 彼らがどんな主観を見せてくれるのか。感じさせてくれるのか。
 「溜息」によって与えられた視座でもって、今後も「ハルヒ」の世界を存分に楽しんでいきたいものであります。

 ではでは、またです!

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